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恋の話 1
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柔らかなピアノの調べが、薔薇の香りが漂う室内に響き渡る。
毎週水曜日は薔薇を届けて、久遠からピアノのレッスンを受けることが歩夢の週課になった。
「そこはファのシャープだね。この黒鍵だよ」
「あっ……そうでしたね」
久遠の長い指が、そっと黒鍵を指す。歩夢は楽譜と鍵盤の位置を見比べて、正しい旋律を刻んだ。
目の見えない久遠だが、歩夢へのレッスンに全く支障はなかった。
久遠は鍵盤の音と位置を完全に把握しているので、まるで見えているかのように鍵盤に触れ、歩夢が奏でる音を正確に聞き取る。
「うん、上手だ。がんばって練習したね」
「ありがとうございます」
有名なピアニストだからレッスンは厳しいのかもしれないと恐れていたが、初心者同然の歩夢に対して久遠は優しく指導してくれた。
「この曲は合格だ。次は……なんの曲だったかな」
歩夢は教本を捲り、次のページを表示する。バイエル下巻相当の実力である歩夢のために、久遠が用意してくれた大人のためのピアノ教本だ。この教本は一般的な仕様なので、久遠には読み取ることはできない。
「次はリストの、愛の夢です」
「第三番だね。聞いたことがあると思う。このような曲だ」
久遠は流麗な手捌きで鍵盤を辿る。紡ぎ出される優しい響きは、歩夢の胸を打った。
優しいのに、どこか切ない。それなのに華やかさがあった。
久遠のピアノは、人を感動させる不思議な力がある。
「最後から数えて三小節目に、p(ピアノ)の記号が付いているね」
「はい。弱く、という意味ですよね」
「そのとおり。楽譜に示された強弱記号を意識して弾くように。いつもどおり右手と左手でそれぞれ練習してから、両手で合わせてみよう」
「わかりました」
「では右手のメロディから弾いてみようか。始めはmp(メゾピアノ)で」
リストの『愛の夢』は三曲から成るピアノ曲だが、特に第三番が有名だ。この教本では練習用に、第三番を短く編曲してある。耳に馴染んでいる曲は弾く前からリズムが体得できているので、比較的弾きやすい。
しかし歩夢は始めの一音から、躓いてしまう。
「ええと……ラ……」
「ソだね。ここだよ」
間違った音を引いた歩夢の右手に、久遠の掌がそっと重ねられた。
どきりと、鼓動が跳ね上がる。
「あ……そうですね。ソ、ミ、ミ……」
「そう。四の指に変えて。いいよ」
久遠の掌はすぐに離れていったけれど、歩夢の胸の動悸は中々収まってくれなかった。
三十分のレッスンのあと、歩夢は部屋を隅々まで掃除する。元々綺麗好きらしい久遠は物を散らかしていることがないが、心地良く過ごしてもらうため丹念に磨き上げた。
歩夢がリビングのテーブルを拭いていると、ピアノ室から乱れた音が鳴り響いた。
何事かと思い、慌てて久遠のもとへ向かう。
「久遠さん、どうかしましたか?」
項垂れた久遠は鍵盤に手を付いていた。今の音はピアノの不協和音だったのだ。いつも流麗な音色を奏でる久遠なのに、どうしたというのだろう。
「……どうもしない。少々、行き詰まっているんだ。新曲の方向性に迷っている」
久遠のヒット曲である『魔術師』は、思わず口ずさむほど耳慣れたものだ。それを超える作品を世間から求められるのは、とてつもない重圧だろう。
「俺に、何かお手伝いできませんか?」
歩夢は勇気を持って久遠に訊ねた。
素人同然の歩夢に作曲のことで手伝えることなんて何もないかもしれないけれど、久遠の苦悩を取り除いてあげたい。その一心だった。
久遠は考え込むように黙然としていたが、唐突に質問を投げた。
「薔薇のきみは、恋をしたことがあるのかい?」
歩夢は瞠目と沈黙で応えてしまう。
恋愛も創作のうえで大切な要素なのかもしれないが、歩夢にとってその問いは大変な難問だった。
「ええと……その……」
口籠もってしまう歩夢の答えを、久遠は息を呑んで待っていた。彼の頬には緊張が滲んでいる。
歩夢は誰ともお付き合いをしたことがないし、誰かを好きになったこともない。両親や店のこともあり、多忙な日々を過ごしてきたという環境もある。恋というものが何か、その正体すら知らない。
「ありません……。全然お役に立てなくて、申し訳ないです」
正直に告げて項垂れれば、久遠はなぜか深い吐息を漏らす。
「謝ることはない。何も恥ずべきことではないよ」
安堵したかのように弾んだ声を出す久遠に首を傾げたが、続く彼の言葉でその理由はすぐに判明した。
「私も、恋をしたことが……いや、もう、ないとは言えないのか……だが……」
久遠は言い淀んでいる。恋愛経験がないと発言するのは勇気が要ることだ。我々は似たもの同士だから恥ずべきことはないと、久遠は言いたかったのだ。
どうやら久遠自身も恋というものが曖昧なので、歩夢の見解を窺いたかったらしい。有名なピアニストで麗しい容貌の神嶋久遠なら、相手に困らないだろうと思う。もし歩夢が美しい音楽家の女性であったなら、堂々と交際を申し込むところだ。
歩夢はふと、久遠との交際を望んでいるかのような己の心に気づいて苦笑を零した。
どうしてそんな考えに至ったのだろう。
街の花屋で男の歩夢なんて、久遠が相手にするわけがないのに。
久遠は静かな意志を秘めて、再び歩夢に訊ねてきた。
「もし、恋をしたら……薔薇のきみはどんなお付き合いをしてみたいと思う?」
「どんなお付き合い……ですか」
毎週水曜日は薔薇を届けて、久遠からピアノのレッスンを受けることが歩夢の週課になった。
「そこはファのシャープだね。この黒鍵だよ」
「あっ……そうでしたね」
久遠の長い指が、そっと黒鍵を指す。歩夢は楽譜と鍵盤の位置を見比べて、正しい旋律を刻んだ。
目の見えない久遠だが、歩夢へのレッスンに全く支障はなかった。
久遠は鍵盤の音と位置を完全に把握しているので、まるで見えているかのように鍵盤に触れ、歩夢が奏でる音を正確に聞き取る。
「うん、上手だ。がんばって練習したね」
「ありがとうございます」
有名なピアニストだからレッスンは厳しいのかもしれないと恐れていたが、初心者同然の歩夢に対して久遠は優しく指導してくれた。
「この曲は合格だ。次は……なんの曲だったかな」
歩夢は教本を捲り、次のページを表示する。バイエル下巻相当の実力である歩夢のために、久遠が用意してくれた大人のためのピアノ教本だ。この教本は一般的な仕様なので、久遠には読み取ることはできない。
「次はリストの、愛の夢です」
「第三番だね。聞いたことがあると思う。このような曲だ」
久遠は流麗な手捌きで鍵盤を辿る。紡ぎ出される優しい響きは、歩夢の胸を打った。
優しいのに、どこか切ない。それなのに華やかさがあった。
久遠のピアノは、人を感動させる不思議な力がある。
「最後から数えて三小節目に、p(ピアノ)の記号が付いているね」
「はい。弱く、という意味ですよね」
「そのとおり。楽譜に示された強弱記号を意識して弾くように。いつもどおり右手と左手でそれぞれ練習してから、両手で合わせてみよう」
「わかりました」
「では右手のメロディから弾いてみようか。始めはmp(メゾピアノ)で」
リストの『愛の夢』は三曲から成るピアノ曲だが、特に第三番が有名だ。この教本では練習用に、第三番を短く編曲してある。耳に馴染んでいる曲は弾く前からリズムが体得できているので、比較的弾きやすい。
しかし歩夢は始めの一音から、躓いてしまう。
「ええと……ラ……」
「ソだね。ここだよ」
間違った音を引いた歩夢の右手に、久遠の掌がそっと重ねられた。
どきりと、鼓動が跳ね上がる。
「あ……そうですね。ソ、ミ、ミ……」
「そう。四の指に変えて。いいよ」
久遠の掌はすぐに離れていったけれど、歩夢の胸の動悸は中々収まってくれなかった。
三十分のレッスンのあと、歩夢は部屋を隅々まで掃除する。元々綺麗好きらしい久遠は物を散らかしていることがないが、心地良く過ごしてもらうため丹念に磨き上げた。
歩夢がリビングのテーブルを拭いていると、ピアノ室から乱れた音が鳴り響いた。
何事かと思い、慌てて久遠のもとへ向かう。
「久遠さん、どうかしましたか?」
項垂れた久遠は鍵盤に手を付いていた。今の音はピアノの不協和音だったのだ。いつも流麗な音色を奏でる久遠なのに、どうしたというのだろう。
「……どうもしない。少々、行き詰まっているんだ。新曲の方向性に迷っている」
久遠のヒット曲である『魔術師』は、思わず口ずさむほど耳慣れたものだ。それを超える作品を世間から求められるのは、とてつもない重圧だろう。
「俺に、何かお手伝いできませんか?」
歩夢は勇気を持って久遠に訊ねた。
素人同然の歩夢に作曲のことで手伝えることなんて何もないかもしれないけれど、久遠の苦悩を取り除いてあげたい。その一心だった。
久遠は考え込むように黙然としていたが、唐突に質問を投げた。
「薔薇のきみは、恋をしたことがあるのかい?」
歩夢は瞠目と沈黙で応えてしまう。
恋愛も創作のうえで大切な要素なのかもしれないが、歩夢にとってその問いは大変な難問だった。
「ええと……その……」
口籠もってしまう歩夢の答えを、久遠は息を呑んで待っていた。彼の頬には緊張が滲んでいる。
歩夢は誰ともお付き合いをしたことがないし、誰かを好きになったこともない。両親や店のこともあり、多忙な日々を過ごしてきたという環境もある。恋というものが何か、その正体すら知らない。
「ありません……。全然お役に立てなくて、申し訳ないです」
正直に告げて項垂れれば、久遠はなぜか深い吐息を漏らす。
「謝ることはない。何も恥ずべきことではないよ」
安堵したかのように弾んだ声を出す久遠に首を傾げたが、続く彼の言葉でその理由はすぐに判明した。
「私も、恋をしたことが……いや、もう、ないとは言えないのか……だが……」
久遠は言い淀んでいる。恋愛経験がないと発言するのは勇気が要ることだ。我々は似たもの同士だから恥ずべきことはないと、久遠は言いたかったのだ。
どうやら久遠自身も恋というものが曖昧なので、歩夢の見解を窺いたかったらしい。有名なピアニストで麗しい容貌の神嶋久遠なら、相手に困らないだろうと思う。もし歩夢が美しい音楽家の女性であったなら、堂々と交際を申し込むところだ。
歩夢はふと、久遠との交際を望んでいるかのような己の心に気づいて苦笑を零した。
どうしてそんな考えに至ったのだろう。
街の花屋で男の歩夢なんて、久遠が相手にするわけがないのに。
久遠は静かな意志を秘めて、再び歩夢に訊ねてきた。
「もし、恋をしたら……薔薇のきみはどんなお付き合いをしてみたいと思う?」
「どんなお付き合い……ですか」
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