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仇討ち
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「大変ですね、同心も。それで、忙しいご身分なのに、本日はどちらへ?」
通りには、こぢんまりとした料理屋が軒を連ねている。軒先には掛行灯が下げられていた。ふたりがどこへ行くのかは大方の見当がついた。
「おめえは棘があるよなあ。な、赤虎の旦那」
助け舟を求められた影虎は、面倒臭そうに振り向いた。
「くだらねえこと言うな。ここにするか」
何気ないひとことに、心臓から指先にかけて、すうと冷えていく。
父を斬ったこと、その罪で捕まることが、くだらないというのか。
奉行所と懇意にしていれば融通が利くと思い、影虎は安穏としているのだ。その飄々とした態度が癪に障る。
「影虎さん。くだらないって何ですか。あなたがしたこと、わかってますよね」
夕陽は甍のむこうに沈み、江戸の町に提灯の灯がぽつりぽつりと浮かびはじめる。
縄暖簾を潜ろうとした高柳は、殺伐とした雪之丞の様相に気づき足を止めた。影虎が太い腕で追い払うと、彼は遠慮がちに店に入っていく。
「何を苛々してんだ。雪は留守番な。おきよに、夕餉はいらねえと言っといてくれ」
いつもこうだ。躱してばかりで、人の話をまともに訊こうとしない。
歯噛みする雪之丞の頭を、影虎は無遠慮に撫でる。
「今度は一緒に呑んでやるからな」
的外れなことを言い置いて背を向けた巨躯は、縄暖簾のむこうにある喧騒に吸い込まれていった。
雪之丞は踵を返し、暮色に染まる町筋をがむしゃらに走った。
溜め込んだ憤りが噴出して、身体を鞭打つように突き動かす。
もっとも許せないのは、不甲斐ない己だ。仇を目の前にして何もできないどころか、中間として奉公し、飯まで食わせてもらっている。このままでいいわけがない。何らかの決着をつけたい。
蒼井家へ戻ると、おきよの前では驚くほど平静になっていた。
「おかえりなさい、雪之丞さん」
「ただいま帰りました、おきよさん。影虎さんは御友人と食事に出かけましたので、夕餉は必要ないとのことです」
「そうですか。それでは雪之丞さんは、旦那さまの分まで沢山食べてくださいね」
「はい。善処します」
何も知らないおきよには心配をかけたくない。
雪之丞は何事もないような顔で夕餉をいただき、風呂に入る。
おきよが屋敷の女中部屋で寝静まったのを確かめると、支度を始めた。
下弦の月は、天空から玲瓏とした煌めきを落とす。
袴の股立を取り、襷掛けにした雪之丞は脇差を手にして、上がり框に座した。玄関の引き戸が開くのを正面から待ち構える。
あの男を斬るときが迫っているのだと思うと、ぞくりとした震えが背筋を這う。雪之丞は人を斬ったことがない。道場剣術しか知らず、真剣の戦いは皆無だった。
「母上、お守りください」
懐に忍ばせた小太刀を握り締める。刻印された藤の紋様が、月明りに青白く浮かび上がった。
そのとき、土を踏みしめる雪駄の音が、闇の中に秘かに響く。
ごくりと息を呑み、鍔元に指をかける。
戸が開いた瞬間に、父の仇と名乗りを上げて斬り捨てる。奉公の恩があるので心苦しさが片隅にあるが、そもそも影虎が父を斬ったのが事の始まりなのだ。何も、悪いことはしていない。
早鐘の如く鳴り続ける心臓に痛みを覚えながら、かちりと鯉口を切る。
だが玄関の戸は一向に開かない。確かに音がしたと思ったのだが。
訊き間違いだったかと肩の力を抜いた途端、轟音とともに戸が蹴倒された。
冷徹な人斬りの眼差しが、そこにあった。両眼を炯々と光らせた影虎は既に抜刀して、六尺剣を構えている。
大気を震わせるような気魄に気圧されて、雪之丞は尻餅をついた。その姿を見るなり、影虎は構えを解く。
「なんだ、雪か。こんな夜中に何やってんだ。賊かと思ったじゃねえか」
貴様こそ賊ではないか。
すっかり機を逸してしまったが、雪之丞は果敢に立ち上がる。
「父の仇!」
呆れた溜息を吐いて納刀しかけていた影虎は、怖ろしい早業を見せた。鍔元を掌ごと握り込まれ、凄まじい剛腕で押さえられてしまう。振り解けず、抜刀することができない。
獰猛な獣が獲物を値踏みするように、影虎は必死に力を込める雪之丞を悠々と覗き込んだ。
「雪。おまえ、俺が親父を斬り殺したと本気で信じてるのか?」
吹きかけられた呼気に、酒の匂いが漂う。
影虎は、愉しんでいる。とても酔っているとは思えない俊敏さだが、獲物を弄んで悦に浸っているのだ。それが余計に腹立たしい。
「あなたでなければ他に誰がいるというんです。赤髪の大男なんて、この世にふたりといない」
通りには、こぢんまりとした料理屋が軒を連ねている。軒先には掛行灯が下げられていた。ふたりがどこへ行くのかは大方の見当がついた。
「おめえは棘があるよなあ。な、赤虎の旦那」
助け舟を求められた影虎は、面倒臭そうに振り向いた。
「くだらねえこと言うな。ここにするか」
何気ないひとことに、心臓から指先にかけて、すうと冷えていく。
父を斬ったこと、その罪で捕まることが、くだらないというのか。
奉行所と懇意にしていれば融通が利くと思い、影虎は安穏としているのだ。その飄々とした態度が癪に障る。
「影虎さん。くだらないって何ですか。あなたがしたこと、わかってますよね」
夕陽は甍のむこうに沈み、江戸の町に提灯の灯がぽつりぽつりと浮かびはじめる。
縄暖簾を潜ろうとした高柳は、殺伐とした雪之丞の様相に気づき足を止めた。影虎が太い腕で追い払うと、彼は遠慮がちに店に入っていく。
「何を苛々してんだ。雪は留守番な。おきよに、夕餉はいらねえと言っといてくれ」
いつもこうだ。躱してばかりで、人の話をまともに訊こうとしない。
歯噛みする雪之丞の頭を、影虎は無遠慮に撫でる。
「今度は一緒に呑んでやるからな」
的外れなことを言い置いて背を向けた巨躯は、縄暖簾のむこうにある喧騒に吸い込まれていった。
雪之丞は踵を返し、暮色に染まる町筋をがむしゃらに走った。
溜め込んだ憤りが噴出して、身体を鞭打つように突き動かす。
もっとも許せないのは、不甲斐ない己だ。仇を目の前にして何もできないどころか、中間として奉公し、飯まで食わせてもらっている。このままでいいわけがない。何らかの決着をつけたい。
蒼井家へ戻ると、おきよの前では驚くほど平静になっていた。
「おかえりなさい、雪之丞さん」
「ただいま帰りました、おきよさん。影虎さんは御友人と食事に出かけましたので、夕餉は必要ないとのことです」
「そうですか。それでは雪之丞さんは、旦那さまの分まで沢山食べてくださいね」
「はい。善処します」
何も知らないおきよには心配をかけたくない。
雪之丞は何事もないような顔で夕餉をいただき、風呂に入る。
おきよが屋敷の女中部屋で寝静まったのを確かめると、支度を始めた。
下弦の月は、天空から玲瓏とした煌めきを落とす。
袴の股立を取り、襷掛けにした雪之丞は脇差を手にして、上がり框に座した。玄関の引き戸が開くのを正面から待ち構える。
あの男を斬るときが迫っているのだと思うと、ぞくりとした震えが背筋を這う。雪之丞は人を斬ったことがない。道場剣術しか知らず、真剣の戦いは皆無だった。
「母上、お守りください」
懐に忍ばせた小太刀を握り締める。刻印された藤の紋様が、月明りに青白く浮かび上がった。
そのとき、土を踏みしめる雪駄の音が、闇の中に秘かに響く。
ごくりと息を呑み、鍔元に指をかける。
戸が開いた瞬間に、父の仇と名乗りを上げて斬り捨てる。奉公の恩があるので心苦しさが片隅にあるが、そもそも影虎が父を斬ったのが事の始まりなのだ。何も、悪いことはしていない。
早鐘の如く鳴り続ける心臓に痛みを覚えながら、かちりと鯉口を切る。
だが玄関の戸は一向に開かない。確かに音がしたと思ったのだが。
訊き間違いだったかと肩の力を抜いた途端、轟音とともに戸が蹴倒された。
冷徹な人斬りの眼差しが、そこにあった。両眼を炯々と光らせた影虎は既に抜刀して、六尺剣を構えている。
大気を震わせるような気魄に気圧されて、雪之丞は尻餅をついた。その姿を見るなり、影虎は構えを解く。
「なんだ、雪か。こんな夜中に何やってんだ。賊かと思ったじゃねえか」
貴様こそ賊ではないか。
すっかり機を逸してしまったが、雪之丞は果敢に立ち上がる。
「父の仇!」
呆れた溜息を吐いて納刀しかけていた影虎は、怖ろしい早業を見せた。鍔元を掌ごと握り込まれ、凄まじい剛腕で押さえられてしまう。振り解けず、抜刀することができない。
獰猛な獣が獲物を値踏みするように、影虎は必死に力を込める雪之丞を悠々と覗き込んだ。
「雪。おまえ、俺が親父を斬り殺したと本気で信じてるのか?」
吹きかけられた呼気に、酒の匂いが漂う。
影虎は、愉しんでいる。とても酔っているとは思えない俊敏さだが、獲物を弄んで悦に浸っているのだ。それが余計に腹立たしい。
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