煌めく氷のロマンシア

沖田弥子

文字の大きさ
上 下
34 / 59

特別な褒美 1

しおりを挟む
 エルミターナ宮殿へ戻る道すがらで、既にユーリイの瞼は閉じていた。部屋のベッドに寝かせて、煌は安堵の息を吐く。

「疲れて寝ちゃった……。お疲れさまでした、ユーリイさま」

 怪我もなく無事に済んで良かった。ぐっすり寝入っているユーリイは天使のような寝顔を見せている。
 燭台の灯りを吹き消して、隣の談話室へ足をむける。紅宮殿へ戻る前に鞄を取ってこよう。
 扉を開けると、アレクはソファに凭れていた。
 彼も疲れたのか、うたた寝しているようだ。月光に照らされた精悍な面差しは、玲瓏で麗しい。
 近づけば、長い睫毛のひとつひとつまで仔細に見てとれた。青白く光る美しさに思わず手を伸ばしかけたが、思い止まり拳を握りしめる。
 触れてはいけない。きっと、壊れてしまう。今まで築いた良好な関係も、何もかも。
 踵を返して、ピアノへ向かう。蓋を開ければ、七オクターブの白鍵と黒鍵が整列していた。
 アレクの指が触れた鍵盤に、そっと指先を乗せる。
 ピアノは弾いたことがないが、楽器の基礎は王宮の講義で学習している。白鍵盤の七音が一オクターブで、右手の親指と左手の小指は一オクターブ違いの同じ音に置くのが基本だ。半音のときは黒鍵盤を弾く。
 いつも子守唄を弾いているアレクの指の動きを脳裏に描く。
 眠る彼に弾いてあげたい。
 煌は指先に想いを込めて鍵盤を沈めた。
 アレクが触れたのと、同じ鍵盤に僕は今、触れている。
 まるで彼の指先に直接触れたかのような昂ぶりが胸の奥から湧き上がる。
 辿々しいけれど静かなピアノの子守唄が奏でられる。
 それは月明かりの下に優しく響いた。

「……うん、悪くない」

 低い呟きが零れる。はっとして鍵盤から手を上げた。ソファに凭れて眠っているかと思ったアレクは、瞼を閉ざしながら口元にゆったりとした笑みを刻んでいる。

「起きてたんですか?」
「さあ、どうかな。夢の中で黒髪の天使がピアノを弾いているんだ。ただその天使は、いつも同じ箇所を間違えるので教えてあげたくてね」

 黒髪の天使とは誰のことだろうか。首を捻っていると、立ち上がったアレクはピアノの傍へやってきた。眠っていたとは思えないほどの確かな足取りだ。

「鍵盤に手を置いて。さあ、弾いてみてくれ」

 言われたとおり弾いてみると、曲の中盤でアレクは右の掌を重ねてきた。五本の指に、ぴたりと長い指が合わされる。
 どきりと鼓動が跳ねた。

「ここだ。指を移動させて……そう、こちらに」

 重なる指は鍵盤の上を誘導して、そのたびにまるで愛撫のように優しく撫で上げる。

「一オクターブ移動するよ。高い音だから、やや強く弾こう。そう、上手だ」

 これはピアノの指導なのだ。アレクには何も他意はない。分かっているのに、指先から伝わる彼の体温が心地良くて、どうしようもなく胸が高鳴ってしまう。朱に染まる頬は月光の下でも分かるほどで、煌はできるだけ鍵盤に意識を集中させた。
 もう正しい音は理解したのに、アレクは手を解放してくれない。
 でも、離さないでほしい。
 こんな不埒なことを考える僕は、何ていけない侍従なんだろう。
 お願い。今だけ、もう少しだけ、このままでいさせて。
 僕だけの、ツァーリでいてほしい。
 やがて子守唄は最後の和音を刻む。月明かりに音が吸い込まれ、そして静寂に包まれる。
 アレクはそっと指を離した。彼の熱い体温が、手の甲にも指先にも残り、熾火のように燻っている。

「あ……ありがとうございました。とても詳しく分かりました」

 席を立てば、月光を碧い眸に映したアレクと視線が絡まる。いつもは冷淡にも見えるその澄んだ眸には、熱が篭っていた。
 ふ、と笑みを刻んだアレクの口元から小さな吐息が零れる。 

「特別な褒美は、いただけるのかな?」

 レースの直前に交わした会話を思い出す。優勝したら、煌から特別な褒美を差し上げるという約束だった。

「ええ、もちろんです。用意しています」

 弾かれたように向きを変えて鞄の置いてある棚を探る。心を込めて編んだ赤いマフラーを取り出した。
 喜んでもらえるだろうか。煌は些か緊張しながら、再びアレクと向き合う。
 鳳凰木と同じ色をした赤のマフラー。
 アレクの好きな花の色。
 ふわりと首元にかけてあげた。
 その赤は、彼の端麗な容貌によく映えていた。

「ありがとう。とても暖かい」
「気に入っていただけたなら嬉しいです」

 アレクは双眸を眇めて、大切なものに触れるようにそっと毛糸の表面を撫でる。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

俺の恋路を邪魔するなら死ね

ものくろぱんだ
BL
かつて両親は女神に抗い、自由を勝ち取った────。 生まれた時から、俺は異常だった。 両親に似ても似つかない色を持ち、母の『聖女』の力をそのまま受け継いで。 クソみてぇな世界の中で、家族だけが味方だった。 そんな幼少期を過して、大聖堂で神の子と崇められている現在。 姉から俺に明らかにおかしい『子育て』の依頼が舞い込んだ。 ・・・いくら姉の依頼だとしても、判断を誤ったと言わざるを得ない。 ──────お前俺の片割れだからって巫山戯んなよ!? ─────────────────────── 作者の別作品『お母様が私の恋路の邪魔をする』の番外編をこちらに持ってきました。 『お母様〜』の方を読んだ方がずっとわかりやすいです。

出戻り聖女はもう泣かない

たかせまこと
BL
西の森のとば口に住むジュタは、元聖女。 男だけど元聖女。 一人で静かに暮らしているジュタに、王宮からの使いが告げた。 「王が正室を迎えるので、言祝ぎをお願いしたい」 出戻りアンソロジー参加作品に加筆修正したものです。 ムーンライト・エブリスタにも掲載しています。 表紙絵:CK2さま

知らぬ間に失われるとしても

立石 雫
BL
 旭の親友の圭一は、中学の時から野球部で、活発で表裏のないさっぱりとした性格の男らしいやつだ。――でもどうやら男が好きらしい。  学年でも評判の美形(かつゲイだと噂されている)柏崎と仲良くなった圭一。そんな親友を見守ろうと思っていた旭は、ある日、圭一に「お前が好きだ」と告白される。  戸惑いながらも、試しに付き合ってみることにした旭だったが、次に会った時、圭一は何故か旭とのことだけを全て忘れていた……

からっぽを満たせ

ゆきうさぎ
BL
両親を失ってから、叔父に引き取られていた柳要は、邪魔者として虐げられていた。 そんな要は大学に入るタイミングを機に叔父の家から出て一人暮らしを始めることで虐げられる日々から逃れることに成功する。 しかし、長く叔父一族から非人間的扱いを受けていたことで感情や感覚が鈍り、ただただ、生きるだけの日々を送る要……。 そんな時、バイト先のオーナーの友人、風間幸久に出会いーー

光る穴に落ちたら、そこは異世界でした。

みぃ
BL
自宅マンションへ帰る途中の道に淡い光を見つけ、なに? と確かめるために近づいてみると気付けば落ちていて、ぽん、と異世界に放り出された大学生が、年下の騎士に拾われる話。 生活脳力のある主人公が、生活能力のない年下騎士の抜けてるとこや、美しく格好いいのにかわいいってなんだ!? とギャップにもだえながら、ゆるく仲良く暮らしていきます。 何もかも、ふわふわゆるゆる。ですが、描写はなくても主人公は受け、騎士は攻めです。

純情将軍は第八王子を所望します

七瀬京
BL
隣国との戦で活躍した将軍・アーセールは、戦功の報償として(手違いで)第八王子・ルーウェを所望した。 かつて、アーセールはルーウェの言葉で救われており、ずっと、ルーウェの言葉を護符のようにして過ごしてきた。 一度、話がしたかっただけ……。 けれど、虐げられて育ったルーウェは、アーセールのことなど覚えて居らず、婚礼の夜、酷く怯えて居た……。 純情将軍×虐げられ王子の癒し愛

【完結R18】異世界転生で若いイケメンになった元おじさんは、辺境の若い領主様に溺愛される

八神紫音
BL
 36歳にして引きこもりのニートの俺。  恋愛経験なんて一度もないが、恋愛小説にハマっていた。  最近のブームはBL小説。  ひょんな事故で死んだと思ったら、異世界に転生していた。  しかも身体はピチピチの10代。顔はアイドル顔の可愛い系。  転生後くらい真面目に働くか。  そしてその町の領主様の邸宅で住み込みで働くことに。  そんな領主様に溺愛される訳で……。 ※エールありがとうございます!

処女姫Ωと帝の初夜

切羽未依
BL
αの皇子を産むため、男なのに姫として後宮に入れられたΩのぼく。  七年も経っても、未だに帝に番われず、未通(おとめ=処女)のままだった。  幼なじみでもある帝と仲は良かったが、Ωとして求められないことに、ぼくは不安と悲しみを抱えていた・・・  『紫式部~実は、歴史上の人物がΩだった件』の紫式部の就職先・藤原彰子も実はΩで、男の子だった!?というオメガバースな歴史ファンタジー。  歴史や古文が苦手でも、だいじょうぶ。ふりがな満載・カッコ書きの説明大量。  フツーの日本語で書いています。

処理中です...