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マンションへ

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 我に返った歩夢が赤い薔薇の花束をラッピングしていると、店に一樹が戻ってきた。悠の保育園の送り迎えは父親である一樹の担当だ。花市場での商品の仕入れや配達などは状況を見ながら交代で行っている。

「お待たせ。悠のやつ、ぐずって困ったよ。お、注文か?」
「うん。配達だから、このマンションまで行ってくるね」

 一樹に先程記したメモを見せる。配達の用意をする歩夢に、一樹は慌てた声をかけた。

「おい、そのお客さんって、まさか神嶋久遠⁉」
「そうだよ? じゃあ行ってくるね。兄さん、あとよろしく」

 時計を見上げた歩夢は花束を抱えて店を出る。
 今日はなぜか皆、名前にこだわる日のようだ。
 歩夢は小首を傾げながら、配達用の車に乗り込んだ。



 薔薇の届け先である高級マンションのエントランスに歩夢は到着した。コンシェルジュに店名と久遠の名を告げる。マンションへの配達はコンシェルジュや宅配ボックス預かりのことが多いのだが、久遠の希望で部屋まで届けてほしいとのことだった。
エレベーターに乗り込み、辿り着いたのは最上階のワンフロア。歩夢は厚い絨毯が敷かれた廊下をおそるおそる踏みしめる。
 重厚な扉の前に立ち、部屋の番号を何度も確認してインターホンを押した。
 だが、返事がない。
 時計を確認すると、丁度二時間後の午前十一時だが、久遠はまだ帰宅していないのだろうか。
 不安になった頃、インターホンからくぐもった声が返ってくる。

『はい』 
「あ……お待たせしました。佐藤花店です」

 良かったと安堵したのも束の間のことで、再び歩夢の胸は不安に占められる。
 インターホンの音声に、女性のわめき声が混じっているのだ。

『どうぞ。入ってくれ』

 もしかして、取り込み中だろうか。けれど注文品を届けなければならない。
 意を決して、歩夢はドアノブを掴んだ。

「失礼します」

 玄関に入ると、廊下のむこうにある扉が突然開閉した。顔を歪めた女性が、歩夢の立っている玄関に荒々しい足取りで向かってくる。

「待ちなさい。文鎮を返してくれ」

 室内から久遠の声が届いた。
 女性は振り返ると、インターホンで聞いたわめき声を上げた。

「何度も言いましたが、いいがかりです! 神嶋さんは目が見えないから、勘違いされてるんです!」

 揉め事が起こったようだ。歩夢は俯きながら玄関脇に退けた。
 歩夢を一瞥した女性は去り際、掌から何かを放り投げる。
 ガツンと重い音を立てて、それは玄関の片隅に転がった。

「あの、落ちましたよ!」

 拾い上げてみれば、それは小鳥の形をした置物だった。
 小さなものだけれど、掌にずしりと重い。
 歩夢の呼びかけに気づかなかったのか、女性は逃げるように扉から出て行ってしまった。
 ひとまず花束を届けよう。歩夢は小鳥の置物をエプロンの胸ポケットに入れて部屋へ向かう。

「お待たせしました……」

 久遠は、グランドピアノの前に座していた。
 簡素な室内には漆黒のピアノが一台だけ。
 ここはピアノを弾くための部屋のようだ。戸口に立っている歩夢のほうへ、久遠は顔をむけた。

「すまないね。見苦しいところを見せてしまったようだ」

 久遠の顔には表情がなかったけれど、声には苦渋が滲んでいた。

「……何かあったんですか?」
「彼女はハウスキーパーだ。物を盗んだのでクビにしたんだが、盗みを否定したうえに返さない」
「その、盗まれたものとは……?」
「鶯の形をした文鎮だ。あれは私が初めてコンクールで優勝したときにもらった記念品で、とても大切にしているものなんだ」

 ごくりと息を呑む。
 その盗まれた文鎮は、今は歩夢の胸ポケットにある。
 どうしよう……。
 歩夢は視線を彷徨わせたが、その様子は無論見えていない久遠は嘆息した。

「こういったことは、よくある。私の目が見えないので、何もわからないだろうと侮られるんだ。出入りのハウスキーパーが仕事を怠ったり、物を盗んだりする」

 ふと見れば、壁に作り付けの飾り台にはクリスタル製の花瓶が置いてあった。
 花瓶には腐りかけの茎が数本、垂れている。周囲には茶色に萎れた花弁が散り、それは美しかった薔薇の残骸であると見て取れた。
 全く手入れが成されていないようだ。ハウスキーパーは久遠の目が見えないので、片付けなくてもわからないだろうと思い、仕事を放棄していたのだろう。

「だが私には音が聞こえているし、匂いも嗅ぎ分けられる。使用する物は常に同じ場所にしか置かない。目が見えていなくても、世界を感じることができるよ」

 どきりとした歩夢の肩が揺れると、抱えていた薔薇の包装紙も揺れた。がさりと鳴る音に、久遠はつと眉をひそめる。

「すまない。いつまでも薔薇を抱えさせたままだったね。適当なところに置いていってくれ」

 ハウスキーパーを辞めさせたからには、花瓶に活ける人がいないのではないだろうか。萎れた薔薇が放置された花瓶を放っておくわけにもいかなかった。

「よろしければ、俺が花瓶に活けてもいいですか?」

 久遠は当然、薔薇が萎れたことは匂いで感じているだろう。
 だから佐藤花店を訪れ、薔薇を求めたのだから。

「いいとも。薔薇のきみさえ、よければ」
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