2 / 20
マンションへ
しおりを挟む
我に返った歩夢が赤い薔薇の花束をラッピングしていると、店に一樹が戻ってきた。悠の保育園の送り迎えは父親である一樹の担当だ。花市場での商品の仕入れや配達などは状況を見ながら交代で行っている。
「お待たせ。悠のやつ、ぐずって困ったよ。お、注文か?」
「うん。配達だから、このマンションまで行ってくるね」
一樹に先程記したメモを見せる。配達の用意をする歩夢に、一樹は慌てた声をかけた。
「おい、そのお客さんって、まさか神嶋久遠⁉」
「そうだよ? じゃあ行ってくるね。兄さん、あとよろしく」
時計を見上げた歩夢は花束を抱えて店を出る。
今日はなぜか皆、名前にこだわる日のようだ。
歩夢は小首を傾げながら、配達用の車に乗り込んだ。
薔薇の届け先である高級マンションのエントランスに歩夢は到着した。コンシェルジュに店名と久遠の名を告げる。マンションへの配達はコンシェルジュや宅配ボックス預かりのことが多いのだが、久遠の希望で部屋まで届けてほしいとのことだった。
エレベーターに乗り込み、辿り着いたのは最上階のワンフロア。歩夢は厚い絨毯が敷かれた廊下をおそるおそる踏みしめる。
重厚な扉の前に立ち、部屋の番号を何度も確認してインターホンを押した。
だが、返事がない。
時計を確認すると、丁度二時間後の午前十一時だが、久遠はまだ帰宅していないのだろうか。
不安になった頃、インターホンからくぐもった声が返ってくる。
『はい』
「あ……お待たせしました。佐藤花店です」
良かったと安堵したのも束の間のことで、再び歩夢の胸は不安に占められる。
インターホンの音声に、女性のわめき声が混じっているのだ。
『どうぞ。入ってくれ』
もしかして、取り込み中だろうか。けれど注文品を届けなければならない。
意を決して、歩夢はドアノブを掴んだ。
「失礼します」
玄関に入ると、廊下のむこうにある扉が突然開閉した。顔を歪めた女性が、歩夢の立っている玄関に荒々しい足取りで向かってくる。
「待ちなさい。文鎮を返してくれ」
室内から久遠の声が届いた。
女性は振り返ると、インターホンで聞いたわめき声を上げた。
「何度も言いましたが、いいがかりです! 神嶋さんは目が見えないから、勘違いされてるんです!」
揉め事が起こったようだ。歩夢は俯きながら玄関脇に退けた。
歩夢を一瞥した女性は去り際、掌から何かを放り投げる。
ガツンと重い音を立てて、それは玄関の片隅に転がった。
「あの、落ちましたよ!」
拾い上げてみれば、それは小鳥の形をした置物だった。
小さなものだけれど、掌にずしりと重い。
歩夢の呼びかけに気づかなかったのか、女性は逃げるように扉から出て行ってしまった。
ひとまず花束を届けよう。歩夢は小鳥の置物をエプロンの胸ポケットに入れて部屋へ向かう。
「お待たせしました……」
久遠は、グランドピアノの前に座していた。
簡素な室内には漆黒のピアノが一台だけ。
ここはピアノを弾くための部屋のようだ。戸口に立っている歩夢のほうへ、久遠は顔をむけた。
「すまないね。見苦しいところを見せてしまったようだ」
久遠の顔には表情がなかったけれど、声には苦渋が滲んでいた。
「……何かあったんですか?」
「彼女はハウスキーパーだ。物を盗んだのでクビにしたんだが、盗みを否定したうえに返さない」
「その、盗まれたものとは……?」
「鶯の形をした文鎮だ。あれは私が初めてコンクールで優勝したときにもらった記念品で、とても大切にしているものなんだ」
ごくりと息を呑む。
その盗まれた文鎮は、今は歩夢の胸ポケットにある。
どうしよう……。
歩夢は視線を彷徨わせたが、その様子は無論見えていない久遠は嘆息した。
「こういったことは、よくある。私の目が見えないので、何もわからないだろうと侮られるんだ。出入りのハウスキーパーが仕事を怠ったり、物を盗んだりする」
ふと見れば、壁に作り付けの飾り台にはクリスタル製の花瓶が置いてあった。
花瓶には腐りかけの茎が数本、垂れている。周囲には茶色に萎れた花弁が散り、それは美しかった薔薇の残骸であると見て取れた。
全く手入れが成されていないようだ。ハウスキーパーは久遠の目が見えないので、片付けなくてもわからないだろうと思い、仕事を放棄していたのだろう。
「だが私には音が聞こえているし、匂いも嗅ぎ分けられる。使用する物は常に同じ場所にしか置かない。目が見えていなくても、世界を感じることができるよ」
どきりとした歩夢の肩が揺れると、抱えていた薔薇の包装紙も揺れた。がさりと鳴る音に、久遠はつと眉をひそめる。
「すまない。いつまでも薔薇を抱えさせたままだったね。適当なところに置いていってくれ」
ハウスキーパーを辞めさせたからには、花瓶に活ける人がいないのではないだろうか。萎れた薔薇が放置された花瓶を放っておくわけにもいかなかった。
「よろしければ、俺が花瓶に活けてもいいですか?」
久遠は当然、薔薇が萎れたことは匂いで感じているだろう。
だから佐藤花店を訪れ、薔薇を求めたのだから。
「いいとも。薔薇のきみさえ、よければ」
「お待たせ。悠のやつ、ぐずって困ったよ。お、注文か?」
「うん。配達だから、このマンションまで行ってくるね」
一樹に先程記したメモを見せる。配達の用意をする歩夢に、一樹は慌てた声をかけた。
「おい、そのお客さんって、まさか神嶋久遠⁉」
「そうだよ? じゃあ行ってくるね。兄さん、あとよろしく」
時計を見上げた歩夢は花束を抱えて店を出る。
今日はなぜか皆、名前にこだわる日のようだ。
歩夢は小首を傾げながら、配達用の車に乗り込んだ。
薔薇の届け先である高級マンションのエントランスに歩夢は到着した。コンシェルジュに店名と久遠の名を告げる。マンションへの配達はコンシェルジュや宅配ボックス預かりのことが多いのだが、久遠の希望で部屋まで届けてほしいとのことだった。
エレベーターに乗り込み、辿り着いたのは最上階のワンフロア。歩夢は厚い絨毯が敷かれた廊下をおそるおそる踏みしめる。
重厚な扉の前に立ち、部屋の番号を何度も確認してインターホンを押した。
だが、返事がない。
時計を確認すると、丁度二時間後の午前十一時だが、久遠はまだ帰宅していないのだろうか。
不安になった頃、インターホンからくぐもった声が返ってくる。
『はい』
「あ……お待たせしました。佐藤花店です」
良かったと安堵したのも束の間のことで、再び歩夢の胸は不安に占められる。
インターホンの音声に、女性のわめき声が混じっているのだ。
『どうぞ。入ってくれ』
もしかして、取り込み中だろうか。けれど注文品を届けなければならない。
意を決して、歩夢はドアノブを掴んだ。
「失礼します」
玄関に入ると、廊下のむこうにある扉が突然開閉した。顔を歪めた女性が、歩夢の立っている玄関に荒々しい足取りで向かってくる。
「待ちなさい。文鎮を返してくれ」
室内から久遠の声が届いた。
女性は振り返ると、インターホンで聞いたわめき声を上げた。
「何度も言いましたが、いいがかりです! 神嶋さんは目が見えないから、勘違いされてるんです!」
揉め事が起こったようだ。歩夢は俯きながら玄関脇に退けた。
歩夢を一瞥した女性は去り際、掌から何かを放り投げる。
ガツンと重い音を立てて、それは玄関の片隅に転がった。
「あの、落ちましたよ!」
拾い上げてみれば、それは小鳥の形をした置物だった。
小さなものだけれど、掌にずしりと重い。
歩夢の呼びかけに気づかなかったのか、女性は逃げるように扉から出て行ってしまった。
ひとまず花束を届けよう。歩夢は小鳥の置物をエプロンの胸ポケットに入れて部屋へ向かう。
「お待たせしました……」
久遠は、グランドピアノの前に座していた。
簡素な室内には漆黒のピアノが一台だけ。
ここはピアノを弾くための部屋のようだ。戸口に立っている歩夢のほうへ、久遠は顔をむけた。
「すまないね。見苦しいところを見せてしまったようだ」
久遠の顔には表情がなかったけれど、声には苦渋が滲んでいた。
「……何かあったんですか?」
「彼女はハウスキーパーだ。物を盗んだのでクビにしたんだが、盗みを否定したうえに返さない」
「その、盗まれたものとは……?」
「鶯の形をした文鎮だ。あれは私が初めてコンクールで優勝したときにもらった記念品で、とても大切にしているものなんだ」
ごくりと息を呑む。
その盗まれた文鎮は、今は歩夢の胸ポケットにある。
どうしよう……。
歩夢は視線を彷徨わせたが、その様子は無論見えていない久遠は嘆息した。
「こういったことは、よくある。私の目が見えないので、何もわからないだろうと侮られるんだ。出入りのハウスキーパーが仕事を怠ったり、物を盗んだりする」
ふと見れば、壁に作り付けの飾り台にはクリスタル製の花瓶が置いてあった。
花瓶には腐りかけの茎が数本、垂れている。周囲には茶色に萎れた花弁が散り、それは美しかった薔薇の残骸であると見て取れた。
全く手入れが成されていないようだ。ハウスキーパーは久遠の目が見えないので、片付けなくてもわからないだろうと思い、仕事を放棄していたのだろう。
「だが私には音が聞こえているし、匂いも嗅ぎ分けられる。使用する物は常に同じ場所にしか置かない。目が見えていなくても、世界を感じることができるよ」
どきりとした歩夢の肩が揺れると、抱えていた薔薇の包装紙も揺れた。がさりと鳴る音に、久遠はつと眉をひそめる。
「すまない。いつまでも薔薇を抱えさせたままだったね。適当なところに置いていってくれ」
ハウスキーパーを辞めさせたからには、花瓶に活ける人がいないのではないだろうか。萎れた薔薇が放置された花瓶を放っておくわけにもいかなかった。
「よろしければ、俺が花瓶に活けてもいいですか?」
久遠は当然、薔薇が萎れたことは匂いで感じているだろう。
だから佐藤花店を訪れ、薔薇を求めたのだから。
「いいとも。薔薇のきみさえ、よければ」
11
お気に入りに追加
75
あなたにおすすめの小説
君が好き過ぎてレイプした
眠りん
BL
ぼくは大柄で力は強いけれど、かなりの小心者です。好きな人に告白なんて絶対出来ません。
放課後の教室で……ぼくの好きな湊也君が一人、席に座って眠っていました。
これはチャンスです。
目隠しをして、体を押え付ければ小柄な湊也君は抵抗出来ません。
どうせ恋人同士になんてなれません。
この先の長い人生、君の隣にいられないのなら、たった一度少しの時間でいい。君とセックスがしたいのです。
それで君への恋心は忘れます。
でも、翌日湊也君がぼくを呼び出しました。犯人がぼくだとバレてしまったのでしょうか?
不安に思いましたが、そんな事はありませんでした。
「犯人が誰か分からないんだ。ねぇ、柚月。しばらく俺と一緒にいて。俺の事守ってよ」
ぼくはガタイが良いだけで弱い人間です。小心者だし、人を守るなんて出来ません。
その時、湊也君が衝撃発言をしました。
「柚月の事……本当はずっと好きだったから」
なんと告白されたのです。
ぼくと湊也君は両思いだったのです。
このままレイプ事件の事はなかった事にしたいと思います。
※誤字脱字があったらすみません
くまさんのマッサージ♡
はやしかわともえ
BL
ほのぼの日常。ちょっとえっちめ。
2024.03.06
閲覧、お気に入りありがとうございます。
m(_ _)m
もう一本書く予定です。時間が掛かりそうなのでお気に入りして頂けると便利かと思います。よろしくお願い致します。
2024.03.10
完結しました!読んで頂きありがとうございます。m(_ _)m
今月25日(3/25)のピクトスクエア様のwebイベントにてこの作品のスピンオフを頒布致します。詳細はまたお知らせ致します。
2024.03.19
https://pictsquare.net/skaojqhx7lcbwqxp8i5ul7eqkorx4foy
イベントページになります。
25日0時より開始です!
※補足
サークルスペースが確定いたしました。
一次創作2: え5
にて出展させていただいてます!
2024.10.28
11/1から開催されるwebイベントにて、新作スピンオフを書いています。改めてお知らせいたします。
2024.11.01
https://pictsquare.net/4g1gw20b5ptpi85w5fmm3rsw729ifyn2
本日22時より、イベントが開催されます。
よろしければ遊びに来てください。
当たって砕けていたら彼氏ができました
ちとせあき
BL
毎月24日は覚悟の日だ。
学校で少し浮いてる三倉莉緒は王子様のような同級生、寺田紘に恋をしている。
教室で意図せず公開告白をしてしまって以来、欠かさずしている月に1度の告白だが、19回目の告白でやっと心が砕けた。
諦めようとする莉緒に突っかかってくるのはあれ程告白を拒否してきた紘で…。
寺田絋
自分と同じくらいモテる莉緒がムカついたのでちょっかいをかけたら好かれた残念男子
×
三倉莉緒
クールイケメン男子と思われているただの陰キャ
そういうシーンはありませんが一応R15にしておきました。
お気に入り登録ありがとうございます。なんだか嬉しいので載せるか迷った紘視点を追加で投稿します。ただ紘は残念な子過ぎるので莉緒視点と印象が変わると思います。ご注意ください。
お気に入り登録100ありがとうございます。お付き合いに浮かれている二人の小話投稿しました。
楓の散る前に。
星未めう
BL
病弱な僕と働き者の弟。でも、血は繋がってない。
甘やかしたい、甘やかされてはいけない。
1人にしたくない、1人にならなくちゃいけない。
愛したい、愛されてはいけない。
はじめまして、星見めうと申します。普段は二次創作で活動しておりますが、このたび一次創作を始めるにあたってこちらのサイトを使用させていただくことになりました。話の中に体調不良表現が多く含まれます。嘔吐等も出てくると思うので苦手な方はプラウザバックよろしくお願いします。
ゆっくりゆるゆる更新になるかと思われます。ちょくちょくネタ等呟くかもしれないTwitterを貼っておきます。
星見めう https://twitter.com/hoshimimeu_00
普段は二次垢におりますのでもしご興味がありましたらその垢にリンクあります。
お気に入り、しおり、感想等ありがとうございます!ゆっくり更新ですが、これからもよろしくお願いします(*´˘`*)♡
告白ゲームの攻略対象にされたので面倒くさい奴になって嫌われることにした
雨宮里玖
BL
《あらすじ》
昼休みに乃木は、イケメン三人の話に聞き耳を立てていた。そこで「それぞれが最初にぶつかった奴を口説いて告白する。それで一番早く告白オッケーもらえた奴が勝ち」という告白ゲームをする話を聞いた。
その直後、乃木は三人のうちで一番のモテ男・早坂とぶつかってしまった。
その日の放課後から早坂は乃木にぐいぐい近づいてきて——。
早坂(18)モッテモテのイケメン帰国子女。勉強運動なんでもできる。物静か。
乃木(18)普通の高校三年生。
波田野(17)早坂の友人。
蓑島(17)早坂の友人。
石井(18)乃木の友人。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる