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1巻
1-2
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私は天井まで届いた書架を見上げた。
この本、全部読んだのかな。眺めるだけで目眩がしそう。
なにしろ瑛司は有名国立大学を首席で卒業した秀才だ。
卒業すると大島グループの海外事業部に在籍して世界中を飛び回り、数々の事業を成功させた。五カ国語を操るというから、英語も満足にできなかった私とは頭の作りが違いすぎる。
「ここだ。入れ」
瑛司は書斎を横切り、隣室に続く扉を開ける。
室内を覗いてみると、そこは寝室だった。
広い寝室に大きなベッドが鎮座している、それだけの簡素すぎる部屋だった。ベッドは寝起きのままにしているのか、布団が乱れている。
どうして寝室に案内するのだろう。
まさか……
時間のかかる重要な花嫁修業って、子作りするということ⁉
皺の刻まれた純白のシーツを目にした私は臆した。
数歩下がると、瑛司の厚い胸板に背が付き、びくりとして肩を跳ねさせる。
まだ昼だし、さっき十年ぶりに再会したばかりだというのに、いくらなんでも性急すぎる。
「ちょっと瑛司、そんなことできないよ!」
慌てて抗議する私に、瑛司は傲然として言い放った。
「できないわけないだろう。子どもの頃、していたことだ」
「子どもの頃したのは添い寝だけでしょ。いやらしいことなんて一切していないじゃない」
「いやらしいこと? おまえは何を思い違いしているんだ」
「え?」
慌てて距離を取ろうとした私は目を瞬かせる。
「俺はもう待てない。寝不足が限界だ」
「寝不足……?」
「俺は重度の不眠症でな。子どもの頃から寝付きが悪かったんだが、成長するにつれて重症になった。どうやら大島家は不眠症の家系らしい。父も不眠症なので、結婚したとき母はとても苦労したようだ。そこで大島家の嫁となるためには、俺を安眠させられることが絶対的条件になるわけだ」
大島家の花嫁として果たすべき重要な花嫁修業とは、不眠症の瑛司を安眠に導くという内容だったのだ。
確かに、不眠症を解消するというのは、ある程度の時間が必要な問題だ。
私は瑛司が使用したベッドへ目を向けた。
皺の刻まれたシーツは、何度も寝返りを打ったことを示している。枕は頭を擦りつけたためか、ぺちゃんこに潰れていた。眠れなくて、一晩中寝返りを打ち続けた跡のようだ。
どうやら瑛司は、自分が不眠症であるということを、私に見せたかったらしい。
「そういうことだったのね……。うん、眠れないのは困るよね……」
恥ずかしい勘違いに気づいた私の頬が朱に染まる。
腕組みをした瑛司は、身を縮めた私を傲岸不遜な眼差しで見下す。
「襲われるとでも思ったのか? まだ昼だぞ。いくらなんでも性急すぎるだろう」
「……」
その通りですね。別に期待してたとか、そういうわけじゃないから。
「瑛司のお父さんも不眠症だったんだね」
「そうだ。母も花嫁修業を行って、父の不眠症を克服させた。だが母の使用した方法は反則技だ。あれを使われては困る」
「一応聞くけど、どんな方法なの?」
「睡眠薬を仕込んだうえに、殴って気絶させるというやり方だった。その様子をこっそり窺っていた俺は、ああいう強引な女を嫁にしたくないと溜息を吐いたものだ」
「それって不眠症を克服したというより、力業でねじ伏せた形だよね……」
瑛司はお母さんに似たんじゃないかな。
言われてみれば、瑛司は子どもの頃から寝付きが悪かった。お泊まりに来たときだけしか一緒に寝たことはなかったけれど、夜中にトイレに起きたあと、彼は何度も寝返りを打っていたことを覚えている。ベッドから落ちたら危ないので、私のほうから、ぎゅっとしがみついていた。
そうすると瑛司はいつのまにか、すうすうと寝息を立てていたのだ。
「子どもの頃、添い寝してくれただろう。瑞希が一緒に寝てくれたときは眠れたんだ」
「添い寝すれば眠れるの? それじゃあ、ぬいぐるみとか……」
「いや。生身の人間でなくては駄目だ」
「じゃあ、瑛司の乳母さんとか……気心の知れた人に添い寝してもらえば落ち着いて眠れるんじゃない?」
当時は子どもだったから同じベッドで寝ていたわけで、今はそういうわけにもいかない。
一応若い男女なのだから、間違いがあったら困る。あくまでも私は花嫁代理なのだから。
私の提案に、瑛司は首を横に振った。
「とんでもない。他の人間と同じベッドで眠るなんて逆効果だ。俺はツインルームで他人が隣のベッドにいても、鬱陶しくて眠れないんだぞ」
「……私も他人だけど」
「おまえは別だ。だからこそ俺を快眠に導くという花嫁修業は、おまえ以外に務まらない」
瑛司には、私に添い寝してもらえれば不眠症を克服できるという確固たる考えがあるようだ。
けれど……子どもの頃ならともかく、大人になった瑛司と同じベッドでぴったりくっつくなんて、私の封印した恋心が解き放たれてしまいかねない。
それだけは避けたい。
私は慌てて他の方法を模索することにした。
「とりあえず不眠の程度を把握したいんだけど、一日の睡眠時間はどのくらい?」
「ゼロだ。一睡もできない」
よく見れば、瑛司の目元には青黒いクマが浮かび上がっている。
だが、さすがにゼロはないだろう。一睡もできないという不眠症の人の申告は、思い違いであることが多い。実際は数時間眠っているのに、眠れていないと思い込んでいるのだ。その緊張がまた不眠を呼ぶという悪循環に陥らせる。
「実際は少し眠れてるんじゃない? 自分が気づいてないだけだよ。本当は二時間くらい寝てるんだと思う」
「そう言うなら、確かめてみろ」
「えっ?」
「一晩中、俺を観察して、本当に眠れているのかどうか、その目で確かめろと言っている」
この部屋で、瑛司と一晩中ふたりきり。
何かあるわけじゃないとわかっているけれど、私の胸は不安と期待のようなものが綯い交ぜになる。
うろうろと視線を彷徨わせる私に、瑛司は口端を上げて悪い男の顔を見せる。
「何かあるかと期待でもしてるのか?」
「そんなわけないでしょ!」
「だったら問題ないだろう。身代わり花嫁として、まずは俺を安眠に導いてくれ。期待してるぞ」
瑛司の挑発にまんまと乗せられてしまった私は、渋々頷いた。
◆◆◆◆◆
大島家を訪問した翌日、私はいつも通り職場へ出勤した。都内の企業に勤めるOLなのだ。
昨日はあのまま瑛司の部屋に泊まるわけにもいかなかったので、早々に父と一緒に帰宅した。父は私を花嫁代理にすることで当面の目処が付いたので、安堵していた。寝込んでいた母も、その報告を聞いて具合が良くなったようだ。ひとまず両親のことは安心だろう。
けれどその代わり、瑛司の不眠症を改善するという任務を与えられてしまった。
なんの対策も施さないまま瑛司が結婚したら、ますます不眠症に陥ってしまうかもしれない。それに瑛司のお母さんのように、姉が強引な手法で寝かしつけたりしたら大変だ。
ふたりの結婚のため……そう思うと、胸にちくりと痛みを覚える。だけど、私はそれを振り払うように頭を振った。
瑛司の健康のためなんだ。余計なことは考えないようにしないと。
まずは瑛司の不眠がどの程度なのか確かめなければならない。いずれまた大島家を訪れて、約束通り瑛司が眠れるかを見守る必要があるだろう。
気を取り直して、私は商品企画部のフロアに入室し、笑顔で挨拶する。
「おはようございまーす」
「おはよう、みずちゃん」
涼しげなブルーのアイラインを描いた眦をちらりと見せて挨拶してくれたのは、先輩の叶さんだ。
私は仕事モードに頭を切り換える。
「おはようございます、叶さん」
叶さんは私が入社したときからの教育担当者で、しっかり者の綺麗なお姉さんといった雰囲気を纏っている。彼女は男性社員の憧れの的だ。
「昨日、どうだった? お姉さんの代わりに専務とお見合いしたんでしょ?」
さらりと剛速球を投げてくる叶さんに、私は頬を引き攣らせる。
「お見合いじゃありませんから! 誤解です、誤解!」
「うちの会社にかかわることなんだから、詳しく聞かせてよ。みずちゃんの報告、楽しみにしてたのよ」
叶さんは優美に微笑んで、長い足を組み替える。
私の勤務する大島寝具は、大島グループの会社だ。私は商品企画部に在籍している。ちなみにコネではなく、きちんと入社試験を受けました。
そして瑛司は、この会社の専務なのだ。
幼なじみの瑛司が大島寝具の専務だったことは、入社してから気づいた。
それを知ったときは気まずいことになるかもという懸念があったけれど、全くの杞憂だった。
瑛司と会社で顔を合わせる機会はほとんどない。一般社員の私と御曹司の瑛司とでは、同じ会社にいるとはいえ何も接点がなかった。瑛司は海外の支店や現場に顔を出す機会も多いようなので、本社にはあまりいないらしい。
初恋……じゃなくて、幼なじみの相手と大人になってから会社で顔を合わせるのは、なんとなく気恥ずかしいものだ。それが姉の婚約者となればなおさら。
私は『専務の婚約者の妹』という、なんとも遠い筋の人物なので、これまでは特に話題にされることもなく平凡な会社員生活を送ってきた。
ちなみに、叶さんを始めとしたすべての社員は瑛司を見知っている。もちろんあの俺様ぶりも有名だ。
さらに我が家が大島家の昔の家来で、姉と瑛司が許嫁であるという事実は、社員全員の知るところとなっていた。
私がうっかりして、叶さんにすべて話してしまったのだ。
というより、叶さんの巧みな話術によって次々と引き出されてしまったという方が正しい。だって天上の音楽のような声音で「あら、みずちゃん。それはどういうことなのかしら。詳しく知りたいわ……」なんて耳元で囁かれたら、口がひとりでに開いてしまう。そして、誰にも言わないでくださいと私が念を押さなかったばかりに、麗しい声音ですべての情報は流出してしまった。姉の代わりに大島家を訪ねるという予定についても、すでに叶さんに話していた。魔性の力には逆らえません。
でも、花嫁代理のことまで話すわけにはいかない。その先の寝室のことに話が及べば、叶さんにあらぬ疑いをかけられてしまうかもしれないからだ。
私は平静を装って、さらりと報告した。
「姉が海外から戻ってこないので、謝りに行っただけですよ」
「それだけ?」
「はい、それだけです」
「みずちゃん、嘘が下手ね。辣腕で知られる大島専務がそれだけで済ませるわけがないわ」
にっこり微笑む叶さん。なぜか彼女には、誤魔化しは通用しない。狼狽えた私は目を泳がせる。
助けを求めるように視線を斜めにやると、出勤してきた主任の東堂さんに爽やかな微笑を向けられた。
「僕もその話は詳しく聞きたいなぁ。なにしろ、守谷さんはいずれ専務の義理の妹になるんだからね。そうなったら僕の上司になっちゃうかも」
物腰の柔らかい東堂さんは、スーツの似合う、すらりとした好青年だ。
女子社員の絶大な人気を誇るけれど、彼女はいない。
仕事が恋人だから、と彼は常に言っているが、私は東堂さんの趣味が原因ではないかと密かに思っている。
東堂さんの趣味は、昼寝。休日は自社製品に包まれて至福の時間を過ごしているのだそう。
「そんなわけないですよ! 義理の妹だなんて、気が早いです」
「そうかなぁ。だって、守谷さんのお姉さんと専務は生まれたときから婚約者なんでしょ?」
「……よくご存じですね」
「守谷さんが教えてくれたんじゃない。子どもの頃はお姉さんと一緒に大島家にお泊まりしたとかね」
「私、そんなことまで言いましたか⁉」
「掛け軸を壊したお姉さんの代わりに謝ったところまで聞いたね。専務が庇ってくれたんだよね。ねえ、叶さん?」
私の黒歴史が、だだ漏れである。教えてあげたというか、叶さんの魔力により広まったというほうが正しい。
東堂さんに話を振られた叶さんは、流行色の口紅を引いた唇に弧を描く。
「その通りですわ、東堂主任。でも、昨日はさらなる進展があったようですよ」
「というと?」
「みずちゃんの頬が薄らと染まっていますから、なんらかの艶めいた展開があったんじゃないかしら。ねえ、みずちゃん?」
叶さんの指摘が鋭すぎる。
でも、とても艶めいた展開と言えるようなできごとではないのだけれど。
叶さんと東堂さんという、ふたりの猛獣……ではなく、美形に視線を注がれ、私は小動物のごとく硬直した。
さすが商品企画部の双璧と謳われるふたりだけあって、目力も強力極まりない。
「いえ、あの、それがですね……」
どうにか上手く説明しようと焦るけれど、狼狽えるばかりで言葉が出てこない。
そのとき、フロアにいた社員たちが、一斉に同じ方向に目を向けた。
「瑞希。いるか」
圧倒的な存在感の登場に、みんなは手を止めて、素早く起立する。
出遅れてしまい、茫然としている私のデスクに、堂々とした足取りで瑛司はやってきた。
「昨日はなぜ逃げ帰った。俺と一晩過ごすことに同意しただろう」
朗々とした声が朝のフロアに響き渡る。
静寂が、痛い。
今の台詞……絶対誤解されたよね?
朝から会社で何言ってんの、この人?
くらりと目眩を起こした私に構わず、瑛司は言葉を重ねた。
「今夜は逃がさないぞ。終業時間まで待ってやる。車を回すから勝手に帰るなよ。それまで心構えでもしていろ」
「あのっ! 誤解のないよう専務に申し上げておきますが!」
もう我慢できない。
私はフロア全体に響き渡る大声をお腹から出した。
「専務の不眠症を克服するために! 私が睡眠の様子を見守るというお約束ですね! 心得ました!」
私の声がフロアに反響する。そしてまた静寂。
誰も身じろぎすらしない。
瑛司は不機嫌そうに眉をひそめた。
「そんなに大声を出さなくても聞こえている。初めから、そう言っているだろう」
「……」
そうかな?
瑛司の誤解を招く言い方は故意としか思えないんですけど。
ここで、柔和な笑みを浮かべた東堂さんが、ようやく救いの手を差し伸べてくれた。
「それじゃあ、守谷さんは今日は残業なしね」
「え……はい。ありがとうございます」
隣の叶さんも美麗な笑みを見せながら応援してくれる。
「専務との一晩、楽しく過ごしてね。明日の報告も楽しみにしているわ」
「はあ……」
ふたりとも、なぜか楽しそう。
それを聞き、瑛司はおおらかに両腕を広げた。
「優秀な人材に囲まれて最高だ。それでは諸君、業務に入ってくれ」
「はい、専務!」
綺麗に揃った返答をした社員たちは、私から気まずそうに視線を逸らしながら着席した。
釈然としないまま、一日の業務が終了した。
瑛司が商品企画部のフロアを訪れて以降、他の社員が私に触れないように気を遣っていたのは言うまでもない。東堂さんと叶さんは、いつも通り悠々としていたけれど。
東堂さんに、残業なしで早々にフロアから追い出された私はエレベーターに乗り込む。
昨日は逃げ帰るように父と一緒に帰宅してしまったので、瑛司はそれが不満だったようだ。
「不眠症を一日も早く治したいという気持ちもわかるけどね……」
とにかく、これ以上瑛司に日常を掻き回されないためにも、一刻も早く彼の不眠症を改善しよう。それが私に与えられた花嫁修業なのだから。
けれど、迷惑なそぶりをしながらも、本当は少し喜んでいる私がいた。
子どもの頃から密かに憧れていた瑛司と、こうしてまた会って、気兼ねなく話すことができるから。
やっぱり遠い世界の人だから、もうこんな機会は訪れないと思っていた。
私は胸の奥底から湧き上がりそうになる喜びを、そっと押し込める。
瑛司は姉さんとの結婚のために、代理として私に花嫁修業を申しつけているのだ。勘違いしてはいけない。私は、姉の身代わりなのだから。
エレベーターが到着したので、私は手荷物を抱え直してホールへ出る。
それにしても、寝具メーカーなのに専務が不眠症だなんて皮肉なことだ。瑛司の健康のためにも、会社のためにも、ぜひとも安眠させてあげたい。
決意も新たに、軽い足取りで会社を出る。すると、並木道の街路に仁王立ちになっている人物を発見して、思わず足を止めた。
「何してるの、瑛司……」
「愚問だな」
そうでした。車を回すから待っていろとかなんとか言ってましたね。
黒塗りの高級車と白手袋を着用した運転手を傍に待機させ、こちらを睨みつけている瑛司からは貫禄が溢れすぎている。
道行く人々は私たちにかかわらないように、距離を取って足早に去って行く。
「逃がさないぞ。さあ、俺と来い」
大股で歩み寄った瑛司は私の手を、すいと掬い上げると、胸の辺りにやや高く掲げながら車まで付き添ってくれた。
まるで紳士が淑女をエスコートするような仕草に、どきんと胸が弾んでしまう。
言葉はきつい瑛司だけれど、所作は丁寧で優しいものだから、そのギャップに戸惑うのだ。
車の傍まで来ると、専属の運転手さんが慇懃にドアを開けてくれた。
「お荷物は後ろに入れましょうか? 瑞希様」
「あ、はい。お願いします」
今日はいつもの鞄の他に、不織布の大きなバッグを持っていた。
家出でもするのかと思われるような大きさだけれど、中身は軽いので持ち歩くのにさほど苦はない。
瑛司が私の手を放さないので、仕方なく空いたほうの手で運転手さんにバッグを預けた。運転手さんはトランクを開けて、受け取ったバッグを積んでくれる。
「なんの荷物だ。大事なものなのか?」
車に乗り込もうとすると、瑛司はなぜか私の頭の上に掌を翳した。
なんだろうと思えば、上部の車の枠に頭をぶつけないよう、カバーしてくれたらしい。そそっかしいせいか、よくここに頭をぶつけちゃうんだよね。
瑛司のおかげで無事に座席に座ることができた。瑛司は私の隣に腰を下ろす。
「快眠のために必要なものが入ってるの」
「道具など使っても無駄だと思うがな」
「ええ? だって不眠症を克服したいんだよね?」
「俺の不眠症を甘く見るな」
まるで眠ったら負けとでも言いたげな瑛司の不遜な発言に、苦笑いが零れる。
やがて運転手さんがドアを閉めると、私と瑛司を乗せた車は、大島家のお屋敷へ向かってゆっくりと滑り出した。
「絶対に、瑛司を眠らせてあげるから」
「ほう……。期待している」
瑛司は、にやりと口端を上げた。
それはまるで何事かを企んでいるような悪い男の顔で、私はつい見惚れてしまっていた。
しばらくして、私たちを乗せた高級車は閑静な住宅街に辿り着いた。
壮麗な門をくぐれば、広大な大島家の敷地が広がる。屋敷前にある車寄せに停車すると、玄関前にはお仕着せを纏う使用人が控えていた。
「お帰りなさいませ、瑛司様」
「ああ、今帰った」
車のドアを開けた老齢の男性は、執事の藤田さんだ。子どもの頃、お屋敷に遊びに来たときから藤田さんは大島家に仕えていたので見知っている。
反対側のドアを開けようとして、私は慌てて手を引いた。自分で車のドアを開けるのは、ここではマナー違反なんだよね。お父さんと訪問したときもこんな歓待を受けたけれど、未だに慣れない。
瑛司は毎日のことらしく、平然として車を降りている。そして彼は車外から私に向けて、掌を広げてみせた。犬に『お手』しなさいと求める飼い主のポーズのようだ。
私はどうしたのかと首を傾げる。
「瑞希。手を」
「はい」
私は素直に『お手』をしてしまったけれど、瑛司に繫いだ手を掲げられて気がついた。
またエスコートしてくれるんだ。
勘違いしてしまった自分が恥ずかしくて、頬が朱に染まる。
大島家のお屋敷はまるで大使館と見紛うばかりの立派な邸宅だ。先回りした藤田さんが開けてくれた重厚な玄関扉をくぐれば、ホールには豪華なシャンデリアが煌めいている。
「あ、そうだ。私のバッグ」
トランクに入れたバッグを忘れてきてしまった。振り返ると、すでに運転手さんは私のバッグを取り出している。
「荷物は使用人に任せろ。彼らの仕事だ」
「でも、自分の荷物なのに……」
会社では自分の物はもちろん、率先してプレゼンテーション用の資料などの荷物を運んでいる。私よりもずっと年配の人に荷物を持たせるだなんて申し訳なく思ってしまう。
けれど瑛司は私の手を放そうとしないので、取りに戻ることもできない。
バッグを抱えてきてくれた藤田さんは、にこやかな笑みを浮かべた。
「瑞希様。どうぞわたくしにお任せください。これでもまだまだ力はあるのです。年寄り扱いしないでくださいよ」
優しい言葉をかけられて、私の口元に笑みが零れる。
「ありがとうございます、藤田さん。では、お願いします」
そう言うと、瑛司は眉間に皺を寄せる。
「礼を言う必要はない。彼らは使用人で、おまえはその主人だ。立場を弁えろ」
「藤田さんの主人は瑛司でしょ?」
「おまえは俺の嫁……代理だぞ。主人と同等の地位だ。主らしく堂々としていろ」
ここでは私も瑛司と同じ立場として扱われるんだ。
花嫁代理として、相応しい振る舞いをしなければならない。
でも上流階級の作法なんて、庶民の私がすぐに身につけられるわけがない。
「わかりました。だんなさま」
皮肉を込めて『だんなさま』を強調する。
すると、ぴくりと瑛司の眉が跳ね上がった。彼はなぜか咳払いを零している。
いずれ瑛司は大島家の家督を継いで、みんなから『旦那様』と呼ばれる立場になる。
そんなに驚くことではないと思うのだけれど。
「……食事の用意ができている。今夜はおばあさまと両親は不在だから、ふたりだけの夕食会だ」
夕食会という響きに、上流階級の華やかさを感じてしまう。
そうして案内された食堂は、お城かと錯覚するほどの広大な部屋だった。
深緑の壁紙に彩られた室内には暖炉があり、大きな窓からは庭園が一望できた。大理石と思しき長いテーブルには、精緻な細工が施された椅子が整然と並べられている。椅子は全部で三十脚もあった。実家にある四人掛けのダイニングテーブルしか知らない私は、目を瞬かせる。
「どうしてこんなに椅子があるの? 大島家の家族は十和子おばあさま、瑛司のご両親、あと瑛司の四人じゃない? あ、もしかして藤田さんたちを入れると三十人なのかな」
この本、全部読んだのかな。眺めるだけで目眩がしそう。
なにしろ瑛司は有名国立大学を首席で卒業した秀才だ。
卒業すると大島グループの海外事業部に在籍して世界中を飛び回り、数々の事業を成功させた。五カ国語を操るというから、英語も満足にできなかった私とは頭の作りが違いすぎる。
「ここだ。入れ」
瑛司は書斎を横切り、隣室に続く扉を開ける。
室内を覗いてみると、そこは寝室だった。
広い寝室に大きなベッドが鎮座している、それだけの簡素すぎる部屋だった。ベッドは寝起きのままにしているのか、布団が乱れている。
どうして寝室に案内するのだろう。
まさか……
時間のかかる重要な花嫁修業って、子作りするということ⁉
皺の刻まれた純白のシーツを目にした私は臆した。
数歩下がると、瑛司の厚い胸板に背が付き、びくりとして肩を跳ねさせる。
まだ昼だし、さっき十年ぶりに再会したばかりだというのに、いくらなんでも性急すぎる。
「ちょっと瑛司、そんなことできないよ!」
慌てて抗議する私に、瑛司は傲然として言い放った。
「できないわけないだろう。子どもの頃、していたことだ」
「子どもの頃したのは添い寝だけでしょ。いやらしいことなんて一切していないじゃない」
「いやらしいこと? おまえは何を思い違いしているんだ」
「え?」
慌てて距離を取ろうとした私は目を瞬かせる。
「俺はもう待てない。寝不足が限界だ」
「寝不足……?」
「俺は重度の不眠症でな。子どもの頃から寝付きが悪かったんだが、成長するにつれて重症になった。どうやら大島家は不眠症の家系らしい。父も不眠症なので、結婚したとき母はとても苦労したようだ。そこで大島家の嫁となるためには、俺を安眠させられることが絶対的条件になるわけだ」
大島家の花嫁として果たすべき重要な花嫁修業とは、不眠症の瑛司を安眠に導くという内容だったのだ。
確かに、不眠症を解消するというのは、ある程度の時間が必要な問題だ。
私は瑛司が使用したベッドへ目を向けた。
皺の刻まれたシーツは、何度も寝返りを打ったことを示している。枕は頭を擦りつけたためか、ぺちゃんこに潰れていた。眠れなくて、一晩中寝返りを打ち続けた跡のようだ。
どうやら瑛司は、自分が不眠症であるということを、私に見せたかったらしい。
「そういうことだったのね……。うん、眠れないのは困るよね……」
恥ずかしい勘違いに気づいた私の頬が朱に染まる。
腕組みをした瑛司は、身を縮めた私を傲岸不遜な眼差しで見下す。
「襲われるとでも思ったのか? まだ昼だぞ。いくらなんでも性急すぎるだろう」
「……」
その通りですね。別に期待してたとか、そういうわけじゃないから。
「瑛司のお父さんも不眠症だったんだね」
「そうだ。母も花嫁修業を行って、父の不眠症を克服させた。だが母の使用した方法は反則技だ。あれを使われては困る」
「一応聞くけど、どんな方法なの?」
「睡眠薬を仕込んだうえに、殴って気絶させるというやり方だった。その様子をこっそり窺っていた俺は、ああいう強引な女を嫁にしたくないと溜息を吐いたものだ」
「それって不眠症を克服したというより、力業でねじ伏せた形だよね……」
瑛司はお母さんに似たんじゃないかな。
言われてみれば、瑛司は子どもの頃から寝付きが悪かった。お泊まりに来たときだけしか一緒に寝たことはなかったけれど、夜中にトイレに起きたあと、彼は何度も寝返りを打っていたことを覚えている。ベッドから落ちたら危ないので、私のほうから、ぎゅっとしがみついていた。
そうすると瑛司はいつのまにか、すうすうと寝息を立てていたのだ。
「子どもの頃、添い寝してくれただろう。瑞希が一緒に寝てくれたときは眠れたんだ」
「添い寝すれば眠れるの? それじゃあ、ぬいぐるみとか……」
「いや。生身の人間でなくては駄目だ」
「じゃあ、瑛司の乳母さんとか……気心の知れた人に添い寝してもらえば落ち着いて眠れるんじゃない?」
当時は子どもだったから同じベッドで寝ていたわけで、今はそういうわけにもいかない。
一応若い男女なのだから、間違いがあったら困る。あくまでも私は花嫁代理なのだから。
私の提案に、瑛司は首を横に振った。
「とんでもない。他の人間と同じベッドで眠るなんて逆効果だ。俺はツインルームで他人が隣のベッドにいても、鬱陶しくて眠れないんだぞ」
「……私も他人だけど」
「おまえは別だ。だからこそ俺を快眠に導くという花嫁修業は、おまえ以外に務まらない」
瑛司には、私に添い寝してもらえれば不眠症を克服できるという確固たる考えがあるようだ。
けれど……子どもの頃ならともかく、大人になった瑛司と同じベッドでぴったりくっつくなんて、私の封印した恋心が解き放たれてしまいかねない。
それだけは避けたい。
私は慌てて他の方法を模索することにした。
「とりあえず不眠の程度を把握したいんだけど、一日の睡眠時間はどのくらい?」
「ゼロだ。一睡もできない」
よく見れば、瑛司の目元には青黒いクマが浮かび上がっている。
だが、さすがにゼロはないだろう。一睡もできないという不眠症の人の申告は、思い違いであることが多い。実際は数時間眠っているのに、眠れていないと思い込んでいるのだ。その緊張がまた不眠を呼ぶという悪循環に陥らせる。
「実際は少し眠れてるんじゃない? 自分が気づいてないだけだよ。本当は二時間くらい寝てるんだと思う」
「そう言うなら、確かめてみろ」
「えっ?」
「一晩中、俺を観察して、本当に眠れているのかどうか、その目で確かめろと言っている」
この部屋で、瑛司と一晩中ふたりきり。
何かあるわけじゃないとわかっているけれど、私の胸は不安と期待のようなものが綯い交ぜになる。
うろうろと視線を彷徨わせる私に、瑛司は口端を上げて悪い男の顔を見せる。
「何かあるかと期待でもしてるのか?」
「そんなわけないでしょ!」
「だったら問題ないだろう。身代わり花嫁として、まずは俺を安眠に導いてくれ。期待してるぞ」
瑛司の挑発にまんまと乗せられてしまった私は、渋々頷いた。
◆◆◆◆◆
大島家を訪問した翌日、私はいつも通り職場へ出勤した。都内の企業に勤めるOLなのだ。
昨日はあのまま瑛司の部屋に泊まるわけにもいかなかったので、早々に父と一緒に帰宅した。父は私を花嫁代理にすることで当面の目処が付いたので、安堵していた。寝込んでいた母も、その報告を聞いて具合が良くなったようだ。ひとまず両親のことは安心だろう。
けれどその代わり、瑛司の不眠症を改善するという任務を与えられてしまった。
なんの対策も施さないまま瑛司が結婚したら、ますます不眠症に陥ってしまうかもしれない。それに瑛司のお母さんのように、姉が強引な手法で寝かしつけたりしたら大変だ。
ふたりの結婚のため……そう思うと、胸にちくりと痛みを覚える。だけど、私はそれを振り払うように頭を振った。
瑛司の健康のためなんだ。余計なことは考えないようにしないと。
まずは瑛司の不眠がどの程度なのか確かめなければならない。いずれまた大島家を訪れて、約束通り瑛司が眠れるかを見守る必要があるだろう。
気を取り直して、私は商品企画部のフロアに入室し、笑顔で挨拶する。
「おはようございまーす」
「おはよう、みずちゃん」
涼しげなブルーのアイラインを描いた眦をちらりと見せて挨拶してくれたのは、先輩の叶さんだ。
私は仕事モードに頭を切り換える。
「おはようございます、叶さん」
叶さんは私が入社したときからの教育担当者で、しっかり者の綺麗なお姉さんといった雰囲気を纏っている。彼女は男性社員の憧れの的だ。
「昨日、どうだった? お姉さんの代わりに専務とお見合いしたんでしょ?」
さらりと剛速球を投げてくる叶さんに、私は頬を引き攣らせる。
「お見合いじゃありませんから! 誤解です、誤解!」
「うちの会社にかかわることなんだから、詳しく聞かせてよ。みずちゃんの報告、楽しみにしてたのよ」
叶さんは優美に微笑んで、長い足を組み替える。
私の勤務する大島寝具は、大島グループの会社だ。私は商品企画部に在籍している。ちなみにコネではなく、きちんと入社試験を受けました。
そして瑛司は、この会社の専務なのだ。
幼なじみの瑛司が大島寝具の専務だったことは、入社してから気づいた。
それを知ったときは気まずいことになるかもという懸念があったけれど、全くの杞憂だった。
瑛司と会社で顔を合わせる機会はほとんどない。一般社員の私と御曹司の瑛司とでは、同じ会社にいるとはいえ何も接点がなかった。瑛司は海外の支店や現場に顔を出す機会も多いようなので、本社にはあまりいないらしい。
初恋……じゃなくて、幼なじみの相手と大人になってから会社で顔を合わせるのは、なんとなく気恥ずかしいものだ。それが姉の婚約者となればなおさら。
私は『専務の婚約者の妹』という、なんとも遠い筋の人物なので、これまでは特に話題にされることもなく平凡な会社員生活を送ってきた。
ちなみに、叶さんを始めとしたすべての社員は瑛司を見知っている。もちろんあの俺様ぶりも有名だ。
さらに我が家が大島家の昔の家来で、姉と瑛司が許嫁であるという事実は、社員全員の知るところとなっていた。
私がうっかりして、叶さんにすべて話してしまったのだ。
というより、叶さんの巧みな話術によって次々と引き出されてしまったという方が正しい。だって天上の音楽のような声音で「あら、みずちゃん。それはどういうことなのかしら。詳しく知りたいわ……」なんて耳元で囁かれたら、口がひとりでに開いてしまう。そして、誰にも言わないでくださいと私が念を押さなかったばかりに、麗しい声音ですべての情報は流出してしまった。姉の代わりに大島家を訪ねるという予定についても、すでに叶さんに話していた。魔性の力には逆らえません。
でも、花嫁代理のことまで話すわけにはいかない。その先の寝室のことに話が及べば、叶さんにあらぬ疑いをかけられてしまうかもしれないからだ。
私は平静を装って、さらりと報告した。
「姉が海外から戻ってこないので、謝りに行っただけですよ」
「それだけ?」
「はい、それだけです」
「みずちゃん、嘘が下手ね。辣腕で知られる大島専務がそれだけで済ませるわけがないわ」
にっこり微笑む叶さん。なぜか彼女には、誤魔化しは通用しない。狼狽えた私は目を泳がせる。
助けを求めるように視線を斜めにやると、出勤してきた主任の東堂さんに爽やかな微笑を向けられた。
「僕もその話は詳しく聞きたいなぁ。なにしろ、守谷さんはいずれ専務の義理の妹になるんだからね。そうなったら僕の上司になっちゃうかも」
物腰の柔らかい東堂さんは、スーツの似合う、すらりとした好青年だ。
女子社員の絶大な人気を誇るけれど、彼女はいない。
仕事が恋人だから、と彼は常に言っているが、私は東堂さんの趣味が原因ではないかと密かに思っている。
東堂さんの趣味は、昼寝。休日は自社製品に包まれて至福の時間を過ごしているのだそう。
「そんなわけないですよ! 義理の妹だなんて、気が早いです」
「そうかなぁ。だって、守谷さんのお姉さんと専務は生まれたときから婚約者なんでしょ?」
「……よくご存じですね」
「守谷さんが教えてくれたんじゃない。子どもの頃はお姉さんと一緒に大島家にお泊まりしたとかね」
「私、そんなことまで言いましたか⁉」
「掛け軸を壊したお姉さんの代わりに謝ったところまで聞いたね。専務が庇ってくれたんだよね。ねえ、叶さん?」
私の黒歴史が、だだ漏れである。教えてあげたというか、叶さんの魔力により広まったというほうが正しい。
東堂さんに話を振られた叶さんは、流行色の口紅を引いた唇に弧を描く。
「その通りですわ、東堂主任。でも、昨日はさらなる進展があったようですよ」
「というと?」
「みずちゃんの頬が薄らと染まっていますから、なんらかの艶めいた展開があったんじゃないかしら。ねえ、みずちゃん?」
叶さんの指摘が鋭すぎる。
でも、とても艶めいた展開と言えるようなできごとではないのだけれど。
叶さんと東堂さんという、ふたりの猛獣……ではなく、美形に視線を注がれ、私は小動物のごとく硬直した。
さすが商品企画部の双璧と謳われるふたりだけあって、目力も強力極まりない。
「いえ、あの、それがですね……」
どうにか上手く説明しようと焦るけれど、狼狽えるばかりで言葉が出てこない。
そのとき、フロアにいた社員たちが、一斉に同じ方向に目を向けた。
「瑞希。いるか」
圧倒的な存在感の登場に、みんなは手を止めて、素早く起立する。
出遅れてしまい、茫然としている私のデスクに、堂々とした足取りで瑛司はやってきた。
「昨日はなぜ逃げ帰った。俺と一晩過ごすことに同意しただろう」
朗々とした声が朝のフロアに響き渡る。
静寂が、痛い。
今の台詞……絶対誤解されたよね?
朝から会社で何言ってんの、この人?
くらりと目眩を起こした私に構わず、瑛司は言葉を重ねた。
「今夜は逃がさないぞ。終業時間まで待ってやる。車を回すから勝手に帰るなよ。それまで心構えでもしていろ」
「あのっ! 誤解のないよう専務に申し上げておきますが!」
もう我慢できない。
私はフロア全体に響き渡る大声をお腹から出した。
「専務の不眠症を克服するために! 私が睡眠の様子を見守るというお約束ですね! 心得ました!」
私の声がフロアに反響する。そしてまた静寂。
誰も身じろぎすらしない。
瑛司は不機嫌そうに眉をひそめた。
「そんなに大声を出さなくても聞こえている。初めから、そう言っているだろう」
「……」
そうかな?
瑛司の誤解を招く言い方は故意としか思えないんですけど。
ここで、柔和な笑みを浮かべた東堂さんが、ようやく救いの手を差し伸べてくれた。
「それじゃあ、守谷さんは今日は残業なしね」
「え……はい。ありがとうございます」
隣の叶さんも美麗な笑みを見せながら応援してくれる。
「専務との一晩、楽しく過ごしてね。明日の報告も楽しみにしているわ」
「はあ……」
ふたりとも、なぜか楽しそう。
それを聞き、瑛司はおおらかに両腕を広げた。
「優秀な人材に囲まれて最高だ。それでは諸君、業務に入ってくれ」
「はい、専務!」
綺麗に揃った返答をした社員たちは、私から気まずそうに視線を逸らしながら着席した。
釈然としないまま、一日の業務が終了した。
瑛司が商品企画部のフロアを訪れて以降、他の社員が私に触れないように気を遣っていたのは言うまでもない。東堂さんと叶さんは、いつも通り悠々としていたけれど。
東堂さんに、残業なしで早々にフロアから追い出された私はエレベーターに乗り込む。
昨日は逃げ帰るように父と一緒に帰宅してしまったので、瑛司はそれが不満だったようだ。
「不眠症を一日も早く治したいという気持ちもわかるけどね……」
とにかく、これ以上瑛司に日常を掻き回されないためにも、一刻も早く彼の不眠症を改善しよう。それが私に与えられた花嫁修業なのだから。
けれど、迷惑なそぶりをしながらも、本当は少し喜んでいる私がいた。
子どもの頃から密かに憧れていた瑛司と、こうしてまた会って、気兼ねなく話すことができるから。
やっぱり遠い世界の人だから、もうこんな機会は訪れないと思っていた。
私は胸の奥底から湧き上がりそうになる喜びを、そっと押し込める。
瑛司は姉さんとの結婚のために、代理として私に花嫁修業を申しつけているのだ。勘違いしてはいけない。私は、姉の身代わりなのだから。
エレベーターが到着したので、私は手荷物を抱え直してホールへ出る。
それにしても、寝具メーカーなのに専務が不眠症だなんて皮肉なことだ。瑛司の健康のためにも、会社のためにも、ぜひとも安眠させてあげたい。
決意も新たに、軽い足取りで会社を出る。すると、並木道の街路に仁王立ちになっている人物を発見して、思わず足を止めた。
「何してるの、瑛司……」
「愚問だな」
そうでした。車を回すから待っていろとかなんとか言ってましたね。
黒塗りの高級車と白手袋を着用した運転手を傍に待機させ、こちらを睨みつけている瑛司からは貫禄が溢れすぎている。
道行く人々は私たちにかかわらないように、距離を取って足早に去って行く。
「逃がさないぞ。さあ、俺と来い」
大股で歩み寄った瑛司は私の手を、すいと掬い上げると、胸の辺りにやや高く掲げながら車まで付き添ってくれた。
まるで紳士が淑女をエスコートするような仕草に、どきんと胸が弾んでしまう。
言葉はきつい瑛司だけれど、所作は丁寧で優しいものだから、そのギャップに戸惑うのだ。
車の傍まで来ると、専属の運転手さんが慇懃にドアを開けてくれた。
「お荷物は後ろに入れましょうか? 瑞希様」
「あ、はい。お願いします」
今日はいつもの鞄の他に、不織布の大きなバッグを持っていた。
家出でもするのかと思われるような大きさだけれど、中身は軽いので持ち歩くのにさほど苦はない。
瑛司が私の手を放さないので、仕方なく空いたほうの手で運転手さんにバッグを預けた。運転手さんはトランクを開けて、受け取ったバッグを積んでくれる。
「なんの荷物だ。大事なものなのか?」
車に乗り込もうとすると、瑛司はなぜか私の頭の上に掌を翳した。
なんだろうと思えば、上部の車の枠に頭をぶつけないよう、カバーしてくれたらしい。そそっかしいせいか、よくここに頭をぶつけちゃうんだよね。
瑛司のおかげで無事に座席に座ることができた。瑛司は私の隣に腰を下ろす。
「快眠のために必要なものが入ってるの」
「道具など使っても無駄だと思うがな」
「ええ? だって不眠症を克服したいんだよね?」
「俺の不眠症を甘く見るな」
まるで眠ったら負けとでも言いたげな瑛司の不遜な発言に、苦笑いが零れる。
やがて運転手さんがドアを閉めると、私と瑛司を乗せた車は、大島家のお屋敷へ向かってゆっくりと滑り出した。
「絶対に、瑛司を眠らせてあげるから」
「ほう……。期待している」
瑛司は、にやりと口端を上げた。
それはまるで何事かを企んでいるような悪い男の顔で、私はつい見惚れてしまっていた。
しばらくして、私たちを乗せた高級車は閑静な住宅街に辿り着いた。
壮麗な門をくぐれば、広大な大島家の敷地が広がる。屋敷前にある車寄せに停車すると、玄関前にはお仕着せを纏う使用人が控えていた。
「お帰りなさいませ、瑛司様」
「ああ、今帰った」
車のドアを開けた老齢の男性は、執事の藤田さんだ。子どもの頃、お屋敷に遊びに来たときから藤田さんは大島家に仕えていたので見知っている。
反対側のドアを開けようとして、私は慌てて手を引いた。自分で車のドアを開けるのは、ここではマナー違反なんだよね。お父さんと訪問したときもこんな歓待を受けたけれど、未だに慣れない。
瑛司は毎日のことらしく、平然として車を降りている。そして彼は車外から私に向けて、掌を広げてみせた。犬に『お手』しなさいと求める飼い主のポーズのようだ。
私はどうしたのかと首を傾げる。
「瑞希。手を」
「はい」
私は素直に『お手』をしてしまったけれど、瑛司に繫いだ手を掲げられて気がついた。
またエスコートしてくれるんだ。
勘違いしてしまった自分が恥ずかしくて、頬が朱に染まる。
大島家のお屋敷はまるで大使館と見紛うばかりの立派な邸宅だ。先回りした藤田さんが開けてくれた重厚な玄関扉をくぐれば、ホールには豪華なシャンデリアが煌めいている。
「あ、そうだ。私のバッグ」
トランクに入れたバッグを忘れてきてしまった。振り返ると、すでに運転手さんは私のバッグを取り出している。
「荷物は使用人に任せろ。彼らの仕事だ」
「でも、自分の荷物なのに……」
会社では自分の物はもちろん、率先してプレゼンテーション用の資料などの荷物を運んでいる。私よりもずっと年配の人に荷物を持たせるだなんて申し訳なく思ってしまう。
けれど瑛司は私の手を放そうとしないので、取りに戻ることもできない。
バッグを抱えてきてくれた藤田さんは、にこやかな笑みを浮かべた。
「瑞希様。どうぞわたくしにお任せください。これでもまだまだ力はあるのです。年寄り扱いしないでくださいよ」
優しい言葉をかけられて、私の口元に笑みが零れる。
「ありがとうございます、藤田さん。では、お願いします」
そう言うと、瑛司は眉間に皺を寄せる。
「礼を言う必要はない。彼らは使用人で、おまえはその主人だ。立場を弁えろ」
「藤田さんの主人は瑛司でしょ?」
「おまえは俺の嫁……代理だぞ。主人と同等の地位だ。主らしく堂々としていろ」
ここでは私も瑛司と同じ立場として扱われるんだ。
花嫁代理として、相応しい振る舞いをしなければならない。
でも上流階級の作法なんて、庶民の私がすぐに身につけられるわけがない。
「わかりました。だんなさま」
皮肉を込めて『だんなさま』を強調する。
すると、ぴくりと瑛司の眉が跳ね上がった。彼はなぜか咳払いを零している。
いずれ瑛司は大島家の家督を継いで、みんなから『旦那様』と呼ばれる立場になる。
そんなに驚くことではないと思うのだけれど。
「……食事の用意ができている。今夜はおばあさまと両親は不在だから、ふたりだけの夕食会だ」
夕食会という響きに、上流階級の華やかさを感じてしまう。
そうして案内された食堂は、お城かと錯覚するほどの広大な部屋だった。
深緑の壁紙に彩られた室内には暖炉があり、大きな窓からは庭園が一望できた。大理石と思しき長いテーブルには、精緻な細工が施された椅子が整然と並べられている。椅子は全部で三十脚もあった。実家にある四人掛けのダイニングテーブルしか知らない私は、目を瞬かせる。
「どうしてこんなに椅子があるの? 大島家の家族は十和子おばあさま、瑛司のご両親、あと瑛司の四人じゃない? あ、もしかして藤田さんたちを入れると三十人なのかな」
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