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1巻

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 堀川くんに住所を知られても問題ない。それに本を貸すだけなので、彼が部屋に上がることはないだろう。もしアパートまで来るのが大変なら、最寄り駅で待ち合わせてもいい。
 彼からの返事を待ちながら、私は本棚から一冊の本を取り出す。
 タイトルは『やしゃのはなよめ』という。
 とある村の娘が、夜叉という鬼の花嫁になる物語だ。生贄いけにえとして差し出される娘の運命は過酷なものだったけれど、鬼に優しくされて心を開いていく過程につい引き込まれる。さらにラストが衝撃的なので、何度も読み返してしまう。小学生のときに読んで以来、捨てられなくて今も本棚にある児童書だ。
 キッチンに置いたままだったカップを持ってきてから座卓の前に腰を下ろし、本をめくる。
 つい読みふけっていると、ピンポーンと呼び鈴が鳴った。
 誰だろう。隣に住んでいる大家さんだろうか。
 私は本を閉じて腰を上げた。
 部屋を出るとすぐにキッチンがあり、その隣が玄関のドアだ。インターホンがないので、私はドアに向かって声をかける。

「どなたですか?」
「俺だよ。堀川慶」
「えっ……」

 驚いた私は目を見開く。本に集中しているうちに、かなりの時間が経過していたようだ。まさかアパートを直接訪れるとは思わなかった。
 すぐにドアを開けると、そこにはさわやかな笑みを浮かべた堀川くんが立っていた。

「やあ。お待たせ」

 彼のまとったブルーのシャツが陽射しを浴びて、きらめいている。オフのためか、長めの前髪を下ろしているので仕事のときとは雰囲気が異なり、つやめいていた。
 彼の優美さに動揺した私は、たどたどしく言葉を紡ぐ。

「あ……いらっしゃい。本を貸すって約束だったわね。今、持ってくるから」

 きびすを返して、私はすぐに座卓から本を持ってくる。
 せっかく来てくれたのだからお茶でも出すべきなのかもしれないが、狭い部屋なので、あまり気が進まない。
 幸いというべきか、堀川くんは不躾ぶしつけに部屋に上がることはせず、戸口で待っている。
 私は手にした本を彼に差し出した。

「はい、どうぞ」

 堀川くんは本を受け取ると、柔和な笑みを浮かべる。

「ありがとう。読み終わったあとに感想を言い合いたいな。よかったら、これから俺の家に来ないか? ちょうどアランブールっていう店の、頂き物のケーキがあるんだ。俺ひとりじゃ食べきれないから、よかったら佐東さんも一緒に手伝ってもらえると嬉しいな」

 アランブールは、美味おいしいと評判の有名な菓子店だ。いつも店舗には行列ができているし、値段も高価なので買ったことはないけれど、ずっと食べてみたかった。
 見た目も華やかなケーキを思い浮かべた私は、ごくんと唾を呑み込む。
 堀川くんは言葉を継ぐ。

「もちろん車で送迎するから、安心して。佐東さんは足を怪我しているんだからね」
「ありがとう。それじゃあ、お邪魔するわね」

 彼の家を訪問するのであれば、出かける支度をしないといけない。
 車に乗せてくれるのなら、軽装でいいだろう。室内に戻った私は部屋着にカーディガンを羽織り、スマホを入れたバッグを肩にかける。
 靴を履いて戸締まりを済ませると、彼はすいと私の手をすくい上げる。

「俺につかまって。車はすぐそこに停めてあるけど、歩けるかな」
「大丈夫よ。少しの距離なら問題なく歩けるわ」
「だけど大事にしないといけないよ。痛みを感じたらすぐに言ってくれ。おんぶするからね」

 過保護な彼に微苦笑で返す。
 私は堀川くんの患者なので、医師として責任を感じているのだろう。
 手を取られたままアパートの廊下をゆっくりと歩く。ふと目を向けると、道路に面したところにある駐車スペースに高級車が停められていた。
 純白の高級車は、狭いスペースからはみ出すほど車体が長い。まるで要人が乗るようなハイブランドの車種だ。もしかしてこれが堀川くんの車なのだろうか。
 目を丸くしている私の前で、彼は助手席のドアを開ける。

「さあ、どうぞ」
「ありがとう……。すごい車なのね」
「体が資本だからね。もし事故に遭っても最小限の怪我で済むよう、頑丈な車に乗ってるんだ」

 そう言って、彼は私が身をかがめてシートに座るまで、手をつないで支えてくれた。
 堀川くんは助手席のドアを閉めると、運転席に座りギアを入れる。
 車はゆっくり走り出すと、大通りに出て、快晴の空の下を走る。堀川くんの運転は安定感があり、落ち着いて乗っていられた。
 ふと、この座席には本来別の人物が座るべきなのではないかと思い立った私は、彼にたずねる。

「休日なのに、私に時間を使っても大丈夫? 恋人に怒られない?」

 前方を見据えていた彼は苦笑すると、口を開く。

「恋人なんていないよ。助手席に乗せたのは佐東さんだけだから、安心して」

 悠々と述べる堀川くんの言葉に、目をまたたかせる。
 独身だとはバーで聞いていたけれど、まさか恋人もいないとは予想外だった。こんなに格好よくて、仕事がお医者様だったら、数多の女性から付き合ってほしいと言われるのではないだろうか。

「意外ね……。堀川くんはモテそうなのに。告白されないの?」
「されないよ。クリニックのスタッフはみんな既婚だし、家と職場の往復だけだから出会いがないしね。そういえば、佐東さんは恋人はいるの?」
「……いないわ。いたら堀川くんとメッセージのやり取りなんてできないし、あなたの車に乗れないわよ」

 私は独身どころか恋人さえいない。知り合いから男性を紹介してもらったことはあるが、メッセージのやり取りを何度かしただけで音信不通になった。その人は私が派遣社員ということを気にしていたので、おそらく仕事が不安定だから交際相手として考えられないと判断したのだろう。私としても、彼を好きになれなかったので、付き合いたいとは思えなかった。
 お付き合いや結婚をするにはまず仕事を安定させないと始まらないのだと、私はその経験で胸に刻んだのだった。
 そう過去を振り返っていると、堀川くんは嬉しそうな顔をしてつぶやいた。

「そうか。よかった」

 なにがよかったのかわからないが、ひとまず私は頷く。誰にも気を遣わなくていいからという意味かもしれない。
 やがて車は、豪勢なマンションが建ち並ぶ高級住宅地へやってきた。都心の駅近という立地で、このような高級マンションに住めるのは一部のエリートのみだろう。
 その中のひとつの瀟洒しょうしゃなマンションを、堀川くんは指し示す。

「ここだよ」

 車は地下駐車場に滑り込んだ。そこには、ずらりと高級車ばかりが並んでいる。
 所定の位置に車を停めた堀川くんは、「ちょっと待ってね」と言って車を降りた。
 なにをするのだろうと思っていると、彼は助手席側に回り込んで、ドアを開ける。

「俺の手を取って。きみは怪我人なんだから、丁重に扱わないとね」

 差し出された大きなてのひらを前に、私は苦笑いした。
 確かに怪我人ではあるけれど、介助がないと歩けないほどではない。

「堀川くんったら、過保護すぎるわ。ひとりで歩けるわよ」
「いや、油断はいけない。きみが俺の手を取るまで、俺は引かないから」

 彼に冗談を言っている様子はない。
 真摯しんし双眸そうぼうを向けられて、ついどきっとしてしまう。

「わかったわ。先生の指示には従わないといけないものね」
「そうだよ。ゆっくりでいいからね」

 観念した私は、彼のてのひらにそっと手を重ねる。
 大きな手がしっかりと私の手を握りしめると、彼のもう片方の手がドアの上部に触れる。私が降りる際に頭をぶつけないようにと配慮してくれているのだ。
 無事に車から降りると、彼は私の腰に触れるか触れないかくらいの距離で手を添えながら、エレベーターへ向かう。
 丁寧なエスコートになんだか恥ずかしくなり、顔が熱くなる。
 エレベーターに乗り込むと、堀川くんは最上階のボタンを押した。
 到着したエレベーターから降りると、そこは別世界だった。飴色の壁とくろ鳶色とびいろのカーペットでまとめられた廊下は落ち着きがあり、まるで高級ホテルのようだ。
 最上階は一戸しかないらしく、家には門がついている。
 堀川くんはつる模様の門を開けると、玄関ドアのボタン部分にカードキーをかざした。
 カチリと音がしたあと、彼は銀色のドアノブを引く。

「さあ、どうぞ」
「お邪魔します」

 玄関フロアは広々としており、ここだけで私の住んでいるアパートの部屋くらいはありそうだ。
 私はかつて見たことのない玄関に戸惑いつつも、靴を脱ぐ。

「スリッパを履いて。俺はいつも靴下のまま歩いてるけど、佐東さんは汚れるの嫌だろう?」

 そう言った堀川くんは引き戸を開けて、シューズクローゼットからスリッパを取り出した。
 白亜の廊下はぴかぴかに磨き上げられていて、足が汚れるわけはないと思うのだが、せっかく用意してもらったのでご厚意に甘える。

「それじゃあ、履かせてもらうわね」
「どうぞ。お姫様」

 スリッパに足を通そうとして、私は固まった。
 なんと私の前にひざまずいた堀川くんが、膝にスリッパをのせているのだ。
 しかも彼は私の足を手に取ろうとしているかのように、てのひらを差し伸べていた。
 スリッパを履くには彼の膝に足をのせなければならないが、そんな失礼なことができるわけない。
 目を丸くした私は、頬を引きつらせて口を開く。

「あの……なにをしてるの?」
「見てのとおり、佐東さんにスリッパを履かせようとしているだけだけど? さあ、足を通して」

 まるで従者がお姫様にするような待遇に戸惑う。それとも病院だと患者に対してここまでするのだろうか。
 だけど堀川くんに引く気配はない。私が彼の膝に足をのせないと、この場が収まらなさそうだ。
 意を決した私は手すりをつかみ、彼の膝に置かれたスリッパにそっと足を通す。
 スリッパを足先に引っかけてすぐに下ろすつもりが、彼に足首を取られてしまい、かかとまで丁寧に履かせられた。
 ようやく足を下ろせたが、もう片方のスリッパは彼の背後にある。遠い。
 踏み出そうとした私を制するように、堀川くんは左のスリッパを手にしてまた膝にのせた。

「はい。じゃあ次は左足だ」
「……はい」

 なんだか病院の先生に指示されているようである。
 仕方ないので、左足もスリッパに引っかけると、またもや足首をつかまれて丁寧にスリッパを履かせられた。彼は怪我をしている箇所には触れないよう、そっと足首に触れているので、痛くはない。
 極上の笑みを浮かべた堀川くんは、丁重に私の足を床に下ろす。

「よくできたね。上手だよ」
「え、ええ……ありがとう」

 すっと立ち上がった堀川くんは、私の手を引いてリビングへ導く。
 触れられた彼の手は、とても熱かった。
 どきりと心臓が跳ねたけれど、すぐに鎮まる。
 きっと彼は患者を相手にいつもしていて、仕事の癖が出ているのかもしれない。だから私を特別扱いしているわけではないのだ。
 勘違いしてはいけないと胸に刻む。
 案内されたリビングは三十畳ほどある広さで、フルハイトの窓からは絶景が見渡せた。室内は真新しさの感じる純白の壁紙がまぶしい。家具は大きなアイボリーのソファに、大理石のテーブル、そして壁掛けのテレビのみだ。物が少ないせいか、より部屋が広く感じる。
 まさにドラマの世界でしか見たことのない豪奢ごうしゃなリビングに、私は目をみはる。

「素敵なお部屋ね……」
「ハウスキーパーに任せてるから、いつも片付いてるんだ。といっても、なにかをコレクションするような趣味がないから、物自体が少ないんだけどね」

 私から手を離した彼は、キッチンへ向かった。
 途端に空いた手が寂しさを覚える。彼の熱が消えていくのが惜しい気がしたのは、どうしてだろう。

「適当に座って。コーヒーをれるよ」

 キッチンからかけられた軽快な声に、「うん」と返事をする。
 ソファにそっと座ると、上質な革張りの素材のためか、体がふわりと包み込まれる。すぐに堀川くんはコーヒーをふたつ手にしてリビングへ戻ってきた。
 コーヒーの深みのある香りが鼻腔をくすぐる。

「佐東さんは、ミルクと砂糖はいるんだっけ?」
「ううん、ブラックでいいわ」
「そうか。あ……しまったな」

 堀川くんはコーヒーをテーブルに置くと、気まずげに小首を傾げる。

「どうかした?」
「紅茶のほうがよかったかな。佐東さんは紅茶が好きだよね?」
「そんなことないけど。いつもコーヒーを飲んでるから、むしろコーヒーのほうが慣れているし」
「そうなのか。高校生のとき、佐東さんはよく自販機でミルクティーを買っていただろ? だから紅茶が好きなのかと思ってた」

 そういえば、高校生の頃はミルクティーばかり飲んでいたことを思い出す。
 確かにミルクティーは好きなのだが、あれは一時期の流行のようなものだった。それから大人になり、職場でいつも置かれていることもあって、次第にドリップコーヒーをブラックで飲むほうが好きになったのだ。

「学校の近くにあった自販機よね、懐かしい。私がミルクティーばかり買っていたこと、よく覚えてるわね」
「そりゃあね、憧れの人だったから」

 ずきんと、胸が痛みを覚える。
 高校生の頃、堀川くんは私に憧れていたとバーで語っていた。あれは酒の席の冗談だとばかり思っていたけれど、本当なのか。
 視線をさまよわせていると、堀川くんはダイニングへ向かい、食器棚から皿を取り出していた。ダイニングテーブルには白いケーキ箱がのせられている。そういえば、頂き物のケーキがあるので食べてほしいという話だった。
 私はソファから立ち上がり、堀川くんの傍に行く。
 アイランドキッチンの間取りはとても広々としていて、ホワイトカラーの作業台には汚れひとつなかった。

「私もなにか手伝うわ」
「それじゃあ、ケーキ箱を持っていってくれるかな」

 私は頷き、テーブルからケーキ箱を持ち上げる。そして皿とフォークを手にした堀川くんとともに、リビングのテーブルに置いた。
 箱を開けると、中にはきらめく宝石のようなケーキがいくつも詰められていた。
 ショコラやいちごのショートケーキなど、どれもが美味おいしそうで心が躍る。

「佐東さんはどれにする? 全部でもいいよ」
「さすがに全部は食べられないわよ。じゃあ……いちごのショートケーキにしようかな」
「じゃあ、俺も」

 たまたま、ショートケーキがふたつ入っていてよかった。純白のクリームに真紅しんくのいちごがのせられたケーキを、それぞれの皿に取る。

美味おいしそうなケーキね。いただきます」
「どうぞ。召し上がれ」

 堀川くんもフォークを持ち、ショートケーキをすくい上げた。
 口に入れたケーキは舌の上で甘く蕩ける。ふわふわのスポンジと上質のクリームが絡み合い、絶妙なマリアージュを織り成す。
 極上の味を堪能しつつ、私はコーヒーを飲んだ。
 不思議なことに、職場で飲んだことのあるどのドリップコーヒーよりも、堀川くんがれてくれたコーヒーのほうが味わい深かった。

美味おいしい……。堀川くんはコーヒーをれるのが上手なのね」
「ありがとう。うちのコーヒーメーカーに礼を言っておくよ」

 そんなことをおどけて言うので、噴き出しそうになってしまう。
 堀川くんはカップを掲げて続ける。

「豆にはこだわりがあるんだ。佐東さんに気に入ってもらえて嬉しいよ。これまではコーヒーも料理も、自己満足だったから」
「料理もするのね。忙しいのにすごいわ」
「趣味の域だけどね。得意料理は激辛の麻婆茄子マーボーナスだ。それもぜひ佐東さんに味わってほしいな」
「激辛……。辛いもの好きだから嬉しい!」

 喜ぶ私に、堀川くんは笑いをこぼす。彼の白い歯がまぶしく私の目に映った。

「佐東さんが辛いものが好きだってことは知ってるよ。購買で激辛カレーパンを買ってるのを見たことがあったからね」
「えっ、本当!? そんなこと、もう忘れたわ。堀川くんはどれだけ私を見てるの?」

 ふたりで弾けるように笑い合う。
 こんなふうにコーヒーとケーキをたしなみながら楽しく会話できるなんて。最近はつらいことばかり続いていたので、心から笑うことができたのは久しぶりだった。
 話が弾んでいるうちに、ケーキを食べ終える。フォークを置いた堀川くんは、残り少なくなった私のカップに目を向けた。

「もう一杯どう?」
「いただくわ。それを飲みながら、堀川くんが本を読み終わるのを待っていようかな」
「ああ。そうだね」

 会話が弾んだのですっかり忘れかけていたが、堀川くんのマンションを訪ねた目的は本の感想を話すことだ。
 彼はお代わりのコーヒーをれると、雑誌を何冊か持ってきた。

「俺が読んでいる間、手持ち無沙汰だろう? よかったら、これでも読んで」
「ありがとう。それじゃあ、お借りするわね」

 どれも医学系の雑誌なので難しそうだと思ったが、テーマは現在の社会情勢に沿ったものがセレクトされているので興味をそそられた。
 ページをめくり始めた私の隣で、堀川くんが本を手に取る。
 部屋にはしばらく、ページをめくる音が響いた。耳触りのいい音とコーヒーの芳醇ほうじゅんな香りで満たされている、とても心地よい空間だ。
 やがてパタンと本を閉じる音が聞こえて、私は雑誌から顔を上げる。
 満足げな顔をした堀川くんと目が合った。彼の鳶色とびいろの瞳がとても澄んでいることに今さら気づき、胸がどきんとする。

「とても感動する話だったね」
「そうね。結末は悲しいけど」
「そうなんだよね。俺は、悲劇的な話だからこそ救いが必要だと思ってるんだけど、この本はどこがそのポイントだったと思う?」
「えっとね、ラストの手前の……ちょっと見せてもらっていい?」

 私は身を乗り出して、堀川くんが開いたページを覗き込む。ふたりの距離が近づき、肩が触れ合う。
 しばらくの間、物語の展開についてあれこれと意見を交わし、感想を話し合った。
 彼との会話は、まるで水が無限に湧き出る泉のように内容が豊かだ。

「佐東さんと話せて、とても楽しかったよ。またこういった機会をもうけてもいいかな?」
「ええ、ぜひ。私も楽しかったわ」

 ひとしきり話をしたところで、テーブルに置いていたカップを手に取り、コーヒーを飲んで喉をうるおす。
 そろそろ帰ろうと思い、私は窓の外に目を向けた。
 夏のさかりが過ぎたためか、日が短くなってきているので、すでに陽は西に傾いている。
 空のカップをシンクに置くため、私は立ち上がる。

「それじゃあ、そろそろ帰るわね」
「もう? 夕食を一緒に食べないか?」
「そこまでお邪魔するのも悪いから……んっ」

 キッチンのシンクにカップを置いたとき、異変に気づいた私は身じろぎをした。
 なんだか肌がかゆい。
 かゆいところはブラジャーのカップが当たっている辺りなので、服の上だとカップの厚みが邪魔して掻くことができない。
 ブラウスをつかんでいる私に、怪訝けげんな顔をした堀川くんが声をかけてきた。

「どうかした?」
「なんだか、肌がかゆくて……。もしかしたら帯状疱疹たいじょうほうしんかも。前にもかかったことがあるから」
「それは大変だ。掻いてはいけないよ。一度てみようか?」
「え……でも、胸のところだから……」
「俺は医師だから、人の体は見慣れているよ。帯状疱疹たいじょうほうしんだとしたら放っておけない。まずは診断してみて、本当にそうだったら病院に行こう」
「う……ん」

 彼にうながされて、リビングのソファに並んで腰を下ろす。
 帯状疱疹たいじょうほうしんはひどい痛みが続くので、しばらく通院が必要になるだろう。今の段階ではかゆみだけで、まだ痛みはないけれど。
 まずは堀川くんにてもらったほうが、安心できるのではないだろうか。
 でも、そのためには、堀川くんに胸をさらさなければならない。
 たとえ医師とはいえ、同級生の男性に胸を見られるなんて、恥ずかしすぎてできない。
 私はブラウスを握りしめて、困惑の表情を浮かべた。

「あの、でも、全部脱ぐのは、抵抗があるんだけど……」
「それはそうだろうね。ブラウスの隙間からなら、見せられる?」

 ブラウスのボタンは外すが、閉じたまま隙間から覗けば、服は脱がなくて済む。
 それなら大丈夫だと思い、私は頷いた。

「そうね。それなら、見せられるかも」
「じゃあ、カーディガンだけ脱いでくれるかな」

 言われたとおり、私はカーディガンを脱ぐ。それからブラウスのボタンを外していった。
 ブラウスの前を開けると思うだけで、羞恥しゅうちが込み上げてくる。
 でも、これは診察だから……と自分に言い聞かせ、 私は少しだけブラウスを広げた。
 もちろんブラウスの中は裸ではなく、キャミソールとブラジャーをつけている。
 堀川くんは真摯しんし双眸そうぼうで私の肌を見つめていた。

かゆいところはどこ?」
「もうちょっと、下の……胸のところ」

 キャミソールを少しめくり上げるが、かゆいのはブラジャーを外さないと見えない位置だ。
 堀川くんが顔を傾けて患部を見ようとするので、ふたりの距離は吐息がかかりそうなほど近い。

「照明が当たらないから陰になっていてよく見えないな」
「あの、もういいわ。たぶん、こすれただけだと思うから。家に帰って薬を塗るわね」

 なんだか緊張して、胸がどきどきしてきた。
 私がブラウスの前を掻き合わせると、堀川くんは顔を上げて冷静に言った。

「自己判断で市販薬を塗るのはよくない。リビングは照明の位置が悪いから、ちょっと移動してもいい?」
「……わかったわ」

 病院でも診察に来て、やっぱりいいですなんて言うのはよくないだろう。
 堀川くんにうながされてソファから立ち上がった私は、彼とともにリビングを出る。
 彼は、廊下にいくつも並んでいる扉のうちのひとつを開けた。

「どうぞ」

 そこは寝室だった。
 室内は藍色のカーテンとカーペットでまとめられ、落ち着きがある。部屋の中央にキングサイズのベッドが鎮座していて、その脇にサイドテーブルが置かれていた。ウォークインクローゼットらしきドアがあり、おそらくそこに服などを収納しておけるからか、部屋はすっきりとしている。


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