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リサイタルへ 2

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 スタッフに付き添われた久遠が姿を現した途端、割れんばかりの拍手が轟く。
 正面を向いた久遠は、観客に深く一礼をした。漆黒の燕尾服が、長身の体躯に映えている。歩夢は双眸を細めて、久遠の雄姿を瞳に収めた。
 久遠がピアノに向き合い、鍵盤に手を添える。一転して場内は静寂に満ちる。
 痛む静寂を鋭い刃で薙ぐように、力強い和音が久遠の手から繰り出された。続けて高速のアルペジオが展開される。
 ショパンのピアノ独奏曲として広く世に知られる、『革命のエチュード』
 急速なパッセージが連続する十六分音符を弾きこなすには、高度のテクニックを要する。
 それを技巧のみに依らず、情感を込めて表現する神嶋久遠は、まさに盲目の魔術師と呼ばれるに相応しい。
 久遠は憑かれたように音を奏でる。観客は圧倒的な演奏に酔いしれた。
 すごい……久遠さん……。
 瞬きもせず、久遠の紡ぎ出す芸術を体のすべてで受け止める。歩夢にレッスンしてくれたときは難易度の低い曲ばかりだったので、久遠の真の実力を知らずにいた。改めて、遠い世界の人なのだと実感する。
リストの『ラ・カンパネラ』、ベートーベンの『月光』そして久遠のヒット曲である『魔術師』が次々に披露された。
 いよいよ新曲の発表を迎える前に、マイクを手にした久遠は観客に挨拶を述べる。

「本日は私のリサイタルにお越しくださり、真にありがとうございました。皆様は私が盲目のピアニストであることを讃えてくださり、とても感謝しておりますが、実は私の正体は、ピアノを弾けるただの男なのです」

 久遠の冗談に、客席からは微笑ましい笑いが零れる。久遠がただの男などではなく、天才であることは明らかだからだ。しかし継がれた台詞は、客席に不穏なざわめきをもたらす。

「皆様は残念に思われるかもしれませんが、後日、『盲目の魔術師』を返上いたします。ピアノを弾けるただの男に、私は名実共になりたいのです」

 久遠の意図がわからず、皆は首を捻る。代名詞である『盲目の魔術師』という肩書きを変更するという報せなのだろうと解釈した観客は拍手で応える。
 久遠のメッセージは続いた。

「そのように思えたのも、ひとりの人との出会いによるものです。心を込めて、この曲を捧げます。タイトルは『あゆむ』」

 時が止まった。
 息を呑んだ歩夢をまるで見据えるように、久遠はまっすぐに顔をむける。
 久遠は、知っていたのだ。
 歩夢の本当の名前を。
 激しい動悸は拍手の渦に呑まれる。そして訪れる、静寂。
 鍵盤に触れる久遠を、聴衆は見守った。
 優しい音色が紡がれていく。
 まるで心に染み込むような、穏やかさ。そこには愛が溢れている。
 愛しい人を想い、包み込むような情愛が曲調から滲んでいた。
 久遠さんは……俺のことを、こんなにも……。
 愛していると、久遠は己のすべてを尽くし、観客の前で歩夢に訴えていた。
 最後に優しく響いた和音は、まるで愛の欠片が一粒零れ落ちたかのよう。
 一瞬の静寂のあと、拍手喝采が場内に轟いた。
 立ち上がった久遠は腕を掲げて、何かを捜すように掌を差し出す。それを更なる拍手を求めるものと思った観客は、いっそうの賞賛を久遠に捧げた。
 歩夢は初めて、久遠の抱えていた想いに気づかされた。彼の心の中では、深い愛情が渦巻いていたのだ。
 久遠がなぜ歩夢の名を知り、そしてなぜ歩夢を好きになってくれたのかはわからないけれど、彼の告白は歩夢の胸を深く打った。
 だからこそ、久遠に真実を告げなければならない。
 歩夢は鳴り止まない拍手の中、薔薇の花束を抱えて席を立った。



 劇場の楽屋を訪ねると、スタッフは快く通してくれた。おそらく久遠が事前に伝えていたのだと思われる。

「こんにちは、久遠さん。佐藤です」

 楽屋には久遠の傍に榊もいたが、彼はちらりと歩夢を見ただけで何も言わなかった。
 歩夢の声に、はっとしたように久遠は席を立つ。

「来てくれたのか……。新曲は、聴いてくれたか?」
「はい。素晴らしい曲でした。リサイタル成功、おめでとうございます」

 型どおりの挨拶をして薔薇の花束を手渡す。
 ふわりと漂う芳香に、久遠は頬を緩めた。花束を愛しげに抱きしめる。

「ありがとう。……では、曲に込められたメッセージも受け取ってもらえただろうか?」

 若干の緊張を滲ませながら、久遠は訊ねた。
 嘘偽りのない、正直な想いを伝えよう。
 最後だから。
 歩夢は勇気を持って告げた。
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