淫神の孕み贄

沖田弥子

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王宮へ

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ラシードは双眸を細めてセナを眺めていたが、ふ、と口端に優雅な笑みを刻んだ。

「そうだな。懸命に尽くすがいい」

彼の眸の奥に、昏い焔が灯った気がした。
けれど気のせいだろう。トルキア国の王であるラシードに裏の顔などあるはずがない。

「はい。頑張ります」

明るく返事をしたセナの頭を、ラシードは優しく撫でてくれた。大きな温かい手のひらに、今までの生活で張り詰めていたものが溶かされていくようだ。
やがて馬車は衛士が佇む壮大な門をくぐる。眼前に現れた王宮は、地の果てまで続いているのかと思われるほど広大だった。

「うわあ……すごい」

整地されて植樹された庭園には、噴水が飛沫を上げている。白亜の宮殿は庭園の奥に壮麗さを湛えて佇んでいた。ずらりと並んだ窓にはすべて透かし彫りのトレーサリーが装飾されて、繊細な美しさを誇る。
王宮を初めて訪れたセナは感嘆の声を上げながら窓の外を眺めた。

「ここがすべてラシードさまのお屋敷ですか?」
「私の住んでいる宮殿は奥だけだ。手前に見えるのが執務を行う宮殿。それに議事場、催事場、諸外国の大使を迎えるための宮殿もある」
「本当に王様なんですね……」

僕はすごい御方に買われてしまった。
セナの胸は未だ驚きに満ちていて、実感がない。

「そなたは面白いことを言うな」

はっとして振り向くと、ラシードは可笑しそうに喉奥で笑っている。
王様に対して、本当に王様ですねだなんて大変無礼な言い方だ。

「も、申し訳ありません。ご無礼を……うわっ」

床に跪いて土下座しようとしたら、馬車が揺れて転倒しそうになる。傾いた体をラシードは難なく受け止めた。

「先ほども思ったが、なんという華奢な体だ。無茶をするな。そなたは私の腕の中にいれば良い」
「は、はい」

腕の中にきつく抱き込まれてしまい、頬が朱を刷いたように染まる。
誰かに抱きしめられるなんて、赤子のときに母が抱いてくれた以来だ。どうして奴隷のセナを大切にしてくれるのだろう。
王様ともなれば慈愛に溢れているということなのかもしれない。ラシードに何も他意はないらしく、平然として窓の外を指さし話を続けた。

「そしてあれが、イルハーム神を祀る神殿だ」

男の腕に抱かれながら目にした神殿は、ひときわ大きく、美しい。
宮殿と同じ白亜の大理石で造られ、繊細な彫刻が施されているのが遠目からも確認できる。
こんなに素晴らしい建造物は初めて見た。きっと内部には、セナが毎日掃除していたイルハーム神と同じお姿の像が祀られていることだろう。
けれど感動するセナの胸を一抹の悪い予感が過ぎる。
何だろう。この黒い靄のような、得体の知れないものは。
セナは首を振って、胸の裡の不安を追い払う。
あまりにも雲の上の御方に買われたので、幸せすぎて怖いからだろう。王であるラシードは王侯貴族が連なるアルファの頂点に立っている。オメガにとって、これ以上ない最高のご主人様だ。

「素晴らしい神殿ですね。僕は丘の上に祀られたイルハームさまの神像を毎日掃除していました。ここでも、お掃除させていただけますか?」
「いいだろう。そんな余裕があればの話だが」
「はい。ぜひ」

含みを持たせたラシードの言い方に首を捻るが、食堂の仕事をこなしていたのだから、掃除と掛け持ちすることは苦にならないはずだ。
長い路を馬車は駆けて、やがて王宮の一角に辿り着いた。降車すると、待機していた召使いが一斉に跪いて頭を下げる。

「お帰りなさいませ、我が王」

傅く人々にセナは怯えながら、ラシードの背後に隠れて大理石の階段を上る。召使いが開けてくれた重厚な扉をくぐると、宮殿の内部は壮麗なモザイク模様に彩られていた。麗しいアーチの円柱が森のように連なり、見上げた天井は遙か遠くに金色の蔓が装飾されている。

「わあ……すごい」

非日常の空間を目の当たりにして、先ほどから感嘆の声ばかり漏れてしまう。セナの知る古びた食堂や宿舎とは別世界だ。
前を行くラシードは無言で柱が連なる長い回廊を進んだ。セナはその後ろを、マントの裾を握りしめながら裸足で付いていく。最奥に位置している黄金の扉の前に辿り着くと、ここでも召使いたちが頭を下げて待っていた。その中のひとりは他の召使いたちとは異なり、水色のクーフィーヤを身につけている。男性が正装として頭に装着するクーフィーヤは様々な色がある。他の召使いは朱の小さな帽子なので、彼は王の側近だろうか。

「お帰りなさいませ、ラシードさま。その奴隷は……」
「下がれ、マルドゥク」

ラシードが命じると、マルドゥクと呼ばれた側近らしき男は口を噤んで後ずさる。だがセナが通り過ぎる間際、鋭い一瞥を投げてきた。ぎくりとしたが、彼は無言で身を翻した。奴隷の分際で王の傍に立つなど恐れ多いと言いたいのだろう。
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