紅蓮に燃ゆる、赤虎の剣

沖田弥子

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過去

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 蒼井家の庭を、白の紋白蝶がひらりと舞う。
 春を迎えても影虎は相変わらず、昼間から酒を呑んでは縁先でごろ寝している。正体は影目付頭領だそうだが、威厳というものは全く見られない。
 先日、諸藩の強請及び波江健蔵殺しの沙汰が、お白洲にて申し渡された。
 勘定奉行の堂島は役儀召放の上、閉門。堀部は遠島になり、妻子は実家に戻ったという。峯田屋は過料で済んだが、店は閑古鳥が鳴いているそうだ。
 雪之丞は影虎が大人しく寝ているのを見遣りながら、庭で植樹をしていた。土だらけになった掌で額に浮かんだ玉の汗を拭う。

「何を植えたんだ?」

 熟睡しているのかと思った影虎は、手枕をしてこちらを眺めていた。

「桜の樹です。桜でもあれば、庭が華やぐかと思って」
「そりゃいい。花見しながら酒が呑める」
「影虎さんは呑むことばかりですね」

 朗らかに笑いながら、雪之丞は膝丈ほどの苗木を愛でた。
 今はまだ小さいが、いずれ大樹となって枝葉を茂らせてくれるだろう。

「初めてだな。雪が笑ったのは」
「えっ……」

 そういえば、父が亡くなってから笑うことはなかった気がする。それ以前にも、心から笑顔になったことなんて、もう思い出せないくらい昔のことだ。

「影虎さんのおかげですよ。本当に感謝しています」

 柔らかな春の陽にのせて、笑顔が零れる。
 影虎は瞠目すると、額に手を遣った。

「雪がこんなに素直になるなんて。明日は雨だな」
「なんですか、もう!」

 影虎が身を起こしたとき、緋色の小袖が捲れた。肩が剥き出しになる。
 はっとして、雪之丞は目を瞬かせた。
 剛健な肩から胸にかけて、違い棒紋に似せた刀傷が刻まれている。
 素早く小袖は引き上げられたが、確かに目にした。

「それは、紅蓮剣の傷ですか……?」

 影虎本人が真の遣い手であるはずなのに、なぜその身に奥義の傷があるのか。
 薄く笑んだ影虎は小袖の上から傷を撫でつけた。

「これはな、親父がつけた傷だ」
「影虎さんの父上が……?」

 堀部が影虎を恨んで殺人の濡れ衣を着せたのも、影虎一心流を巡っての諍いが関係しているらしい。

「何があったんです。教えてください」

 縁に上がり、正座をした。影虎の双眸を真っ直ぐに見つめる。
 影虎は真顔になり、ぽつりと呟いた。

「俺は、親父を殺した」

 雪之丞の肩は、びくりと震える。

「え……なぜです」
「紅蓮剣の伝授は、身体に受けた奥義を返すことで完成する。伝承者の死をもってな。親父も、爺さんを殺して奥義を継いだ。堀部はそのことを知らない。死の伝承は蒼井一族の秘密なんだ。くだらねえよな。親父もお袋も黒髪だった。俺は奥義を継がせるために、どこかで拾ってきた異人の子じゃねえかな」

 自嘲気味に嗤った影虎の悲哀が、胸に沁み込んでいく。
 影虎が傷ついたのは、身体だけではなかった。秘めていた過去の傷痕が、痛々しく心を塗り固めている。

「だから俺は、できるだけこの剣を使いたくねえんだ。この、呪われた剣をな」

 そのとき影虎の巨躯は、とても小さく見えた。
 雪之丞に、影虎の生き方や紅蓮剣について批評するなどおこがましいことだった。
 だから晩夏の蝉のような掠れる声を出した男に、こう言った。

「では、できるだけその剣を使わないよう、私が影虎さんのお手伝いをいたします。これからも、ずっと」

 影虎の手伝いどころか、足手まといになるかもしれない。
 けれど自分にも、何かできることがあるはずだ。
 影虎は双眸を見開くと、破顔した。

「そりゃあ、いい。頼んだぜ、雪」
「庭の桜が大きくなったら一緒に花見しましょう。その頃には、私は影虎さんに負けないくらいの大酒呑みになってるかもしれませんよ」

 大笑いした影虎は楽しそうに巨躯を揺する。

「呑み比べでもしてみるか。俺の胃の腑は大川に繋がってるから、早々潰れねえぞ」
「望むところです」

 ふたりの笑い声が重なる。
 たゆたう春の陽射しの中、楽しげな声はいつまでも続いていた。
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