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1巻

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 タタン、タタン……
 規則的な電車の振動が響くたびに、心が沈んでいく。
 ドア近くにたたずんだ私――佐東さとう香織かおりは、窓硝子ガラスの向こうにある夜の闇をぼんやりと見つめた。
 今日は人生で最悪な日だった。
 混み合う車内で、こっそり溜息をつく。
 時刻は午後七時半。この電車に乗っている人々のほとんどが仕事帰りだろう。
 私だって、そうだ。毎日電車通勤をして会社に通っていた。
 ただし、今日までの話だけれど――

「はあ……」

 再びついた重い溜息とともに、先ほどの記憶がよみがえる。
 派遣先の会社を契約満了して、退職となった。
 派遣社員は、ずっと同じ会社に勤め続けることができない。派遣スタッフは同じ会社や部署で働ける期間の上限が三年と、派遣法により定められているからだ。
 独身で二十九歳の私は、いつまでも派遣社員でいることに将来の不安を感じていたので、できれば正社員になりたいと願っていた。今の会社には正社員登用の制度があると聞かされていたので、それを期待して身をにし、働いてきた。
 だけど、いつも派遣先の会社の事情で正規雇用には至らない。
 更新ができない理由を上司にたずねたところ、育児休暇中の正社員が来週から復帰することが急遽きゅうきょ決まったからだそう。
 もとより私は産休の代打という立場で雇われたので、正社員が戻ってくれば用無しだ。
 お局様つぼねさまが「さっさと私に引き継ぎしてちょうだい!」と叫んだ金切り声が、まだキンキンと耳奥にこびりついている。
 そうして、私は引き継ぎをしたあと、本日退職したのだった。
 こういったケースはこれまでにもよくあったが、自分は使い捨てられる身分なのだと思うと悲しくなる。

「正社員になりたいなぁ……」

 小さなつぶやきが、規則的な車輪の音にかき消される。
 電車のドアの細い窓に映る自分の顔は、ひどく疲れていた。
 大きな目には陰りがあり、ルージュがげた唇は固く引き結ばれている。背中まである黒髪は束ねているが、つやがなく、ぱさついていた。
 今後また職探しの日々が始まることを考えるだけで、憂鬱ゆううつになる。
 派遣社員を募っている企業はたくさんあるのだが、正社員となると、ブラック企業しかないのが現状だった。
 アパートでひとり暮らしをしている私は、子どもの頃に両親が離婚してそれぞれ別の家庭を築いているので、頼れる人がいない。自分の食い扶持ぶちは自分で稼がなければならないのだ。無職の期間が長いと貯金を切り崩すしかないので、仕方なくまた派遣社員として勤務するというのを繰り返していた。
 なにか特別な技能でも持っていたら、こんな惨めな目に遭わなくて済むのだろうか。
 でも、今さら学校に通うのは難しいだろう。そこにかける資金や時間の余裕はない。
 そんなことを考えていたとき、ふと私に寄りかかってくる感触に眉をひそめる。
 首を回して後ろを見ると、大柄な男性がやたらと私の背に体を押しつけていた。
 確かに車内は混雑しているのだが、密着するほどでもない。ほかの人たちはわずかに間隔を空けて立っている。
 だが男性はぐいぐいと押してきて、しかも私のお尻に手を当てている。
 えっ……まさか、痴漢……?
 ぞっとしたが、落ち着いてほかの可能性も考える。偶然手が当たっているだけなのかもしれない。
 だけど、仮にそうだとしても、わざわざ男性が女性である私に寄りかからなくてもよいのではないか。
 疑念を抱きながら、さりげなく体をひねって避けると、男性はさらに私の尻に手を押しつけてきた。
 これはもう確信犯だ。彼は痴漢だ。
 やめてください、と言えればいいのだけれど、怖くて声が出せない。
 こんな私の言うことを、誰も聞いてくれないのではないか。身分のない私なんか、誰も守ってくれないのではないか。
 恐怖と屈辱で肩が震え、まなじりから涙がにじみ出る。
 そのとき、ふっと尻をさわっていた感触が消える。

「きみ、なにをしているんだ!」

 険しい声が車内に響き渡る。
 はっとして振り返ると、痴漢をした男の腕を、別の男性がつかみ上げていた。
 切れ上がったまなじりは涼やかで、すっと鼻梁びりょうの通った高い鼻。やや薄くて形のよい唇。聡明そうな目鼻立ちは端麗だ。それなのにはかなげな様子はなく、雄々しさがにじんでいた。
 一八〇センチを超えるだろう長身は、上質なスーツとトレンチコートで包まれている。一目見て、裕福なのだとわかる貫禄だった。
 どこかで会ったような気がするけれど、誰だっただろう……
 その男性から睨まれ、うろたえた痴漢は、ぼそぼそと言い訳をする。

「な、なにも……電車が揺れたから……」
「彼女にわざと密着して、体に手を押しつけていただろう。後ろからはよく見えていたぞ」

 車内がざわざわして、人々がこちらに視線を向けてくる。「やだ、痴漢?」「駅員を呼べ」という声が次々と上がった。
 そのとき、ちょうど電車が駅に到着したアナウンスが流れる。痴漢は渾身の力で男性の腕を振りほどき、開いたドアから転げるように逃げ出した。

「待て!」

 追いかけようとする男性を、私は慌てて引き止める。

「待ってください! 追わなくていいです」

 痴漢を捕まえようとして、もし彼が怪我をさせられるようなことがあってはいけない。犯罪者が、持っていたナイフで捕まえようとした人を刺すという悲しい事件を耳にしたことがある。
 腕を手で制する私を、助けてくれた男性は振り返った。

「本当にいいの? 駅員に突き出して警察を呼んだほうがいいんじゃないか? 俺が付き添うよ」
「いえ、いいんです。痴漢を追いかけて、あなたが怪我をするようなことがあったらいけませんから。助けていただいて、ありがとうございました」

 私は彼に深々と頭を下げた。
 なんて勇気ある人だろう。
 見過ごすこともできたのに、あえて痴漢を捕まえようとしてくれるなんて、なかなかできないことだ。
 顔を上げると、はっとした様子の彼はまじまじと私の顔を見つめた。
 私のほうも彼が見知った人物であることに気づく。

「人違いだったら、すまない。もしかして……佐東香織さんじゃないか?」
「そうです。あなたは……堀川慶ほりかわけいくん?」

 古い記憶が呼び起こされる。
 彼は高校の同級生だった、堀川くんだ。
 特別に仲が良かったわけではないが、クラスメイトの彼は親切で、地味な私にもよく声をかけてくれた。
 だけど卒業してからは一度も会っていない。
 それなのにまさか偶然、こんなところで堀川くんと再会するなんて思いもしなかった。
 驚いていた私は、ふと乗客から好奇の目を向けられているのに気づく。堀川くんが周囲に目をやると、乗客たちは、さっと顔を背けた。

「少し話さないか? 次の駅でホームに降りよう」
「ええ、そうね」

 ドアが閉まったので、私たちはそのまま車内に残る。
 腕を上げた堀川くんが手すりをつかみ、私を守って囲むような体勢になる。あんな騒ぎがあったあとなので痴漢されることはもうないと思うけれど、安心できた。
 すぐに電車は次の駅に到着し、私たちは人がまばらなホームに降り立つ。
 当時と変わらない笑顔で彼は笑いかけた。

「久しぶりだね。まさか佐東さんに会えるなんて、驚いたよ。会社帰りかい?」
「え、ええ……そちらも?」

 私はぎこちなく頷く。退職したものの、会社帰りであることには変わりない。
 すると堀川くんは私の問いを、あっさりと否定した。

「いや、俺は会社員ではないんだ。今日は医師会の会合だったから、たまたま電車に乗ったんだよ」
「医師会……お医者様なの?」
「開業医なんだ。今は外科と胃腸科のクリニックを経営してる」

 私の問いに、彼は優しい笑みを浮かべて頷く。
 堀川くんは学生時代から成績がよかったし、そういえば医学部への進学を希望していた。

「お医者様だなんて、すごいのね」
「すごくはないよ。……ここで立ち話もなんだから、少しだけ飲みに行かないか? 雰囲気のいいバーがあるんだ。案内するよ」

 会社をクビになったばかりなので、飲みに行くような精神状態ではない。
 だけど助けてもらった同級生の誘いを断るのも悪い気がして、私は承諾した。

「そうね。じゃあ、少しだけなら」

 微笑んだ彼は、私の背に触れるか触れないかくらいの仕草でエスコートする。
 堀川くんから淑女のように扱われ、困惑した私は微苦笑をこぼした。


 ふたりで駅の改札を抜ける。
 この駅の周辺は高級マンションが建ち並んでいることで有名な、いわゆるベッドタウンだ。駅を出ると、薄闇に包まれた街には居酒屋やコンビニの明かりがともっている。

「ここは堀川くんの家の最寄り駅なの?」
「うん。――俺のクリニックは、そこだよ」

 堀川くんが指差した方向に目をやる。
 交差点の向こうには、『ほりかわ外科・胃腸科クリニック』という看板とともに、真新しい白亜の建物があった。

「だからこの辺には詳しいんだ。自宅マンションも近くにあって、そこに住んでる。二年前までは大学病院に勤務していたんだけど、独立したくてね。この街は環境がいいから、ここに開院を決めたんだ」
「そうなのね。自分の医院を開業するなんて、素晴らしいことだわ」

 外見の印象通り、彼は成功者なのだ。
 同級生という関係でもなければ、私は医師である堀川くんと飲みになんて行けるような身分ではない。こんなに素敵な人なのだから、彼には恋人か奥様がいるのだろうし、邪魔をしないよう少しだけバーで昔話をして別れよう。
 そんなことを考えていると、堀川くんは瞠目どうもくする。

「優しいんだね。佐東さんは、昔のままだな」
「え?」

 今の言葉のどこに、優しさが含まれていたのだろうか。私はありのままに思ったことを口にしただけだ。
 目をまたたかせていると、やがて路地に入った。バーの看板がいくつか見える中、堀川くんは一軒のバーの前で足を止めた。

「医者をやってると、ねたまれることも多くてね。『素晴らしい』なんて、誰にも言われたことないよ。大学病院を退職するときはパワハラされたな。俺が生意気だったせいかもしれないけど」
「……そうなのね」

 成功者であっても、苦労は多いようだ。
 人の成功を素直に喜べない気持ちもわからなくはない。私自身が不遇の身の上だからだ。
 だけど堀川くんが幸せでいてくれたことは、素直に嬉しかった。彼は私とは違う世界の人間だし、私の知らないところで彼は想像もできないような努力をしてきたのだろうから。
 堀川くんは気を取り直したように明るい声を出し、店のドアを開く。

「愚痴はこのくらいにしよう。――さあ、どうぞ。この店はアヒージョが美味おいしいんだ」

 カラン、と流麗なドアベルが鳴り響く。
 海の底のような紺瑠璃こんるりに包まれた店内に入ると、「いらっしゃいませ」というマスターの低い声とともに、耳心地のよいBGMが流れてくる。
 こぢんまりとした店内にはカウンターのほかに、壁際に並んだいくつかのテーブル席があった。奥のテーブルには男性の三人連れが座っている。時間が早いためか、ほかに客はいなかった。
 トレンチコートを脱いだ堀川くんが、店の入り口近くにあるクロークのハンガーにかける。よく訪れる店だからか、慣れた様子だ。

「カウンターに座ろうか」
「ええ、そうね」

 私たちは戸口に近いカウンターのスツールに、並んで腰を下ろす。
 カウンターの向こうの棚には高級そうな酒瓶が並んでおり、圧倒される。
 慣れたふりをしているが、私はほとんどバーを訪れたことがなかった。恋人ができたこともないし、職場を転々とする仕事柄のせいか交友関係を築きにくく、同僚と飲みに行く機会がない。もちろん、ひとりでバーで飲むなんていう勇気も金銭も持ち合わせていない。バーに入ったことがあるのは、親戚の結婚式の二次会でくらいだ。
 だからどういう注文の仕方をすればよいのかも、よくわからない。
 内心で戸惑っていると、白シャツに黒のベストをまとったマスターが堀川くんに声をかけた。

「先生、いらっしゃい。いつものでいいですか?」
「うん。俺はいつもので。彼女は――佐東さんはなにが飲みたい?」

 そう聞かれても、飲みたいものがわからない。きっとメニューを見ても選べないだろう。
 私は困惑しつつも、笑みを保った。

「堀川くんのおすすめでいいわ。私、好き嫌いはないから」
「そうか。――じゃあ、彼女にはミモザを頼むよ」

 マスターは「かしこまりました」とだけ言うと、無駄のない所作で飲み物を作り始める。

「堀川くんはこの店の常連なのね」
「そうだね。よくカウンターで飲んでるから、常連客にも『先生』って声をかけられるよ。仕事から離れたいからひとりで来てるんだけど、開業医になるとそうもいかなくて困る」

 彼は端麗な顔立ちに苦笑を浮かべた。
 町の医者として、人々に愛されているのだろう。彼自身も困ると言いつつ、どこか嬉しそうだ。
 私が顔をほころばせていると、「お待たせしました」とマスターがテーブルにグラスを差し出す。
 シャンパングラスに注がれた鮮やかなオレンジ色の液体が輝いている。まるで本物のミモザの花のような美しさだ。
 カクテルに見惚れていると、堀川くんは琥珀色こはくいろのウィスキーが入ったロックグラスを掲げた。

「奇跡的な再会に、乾杯」
「乾杯」

 私も彼にならい、繊細なシャンパングラスの脚を慎重に持って掲げる。割ったりしないか心配で、彼のグラスと縁を合わせるなんてできなかった。
 ひとくちミモザを口にすると、甘いオレンジジュースと酸味のあるシャンパンが絶妙に絡み合った極上の美味おいしさが広がる。ふわりと鼻腔をくすぐる柑橘系かんきつけいの香りに、ほうと淡い吐息をついた。

美味おいしい……。こんなに美味おいしい飲み物は初めて飲んだわ」
「喜んでくれてよかった。お腹が空いてるだろう? アヒージョと、クラブハウスサンドにリブロースステーキも注文しよう」
「そ、そんなに頼んで大丈夫?」

 私は心の中で会計の心配をした。
 確かにお腹は空いているのだけれど、おしゃれなバーの料金は高いのではないだろうか。職を失ったばかりなのでふところ心許こころもとない。

「実は俺が腹減ってるんだよね。だから佐東さんが食べきれなくても、全部俺が平らげるから安心して」

 堀川くんは片目をつぶって、茶目っ気を見せた。
 無邪気な表情は昔のままだ。彼のその表情を見たら、私の心配なんて些細ささいに思えた。

「ふふ。それなら大丈夫ね」

 せっかく堀川くんに再会できたのだし、今日はお金の心配なんてしないで楽しもう。
 料理の注文を済ませた堀川くんは、ロックグラスを傾ける。
 目を伏せた彼の長い睫毛まつげうるわしい。
 ロックグラスの氷が、カランと涼しげな音を立てた瞬間、私ははっとした。思わず見惚れてしまっていた。
 慌てて視線をカウンターに戻してカクテルを飲むと、堀川くんは「そういえば」と切り出す。

「同級生で誰かに会ってる?」
「ううん。最近は誰にも会ってないわ」
鳥坂とりさかって覚えてる? ヤンチャで有名だった鳥坂陽太郎ようたろう
「もちろん。金髪で、バイク登校していつも先生に怒られていた男子よね。先生と喧嘩けんかして停学になったこともあったから、すごく有名人だった」

 聞かれたのが共通の知り合いの話で、ほっとした。
 今の私の境遇は、できれば彼に知られたくない。可哀想だと思われたら、より自分が惨めに思えてしまうから。
 そんな私の心中など知らない堀川くんは、笑顔で話を続ける。

「あいつ、今は大学病院の内科医なんだよ」
「えっ!? 鳥坂くんが医者になるなんて……意外ね」
「だろ? 大学病院の研修医になって再会したときは驚いたよ。黒髪になって落ち着いて見えたけど、ヤンチャなのはそのままだったな。教授に反発したときは、俺が冷や汗かいたよ」
「そうなのね……。みんな変わってるんだろうな。同窓会に行けばよかった」

 半年前に高校の同窓会の案内はもらったのだが、私は不参加だった。
 未婚で派遣社員という立場ではなにひとつ誇れることがなく、肩身が狭いのではないかと思ったのだ。仲の良かった女子もいたのだが、家庭を築いて安定している同級生を見るのもつらかった。

「そういえば佐東さんは来てなかったね。捜したけどいないから、あのときはがっかりしたな」
「え? 私を捜したの?」
「それはそうだよ」

 笑いながら堀川くんは、テーブルに並べられたアヒージョやクラブハウスサンドの皿を、私が取りやすい位置に調整する。
 堀川くんにうながされてスプーンを手にした私は、ぎこちなく言った。

「いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」

 律儀に返した堀川くんとともに、食事を進める。
 口にしたアヒージョの海老は、オリーブオイルとニンニクが具材に染みていて、まろやかな味わいだ。
 つとこちらを向いた堀川くんは、真摯しんし双眸そうぼうで私を見つめる。

「実は、佐東さんに憧れていたから、会いたかったんだ」

 空虚な胃袋に上質な料理が注がれていくのを感じながら、彼が言ったことを反芻はんすうする。
 堀川くんが、私に憧れていた――?
 そんなはずはない。きっと彼の社交辞令だろう。
 私は人目を引く美人ではないし、医学部に入れるような頭脳もない。クラスでも目立つ存在ではなかった。

「そうなの? それは……ありがとう」
「本気にしてないだろ。もっと仲良くなればよかったと思ってた」

 思わず咳き込んでしまった。
 クラスには、イケメンで頭脳明晰ずのうめいせきな堀川くんに好意を抱いている女子が何人もいた。そんな彼が私と仲良くなりたかったなんて、意外だった。
 少しして喉が落ち着いた私は、静かにスプーンを置く。

「そんなことないわ。堀川くんは私と仲良くならなくて、よかったと思う」
「どうしてそんなことを言うの?」
「……私は仕事がうまくいっていないから。今日、会社を退職したのよ」

 話の流れで打ち明けることになってしまったが、私は努めて明るく言った。
 私が無職だと知ったら、たいした人間ではないと彼はがっかりするのではないか。
 だけど堀川くんは、納得いかないことを聞いたように眉をひそめる。

「俺も大学病院を辞めたわけだし、離職するのは誰にでもあることだよ。でもそうか、佐東さんは今日、会社のことで大変だったんだね。しかも電車であんな目に……ショックを受けるのは当然だ。それなのに俺は浮かれてバーに誘ったりして……迷惑だったかな」
「ううん、全然。むしろ堀川くんにバーに誘えてもらえなかったら、私はひとりで泣いてたと思う。本当にありがとう」

 笑みを見せると、堀川くんも安堵した表情を浮かべた。
 すると彼は、今気がついたと言わんばかりの様子で訊ねたずる。

「ひとりで、ということは……失礼だけど、結婚は?」
「独身よ。堀川くんは?」
「俺も独身だよ」
「えっ……そうなの? こんなに格好いいから、もう相手がいるかと思った」
「そう言ってもらえると嬉しいけど、残念ながら誰もいないんだな」
「意外だわ……」

 イケメンで、しかも医師の堀川くんが未婚だなんて信じられない。驚いた私はまばたきを繰り返す。
 きっと知り合った女性は、誰もが彼に結婚してほしいと追いかけるのではないだろうか。たとえば職場で出会った看護師と交際に発展したりはしないのか。
 それとも、過去に結婚した経験があるとか……
 私の考えを読んだかのように、堀川くんは補足する。

「一応言うけど、バツイチだから独身というわけじゃないよ。俺は一度も結婚したことがないんだ。もちろん、子どももいない」

 丁寧に説明する堀川くんに、つい微苦笑をこぼす。
 私にそこまで明らかにする必要はないと思うのだけれど、誠実な彼に好感を持った。
 そうなると私だけ秘密にするのはフェアではないので、こちらからも言っておこう。

「私も一度も結婚歴がない独身なの。子どももいないから、本当におひとりさまよ」

 結婚歴がないどころか、恋人すらいたことがないのだけれど、そこまで伝える必要はないと思うので伏せておく。二十九歳という年齢で恋愛経験がない上に処女というのは、もう誰にも言えなくなっていた。

「そうなんだね。それじゃあ、俺がきみに連絡先を聞いても問題ないというわけか」

 ジャケットからスマホを取り出した堀川くんは、わざわざ画面を傾けてこちらに見せる。
 そしてメッセージアプリをタップして、登録されている連絡先一覧を表示した。

「このとおり、女性の連絡先はないから。俺が軽い男じゃないとわかってくれるかな?」

 自ら誠実な男性だとアピールするのがなぜかおかしくて、私はくすりと笑った。
 連絡先を交換するのは社交辞令だろうから、断ると空気を壊してしまいかねない。もしかしたら、また同窓会があるときに連絡したいということかもしれないし。
 私はバッグからスマホを取り出す。

「わかったわ。なにかあったら連絡してね」

 画面をタップして、堀川くんとIDを交換する。
 私の連絡先を登録した彼は、満足げに微笑んだ。

「ありがとう。日中はメッセージを送っても平気かな?」
「ええ。いつでも大丈夫よ。でも……堀川くんこそ忙しいんじゃない?」

 私は明日から無職なので時間があるが、医師という仕事は想像以上に過酷だろう。今日も医師会があったと言っていたし、医院の診療時間だけが仕事というわけではないのだ。
 スマホをジャケットの胸ポケットにしまった彼は、ロックグラスを傾ける。

「時間は作るものだから平気だよ。忙しいからといって、メッセージを送る時間すらないわけじゃないからね」
「ふふ。成功者の発言って感じね」
「それって褒めてる?」
「褒めてるわよ」
「だったら嬉しいよ。小学校の作文で花丸をもらえたときくらい」
「それ……わかるかも。すごく嬉しかったな」

 共感を伝えると、屈託なく堀川くんは笑った。まるで少年のような瑞々みずみずしい笑顔に、私の心が温まる。


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