16 / 32
刑務庭送り 3
しおりを挟む
「天を解放するのだ」
刑務官たちの間からざわめきが起こった。
顔を上げれば、まっすぐにこちらに向かってくる雄々しい青褐色の獣人が目に映る。雨に煙る灰色の風景のなか、彼の琥珀色に輝く双眸は怒りを漲らせていた。
「エド……?」
どうしてここに。
彼の名を決して明らかにしないと誓ったのに。
エドに迷惑をかけたくないのに。
それなのにエドは確かな足取りで、眦を吊り上げながら、跪く天の傍にやってくる。
「あ、あなたさまは……!」
上官は急に態度を翻して、舞台に上がるエドの前に深く頭を垂れた。鞭を投げ捨て、天から奪った翡翠の欠片を千切れた革紐ごと慇懃に差し出す。
「天は連れて行く。貴様の罪人に対する横暴は耳に届いている。処分を追って待て」
頭を上げることのできない上官の手からエドは宝玉を掬い取る。なぜか翡翠はそれに呼応するように、光の輪を狭めていき、警告めいた輝きは収束した。
エドは拘束されていた天の縄を解く。上官に倣い、他の刑務官もエドに平伏している。
一体、なにが起こったのだろう。刑務官たちに有無を言わせないほど、エドの官位は高いのだろうか。
天の軋んだ身体が、ふわりと逞しい腕に抱き上げられる。ずぶ濡れの冷えた身体は温かなぬくもりにすっぽりと包み込まれた。
「……エド、濡れちゃう……」
雨と泥で汚れた天を抱けば、彼の上等な長袍が穢れてしまう。
緊張の糸が切れてしまったせいか、意識が朦朧とする。身体のどこにも力が入らない。エドに横抱きにされたまま、門の外に連れられる。
どこへ、行くのだろう。僕には帰る場所なんてないのに。
「迎えに来た。これからはおまえを誰にも好きなようにさせない」
汚れることなど全く厭わず、エドは力強く言い聞かせた。
ああ、エドの心のなかにまだ、自分は存在していたのだ。
じわりと胸の奥が温まり、喜びが湧き出る。
もうこんな気持ちにはなれないと思っていた。二度と会えないことに滂沱の涙を流した。
けれどエドは身の危険を冒してまで、天を思いやってくれたのだ。
震える指で金糸の刺繍が施された襟元に縋る。指先は感覚がなかった。
「会えて……うれしい……」
きつく抱きしめられ、安堵の海に沈む。天の意識は雨に煙る景色と曇天のように境目なく漂った。
ゆらゆらとたゆたう温かな感触にふと意識が戻れば、噎せ返りそうなほどの薬草の芳香に包まれていた。心配げに覗き込むエドの顔を、立ち上る湯気が撫でている。
「あ……」
エドに抱かれながら、石造りの広い湯船に入れられていた。湯の中でゆるりと衣服を脱がされ、一糸纏わぬ姿を晒す。大きな掌に温かな湯をそっとかけられて、その心地良さにほうと淡い吐息が零れる。
「あったかい……」
「身体が冷え切っている。この薬湯で温まるのだ。回復するまで、抱いている」
ここは、どこなのだろう。このように広く豪華な浴室は初めてだ。
これはもしかして、夢なのだろうか。辛い現実から逃れようと自らが見せた幻なのかもしれない。
それでもいい。エドに会ったら、どうしても言わなければならないことがあった。たとえ夢のなかでも、彼に謝りたい。
天は強靱な肩に縋りついた。涙を浮かべながら必死に言葉を紡ぐ。
「灯籠流しに……行けなくてごめんなさい。僕は、エドに迷惑をかけたくなかったんです」
「よいのだ。私のほうこそ、昨日の昼は川辺に行けなくてすまなかった。急な会談が入ってしまったのだ」
彼は天に飽きたわけではなかった。助けに来てくれたのが、なによりの証だ。
これは都合の良い夢かもしれないが、エドの深みのある声音でそれを知らされただけで、充分に報われた。
「短冊を……燃やしてしまって……」
想いを込めた短冊は灰になってしまった。もう願いは、叶わない。混濁した意識のなかで唇を震わせる天を、逞しい腕がきつく抱き留めた。
「私と共に舟を流すのは、おまえだけだ。天が灯籠流しに現れない理由を知ったとき、私は己の愚かさを呪った」
エドが綴る言葉は、どこか遠くから響いてくるようだ。
灯籠流しはもう終わってしまった。綺麗だったろうか。またいつか、見られるだろうか。
水面に漂う天は水滴を纏わせた睫毛を瞬かせる。漆黒の髪は濡れ羽のようにしっとりと艶めいて、華奢な白い四肢は扇情的に雄を誘う。
エドは琥珀色の双眸を獰猛に眇めた。
「天……おまえのうなじを噛みたい」
刑務官たちの間からざわめきが起こった。
顔を上げれば、まっすぐにこちらに向かってくる雄々しい青褐色の獣人が目に映る。雨に煙る灰色の風景のなか、彼の琥珀色に輝く双眸は怒りを漲らせていた。
「エド……?」
どうしてここに。
彼の名を決して明らかにしないと誓ったのに。
エドに迷惑をかけたくないのに。
それなのにエドは確かな足取りで、眦を吊り上げながら、跪く天の傍にやってくる。
「あ、あなたさまは……!」
上官は急に態度を翻して、舞台に上がるエドの前に深く頭を垂れた。鞭を投げ捨て、天から奪った翡翠の欠片を千切れた革紐ごと慇懃に差し出す。
「天は連れて行く。貴様の罪人に対する横暴は耳に届いている。処分を追って待て」
頭を上げることのできない上官の手からエドは宝玉を掬い取る。なぜか翡翠はそれに呼応するように、光の輪を狭めていき、警告めいた輝きは収束した。
エドは拘束されていた天の縄を解く。上官に倣い、他の刑務官もエドに平伏している。
一体、なにが起こったのだろう。刑務官たちに有無を言わせないほど、エドの官位は高いのだろうか。
天の軋んだ身体が、ふわりと逞しい腕に抱き上げられる。ずぶ濡れの冷えた身体は温かなぬくもりにすっぽりと包み込まれた。
「……エド、濡れちゃう……」
雨と泥で汚れた天を抱けば、彼の上等な長袍が穢れてしまう。
緊張の糸が切れてしまったせいか、意識が朦朧とする。身体のどこにも力が入らない。エドに横抱きにされたまま、門の外に連れられる。
どこへ、行くのだろう。僕には帰る場所なんてないのに。
「迎えに来た。これからはおまえを誰にも好きなようにさせない」
汚れることなど全く厭わず、エドは力強く言い聞かせた。
ああ、エドの心のなかにまだ、自分は存在していたのだ。
じわりと胸の奥が温まり、喜びが湧き出る。
もうこんな気持ちにはなれないと思っていた。二度と会えないことに滂沱の涙を流した。
けれどエドは身の危険を冒してまで、天を思いやってくれたのだ。
震える指で金糸の刺繍が施された襟元に縋る。指先は感覚がなかった。
「会えて……うれしい……」
きつく抱きしめられ、安堵の海に沈む。天の意識は雨に煙る景色と曇天のように境目なく漂った。
ゆらゆらとたゆたう温かな感触にふと意識が戻れば、噎せ返りそうなほどの薬草の芳香に包まれていた。心配げに覗き込むエドの顔を、立ち上る湯気が撫でている。
「あ……」
エドに抱かれながら、石造りの広い湯船に入れられていた。湯の中でゆるりと衣服を脱がされ、一糸纏わぬ姿を晒す。大きな掌に温かな湯をそっとかけられて、その心地良さにほうと淡い吐息が零れる。
「あったかい……」
「身体が冷え切っている。この薬湯で温まるのだ。回復するまで、抱いている」
ここは、どこなのだろう。このように広く豪華な浴室は初めてだ。
これはもしかして、夢なのだろうか。辛い現実から逃れようと自らが見せた幻なのかもしれない。
それでもいい。エドに会ったら、どうしても言わなければならないことがあった。たとえ夢のなかでも、彼に謝りたい。
天は強靱な肩に縋りついた。涙を浮かべながら必死に言葉を紡ぐ。
「灯籠流しに……行けなくてごめんなさい。僕は、エドに迷惑をかけたくなかったんです」
「よいのだ。私のほうこそ、昨日の昼は川辺に行けなくてすまなかった。急な会談が入ってしまったのだ」
彼は天に飽きたわけではなかった。助けに来てくれたのが、なによりの証だ。
これは都合の良い夢かもしれないが、エドの深みのある声音でそれを知らされただけで、充分に報われた。
「短冊を……燃やしてしまって……」
想いを込めた短冊は灰になってしまった。もう願いは、叶わない。混濁した意識のなかで唇を震わせる天を、逞しい腕がきつく抱き留めた。
「私と共に舟を流すのは、おまえだけだ。天が灯籠流しに現れない理由を知ったとき、私は己の愚かさを呪った」
エドが綴る言葉は、どこか遠くから響いてくるようだ。
灯籠流しはもう終わってしまった。綺麗だったろうか。またいつか、見られるだろうか。
水面に漂う天は水滴を纏わせた睫毛を瞬かせる。漆黒の髪は濡れ羽のようにしっとりと艶めいて、華奢な白い四肢は扇情的に雄を誘う。
エドは琥珀色の双眸を獰猛に眇めた。
「天……おまえのうなじを噛みたい」
0
お気に入りに追加
564
あなたにおすすめの小説

僕はあなたに捨てられる日が来ることを知っていながらそれでもあなたに恋してた
いちみやりょう
BL
▲ オメガバース の設定をお借りしている & おそらく勝手に付け足したかもしれない設定もあるかも 設定書くの難しすぎたのでオメガバース知ってる方は1話目は流し読み推奨です▲
捨てられたΩの末路は悲惨だ。
Ωはαに捨てられないように必死に生きなきゃいけない。
僕が結婚する相手には好きな人がいる。僕のことが気に食わない彼を、それでも僕は愛してる。
いつか捨てられるその日が来るまでは、そばに居てもいいですか。

【完結】何一つ僕のお願いを聞いてくれない彼に、別れてほしいとお願いした結果。
N2O
BL
好きすぎて一部倫理観に反することをしたα × 好きすぎて馬鹿なことしちゃったΩ
※オメガバース設定をお借りしています。
※素人作品です。温かな目でご覧ください。

アルファだけど愛されたい
屑籠
BL
ベータの家系に生まれた突然変異のアルファ、天川 陸。
彼は、疲れていた。何もかもに。
そんな時、社の視察に来ていた上流階級のアルファに見つかったことで、彼の生活は一変する。
だが……。
*甘々とか溺愛とか、偏愛とか書いてみたいなぁと思って見切り発車で書いてます。
*不定期更新です。なるべく、12月までメインで更新していきたいなとは思っていますが、ムーンライトノベルさんにも書きかけを残していますし、イスティアもアドラギも在りますので、毎日は出来ません。
完結まで投稿できました。


キンモクセイは夏の記憶とともに
広崎之斗
BL
弟みたいで好きだった年下αに、外堀を埋められてしまい意を決して番になるまでの物語。
小山悠人は大学入学を機に上京し、それから実家には帰っていなかった。
田舎故にΩであることに対する風当たりに我慢できなかったからだ。
そして10年の月日が流れたある日、年下で幼なじみの六條純一が突然悠人の前に現われる。
純一はずっと好きだったと告白し、10年越しの想いを伝える。
しかし純一はαであり、立派に仕事もしていて、なにより見た目だって良い。
「俺になんてもったいない!」
素直になれない年下Ωと、執着系年下αを取り巻く人達との、ハッピーエンドまでの物語。
性描写のある話は【※】をつけていきます。
【完結・ルート分岐あり】オメガ皇后の死に戻り〜二度と思い通りにはなりません〜
ivy
BL
魔術師の家門に生まれながら能力の発現が遅く家族から虐げられて暮らしていたオメガのアリス。
そんな彼を国王陛下であるルドルフが妻にと望み生活は一変する。
幸せになれると思っていたのに生まれた子供共々ルドルフに殺されたアリスは目が覚めると子供の頃に戻っていた。
もう二度と同じ轍は踏まない。
そう決心したアリスの戦いが始まる。
オメガバース 悲しい運命なら僕はいらない
潮 雨花
BL
魂の番に捨てられたオメガの氷見華月は、魂の番と死別した幼馴染でアルファの如月帝一と共に暮らしている。
いずれはこの人の番になるのだろう……華月はそう思っていた。
そんなある日、帝一の弟であり華月を捨てたアルファ・如月皇司の婚約が知らされる。
一度は想い合っていた皇司の婚約に、華月は――。
たとえ想い合っていても、魂の番であったとしても、それは悲しい運命の始まりかもしれない。
アルファで茶道の家元の次期当主と、オメガで華道の家元で蔑まれてきた青年の、切ないブルジョア・ラブ・ストーリー
運命の番は姉の婚約者
riiko
BL
オメガの爽はある日偶然、運命のアルファを見つけてしまった。
しかし彼は姉の婚約者だったことがわかり、運命に自分の存在を知られる前に、運命を諦める決意をする。
結婚式で彼と対面したら、大好きな姉を前にその場で「運命の男」に発情する未来しか見えない。婚約者に「運命の番」がいることを知らずに、ベータの姉にはただ幸せな花嫁になってもらいたい。
運命と出会っても発情しない方法を探る中、ある男に出会い、策略の中に翻弄されていく爽。最後にはいったい…どんな結末が。
姉の幸せを願うがために取る対処法は、様々な人を巻き込みながらも運命と対峙して、無事に幸せを掴むまでのそんなお話です。
性描写が入るシーンは
※マークをタイトルにつけますのでご注意くださいませ。
物語、お楽しみいただけたら幸いです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる