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序
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竹刀を打ち合う乾いた音が、雨上がりの湿気を含んだ道場に響き渡る。
師範が稽古の終了を告げると、波江雪之丞は門下生と揃って隅に端座した。汗に湿った面を外せば、端麗な面立ちが現れる。
黒々と輝く眸は意志の強さを湛え、端正な眉は武家の子弟らしく引き締まっている。ほの淡い口唇だけが、少女のような可憐な色を帯びていた。
助言を述べて場を辞した師範を見送ると、門下生たちは談笑を始めた。それを尻目に帰ろうとした雪之丞は膝を立てる。すると、脇から遠慮がちな声をかけられた。
「波江、気の毒だったな。お父上のこと……」
幾度も受けた慰めの科白に慣れた雪之丞は、曖昧な笑みを浮かべた。
「もう四十九日の法要も済んだ。大分、気持ちの整理がついたよ」
友人はまだ何か言い募ろうとしていたが、それを振り切るように背を向ける。
道場を出ると、冬の到来を告げる一迅の寒風が吹いた。稽古で汗ばんだ肌を冷やしていく。雪之丞は寒さを覚えながら、濡れ落葉が散らばる小路を通り抜ける。今朝は霜が降りたので、雪が降るのも近いだろう。
亀沢から両国橋を渡り、神田川沿いを歩く。広小路は行李の荷を背負った商人や、二刀差しの武士など大勢の人々が行き交っている。白の小袖に藍の袴を穿き、紫紺の羽織を纏う雪之丞は喧騒を遠ざけるように長い睫毛を伏せた。
父は、賊に殺された。母は元からいない。
身寄りのない雪之丞は、現在は日本橋富沢町の武家に世話になっている。
「ただいま戻りました」
冠木門を潜り玄関の戸を開けると、軽い足音が廊下に響いてきた。下女のおきよが框に座して丁寧に出迎えてくれる。
「おかえりなさい、雪之丞さん。すぐに夕餉にしますから、手を洗っていらっしゃいな」
「はい、おきよさん」
侍屋敷は廊下や座敷は磨き上げられているが庭木の手入れは行き届いておらず、庭は藪と化している。奉公人は雪之丞とおきよの二人だけだ。
明日は雑草を抜かなければ、と横目で見遣りながら井戸端で手を洗っていると、呑気な声が障子越しにかけられた。
「おう、雪。帰ったのか?」
訊かなくてもわかるだろうに。
雪之丞は口唇を引き結ぶ。草履を脱いで縁先に上がり、無造作に障子を開けた。
「まだ陽が高いのに、もう呑んでるんですか」
ごろりと寝転んだ六尺はあろうかという巨躯の持ち主は、待ち構えていたかのように不敵な笑みを見せる。
「稽古おつかれさん。汗の香りがするな」
杯を掲げて戯言を口に乗せるさまに神経を逆撫でされる。誰のせいで死ぬ気で稽古に励んでいると思っているのだ。
この男――蒼井影虎に復讐するためなのだ。
影虎が身を起こすと、炎のような赤髪が揺れる。月代にせず総髪なので余計に異様な色が目を引くのだが、本人はどこ吹く風だ。
「酒、持ってきてくれ」
大欠伸しながら空になった徳利を振る。蹴飛ばしてやろうかと踏み出すと、台所からおきよの呼ぶ声が訊こえたので断念する。
「飯か。どれ、行こうぜ」
馴れ馴れしく肩に腕を回してくる。雪之丞は容赦なく肘鉄を食らわせた。
運命が変わったのは数ヶ月前のこと――。
父の言いつけで品川にある叔父の屋敷へ奉公に赴いていた雪之丞は、一月ぶりに馬喰町の住居へ戻った。
異変にはすぐに気がついた。近隣は騒然としており、生垣を取り囲んだ野次馬の間を縫うように岡っ引きが出入りしている。足を止めた雪之丞に気がついた隣家の三郎は、驚きの声を上げた。
「雪坊! どこに行ってたんだ。大変だよ、親父さんが……」
屋敷の門前から、筵を掛けられた大八車が引かれていく。野次馬たちは恐れ慄き、両手を合わせて拝んでいる。
「まさか……」
雪之丞は持っていた風呂敷包みを、ばさりと落とした。筵からはみ出した真白い腕が、振動とともに揺れているのが眼に映る。
黒羽織の裾を帯に挟んだ同心が近づいてきて、訝しげに雪之丞を眺めた。
「あんたが波江雪之丞か? 俺は定廻り同心の高柳だ。ちょっと話を訊かせてもらおうか」
「父は……どこに?」
声は震えていた。
高柳と名乗った同心は眉宇を寄せ、去っていく大八車を顎で指し示した。
「親父さんは、殺された。ひでえもんだ。肩から袈裟斬りにされてる。物盗りらしいが、賊は未だ捕まってねえ」
家へ駆け込み、血飛沫に染まった障子を開け放つ。物が散乱した居間は踏み荒らされ、天井まで血が飛び散っていた。
師範が稽古の終了を告げると、波江雪之丞は門下生と揃って隅に端座した。汗に湿った面を外せば、端麗な面立ちが現れる。
黒々と輝く眸は意志の強さを湛え、端正な眉は武家の子弟らしく引き締まっている。ほの淡い口唇だけが、少女のような可憐な色を帯びていた。
助言を述べて場を辞した師範を見送ると、門下生たちは談笑を始めた。それを尻目に帰ろうとした雪之丞は膝を立てる。すると、脇から遠慮がちな声をかけられた。
「波江、気の毒だったな。お父上のこと……」
幾度も受けた慰めの科白に慣れた雪之丞は、曖昧な笑みを浮かべた。
「もう四十九日の法要も済んだ。大分、気持ちの整理がついたよ」
友人はまだ何か言い募ろうとしていたが、それを振り切るように背を向ける。
道場を出ると、冬の到来を告げる一迅の寒風が吹いた。稽古で汗ばんだ肌を冷やしていく。雪之丞は寒さを覚えながら、濡れ落葉が散らばる小路を通り抜ける。今朝は霜が降りたので、雪が降るのも近いだろう。
亀沢から両国橋を渡り、神田川沿いを歩く。広小路は行李の荷を背負った商人や、二刀差しの武士など大勢の人々が行き交っている。白の小袖に藍の袴を穿き、紫紺の羽織を纏う雪之丞は喧騒を遠ざけるように長い睫毛を伏せた。
父は、賊に殺された。母は元からいない。
身寄りのない雪之丞は、現在は日本橋富沢町の武家に世話になっている。
「ただいま戻りました」
冠木門を潜り玄関の戸を開けると、軽い足音が廊下に響いてきた。下女のおきよが框に座して丁寧に出迎えてくれる。
「おかえりなさい、雪之丞さん。すぐに夕餉にしますから、手を洗っていらっしゃいな」
「はい、おきよさん」
侍屋敷は廊下や座敷は磨き上げられているが庭木の手入れは行き届いておらず、庭は藪と化している。奉公人は雪之丞とおきよの二人だけだ。
明日は雑草を抜かなければ、と横目で見遣りながら井戸端で手を洗っていると、呑気な声が障子越しにかけられた。
「おう、雪。帰ったのか?」
訊かなくてもわかるだろうに。
雪之丞は口唇を引き結ぶ。草履を脱いで縁先に上がり、無造作に障子を開けた。
「まだ陽が高いのに、もう呑んでるんですか」
ごろりと寝転んだ六尺はあろうかという巨躯の持ち主は、待ち構えていたかのように不敵な笑みを見せる。
「稽古おつかれさん。汗の香りがするな」
杯を掲げて戯言を口に乗せるさまに神経を逆撫でされる。誰のせいで死ぬ気で稽古に励んでいると思っているのだ。
この男――蒼井影虎に復讐するためなのだ。
影虎が身を起こすと、炎のような赤髪が揺れる。月代にせず総髪なので余計に異様な色が目を引くのだが、本人はどこ吹く風だ。
「酒、持ってきてくれ」
大欠伸しながら空になった徳利を振る。蹴飛ばしてやろうかと踏み出すと、台所からおきよの呼ぶ声が訊こえたので断念する。
「飯か。どれ、行こうぜ」
馴れ馴れしく肩に腕を回してくる。雪之丞は容赦なく肘鉄を食らわせた。
運命が変わったのは数ヶ月前のこと――。
父の言いつけで品川にある叔父の屋敷へ奉公に赴いていた雪之丞は、一月ぶりに馬喰町の住居へ戻った。
異変にはすぐに気がついた。近隣は騒然としており、生垣を取り囲んだ野次馬の間を縫うように岡っ引きが出入りしている。足を止めた雪之丞に気がついた隣家の三郎は、驚きの声を上げた。
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屋敷の門前から、筵を掛けられた大八車が引かれていく。野次馬たちは恐れ慄き、両手を合わせて拝んでいる。
「まさか……」
雪之丞は持っていた風呂敷包みを、ばさりと落とした。筵からはみ出した真白い腕が、振動とともに揺れているのが眼に映る。
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「あんたが波江雪之丞か? 俺は定廻り同心の高柳だ。ちょっと話を訊かせてもらおうか」
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声は震えていた。
高柳と名乗った同心は眉宇を寄せ、去っていく大八車を顎で指し示した。
「親父さんは、殺された。ひでえもんだ。肩から袈裟斬りにされてる。物盗りらしいが、賊は未だ捕まってねえ」
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