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特別な褒美 1
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エルミターナ宮殿へ戻る道すがらで、既にユーリイの瞼は閉じていた。部屋のベッドに寝かせて、煌は安堵の息を吐く。
「疲れて寝ちゃった……。お疲れさまでした、ユーリイさま」
怪我もなく無事に済んで良かった。ぐっすり寝入っているユーリイは天使のような寝顔を見せている。
燭台の灯りを吹き消して、隣の談話室へ足をむける。紅宮殿へ戻る前に鞄を取ってこよう。
扉を開けると、アレクはソファに凭れていた。
彼も疲れたのか、うたた寝しているようだ。月光に照らされた精悍な面差しは、玲瓏で麗しい。
近づけば、長い睫毛のひとつひとつまで仔細に見てとれた。青白く光る美しさに思わず手を伸ばしかけたが、思い止まり拳を握りしめる。
触れてはいけない。きっと、壊れてしまう。今まで築いた良好な関係も、何もかも。
踵を返して、ピアノへ向かう。蓋を開ければ、七オクターブの白鍵と黒鍵が整列していた。
アレクの指が触れた鍵盤に、そっと指先を乗せる。
ピアノは弾いたことがないが、楽器の基礎は王宮の講義で学習している。白鍵盤の七音が一オクターブで、右手の親指と左手の小指は一オクターブ違いの同じ音に置くのが基本だ。半音のときは黒鍵盤を弾く。
いつも子守唄を弾いているアレクの指の動きを脳裏に描く。
眠る彼に弾いてあげたい。
煌は指先に想いを込めて鍵盤を沈めた。
アレクが触れたのと、同じ鍵盤に僕は今、触れている。
まるで彼の指先に直接触れたかのような昂ぶりが胸の奥から湧き上がる。
辿々しいけれど静かなピアノの子守唄が奏でられる。
それは月明かりの下に優しく響いた。
「……うん、悪くない」
低い呟きが零れる。はっとして鍵盤から手を上げた。ソファに凭れて眠っているかと思ったアレクは、瞼を閉ざしながら口元にゆったりとした笑みを刻んでいる。
「起きてたんですか?」
「さあ、どうかな。夢の中で黒髪の天使がピアノを弾いているんだ。ただその天使は、いつも同じ箇所を間違えるので教えてあげたくてね」
黒髪の天使とは誰のことだろうか。首を捻っていると、立ち上がったアレクはピアノの傍へやってきた。眠っていたとは思えないほどの確かな足取りだ。
「鍵盤に手を置いて。さあ、弾いてみてくれ」
言われたとおり弾いてみると、曲の中盤でアレクは右の掌を重ねてきた。五本の指に、ぴたりと長い指が合わされる。
どきりと鼓動が跳ねた。
「ここだ。指を移動させて……そう、こちらに」
重なる指は鍵盤の上を誘導して、そのたびにまるで愛撫のように優しく撫で上げる。
「一オクターブ移動するよ。高い音だから、やや強く弾こう。そう、上手だ」
これはピアノの指導なのだ。アレクには何も他意はない。分かっているのに、指先から伝わる彼の体温が心地良くて、どうしようもなく胸が高鳴ってしまう。朱に染まる頬は月光の下でも分かるほどで、煌はできるだけ鍵盤に意識を集中させた。
もう正しい音は理解したのに、アレクは手を解放してくれない。
でも、離さないでほしい。
こんな不埒なことを考える僕は、何ていけない侍従なんだろう。
お願い。今だけ、もう少しだけ、このままでいさせて。
僕だけの、ツァーリでいてほしい。
やがて子守唄は最後の和音を刻む。月明かりに音が吸い込まれ、そして静寂に包まれる。
アレクはそっと指を離した。彼の熱い体温が、手の甲にも指先にも残り、熾火のように燻っている。
「あ……ありがとうございました。とても詳しく分かりました」
席を立てば、月光を碧い眸に映したアレクと視線が絡まる。いつもは冷淡にも見えるその澄んだ眸には、熱が篭っていた。
ふ、と笑みを刻んだアレクの口元から小さな吐息が零れる。
「特別な褒美は、いただけるのかな?」
レースの直前に交わした会話を思い出す。優勝したら、煌から特別な褒美を差し上げるという約束だった。
「ええ、もちろんです。用意しています」
弾かれたように向きを変えて鞄の置いてある棚を探る。心を込めて編んだ赤いマフラーを取り出した。
喜んでもらえるだろうか。煌は些か緊張しながら、再びアレクと向き合う。
鳳凰木と同じ色をした赤のマフラー。
アレクの好きな花の色。
ふわりと首元にかけてあげた。
その赤は、彼の端麗な容貌によく映えていた。
「ありがとう。とても暖かい」
「気に入っていただけたなら嬉しいです」
アレクは双眸を眇めて、大切なものに触れるようにそっと毛糸の表面を撫でる。
「疲れて寝ちゃった……。お疲れさまでした、ユーリイさま」
怪我もなく無事に済んで良かった。ぐっすり寝入っているユーリイは天使のような寝顔を見せている。
燭台の灯りを吹き消して、隣の談話室へ足をむける。紅宮殿へ戻る前に鞄を取ってこよう。
扉を開けると、アレクはソファに凭れていた。
彼も疲れたのか、うたた寝しているようだ。月光に照らされた精悍な面差しは、玲瓏で麗しい。
近づけば、長い睫毛のひとつひとつまで仔細に見てとれた。青白く光る美しさに思わず手を伸ばしかけたが、思い止まり拳を握りしめる。
触れてはいけない。きっと、壊れてしまう。今まで築いた良好な関係も、何もかも。
踵を返して、ピアノへ向かう。蓋を開ければ、七オクターブの白鍵と黒鍵が整列していた。
アレクの指が触れた鍵盤に、そっと指先を乗せる。
ピアノは弾いたことがないが、楽器の基礎は王宮の講義で学習している。白鍵盤の七音が一オクターブで、右手の親指と左手の小指は一オクターブ違いの同じ音に置くのが基本だ。半音のときは黒鍵盤を弾く。
いつも子守唄を弾いているアレクの指の動きを脳裏に描く。
眠る彼に弾いてあげたい。
煌は指先に想いを込めて鍵盤を沈めた。
アレクが触れたのと、同じ鍵盤に僕は今、触れている。
まるで彼の指先に直接触れたかのような昂ぶりが胸の奥から湧き上がる。
辿々しいけれど静かなピアノの子守唄が奏でられる。
それは月明かりの下に優しく響いた。
「……うん、悪くない」
低い呟きが零れる。はっとして鍵盤から手を上げた。ソファに凭れて眠っているかと思ったアレクは、瞼を閉ざしながら口元にゆったりとした笑みを刻んでいる。
「起きてたんですか?」
「さあ、どうかな。夢の中で黒髪の天使がピアノを弾いているんだ。ただその天使は、いつも同じ箇所を間違えるので教えてあげたくてね」
黒髪の天使とは誰のことだろうか。首を捻っていると、立ち上がったアレクはピアノの傍へやってきた。眠っていたとは思えないほどの確かな足取りだ。
「鍵盤に手を置いて。さあ、弾いてみてくれ」
言われたとおり弾いてみると、曲の中盤でアレクは右の掌を重ねてきた。五本の指に、ぴたりと長い指が合わされる。
どきりと鼓動が跳ねた。
「ここだ。指を移動させて……そう、こちらに」
重なる指は鍵盤の上を誘導して、そのたびにまるで愛撫のように優しく撫で上げる。
「一オクターブ移動するよ。高い音だから、やや強く弾こう。そう、上手だ」
これはピアノの指導なのだ。アレクには何も他意はない。分かっているのに、指先から伝わる彼の体温が心地良くて、どうしようもなく胸が高鳴ってしまう。朱に染まる頬は月光の下でも分かるほどで、煌はできるだけ鍵盤に意識を集中させた。
もう正しい音は理解したのに、アレクは手を解放してくれない。
でも、離さないでほしい。
こんな不埒なことを考える僕は、何ていけない侍従なんだろう。
お願い。今だけ、もう少しだけ、このままでいさせて。
僕だけの、ツァーリでいてほしい。
やがて子守唄は最後の和音を刻む。月明かりに音が吸い込まれ、そして静寂に包まれる。
アレクはそっと指を離した。彼の熱い体温が、手の甲にも指先にも残り、熾火のように燻っている。
「あ……ありがとうございました。とても詳しく分かりました」
席を立てば、月光を碧い眸に映したアレクと視線が絡まる。いつもは冷淡にも見えるその澄んだ眸には、熱が篭っていた。
ふ、と笑みを刻んだアレクの口元から小さな吐息が零れる。
「特別な褒美は、いただけるのかな?」
レースの直前に交わした会話を思い出す。優勝したら、煌から特別な褒美を差し上げるという約束だった。
「ええ、もちろんです。用意しています」
弾かれたように向きを変えて鞄の置いてある棚を探る。心を込めて編んだ赤いマフラーを取り出した。
喜んでもらえるだろうか。煌は些か緊張しながら、再びアレクと向き合う。
鳳凰木と同じ色をした赤のマフラー。
アレクの好きな花の色。
ふわりと首元にかけてあげた。
その赤は、彼の端麗な容貌によく映えていた。
「ありがとう。とても暖かい」
「気に入っていただけたなら嬉しいです」
アレクは双眸を眇めて、大切なものに触れるようにそっと毛糸の表面を撫でる。
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