みちのく銀山温泉

沖田弥子

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閑話 影

猿面

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「私は、あなたに宿を手伝ってほしいんです。以前、兄さんが宿を手伝うと言ったことを守ってほしいなんて言いません。あやかしが見えるから都合がいいなんて思っていません。ただ、あなたにこの花湯屋を居場所にしてほしいんです」
「ちょっと待て!」

 切々と訴えるおゆうの言葉をたまらず遮る。
 この娘は、気づいている。
 俺が、本物の花野圭史郎ではないということに。
 一瞬昂ぶったが、すぐに波が引くがごとく心中は冷めた。
 わからないわけはないのだ。使用人たちですら、別人のようだと囁いていたのだから。
 ただ俺が、気づいてほしくないから、他人にはわからないはずだという願望を抱いていただけに過ぎない。
 欄干を握りしめ、苦渋の声を絞り出す。

「……いつ、気づいた?」

 そんなことを聞いても無意味なのはわかっているが、訊ねずにはいられない。
 目をいっぱいに見開いたおゆうは、何かに耐えるかのように肩を震わせた。

「初めから……見えていました。あなたに会ったときから、兄さんの内側が、黒い影で満たされているのを……。言い出せませんでした、ごめんなさい」

 おゆうは頭を下げて俺に謝罪した。
 非常にいたたまれず、唇を歪める。
 謝ってもらうような立場ではない。俺のせいで、花野圭史郎は死んだのだ。
 その罪から逃れるための言い訳を口にしかけて、やめた。
 なんと言うつもりだ。おゆうはすべてわかっていたうえで、俺を兄の圭史郎として扱っていたのだ。笑って飯を作り、互いに何食わぬ顔をして会話を交わした。滑稽だが、そうさせたのは俺だ。
 彼女は俺の真の名を口にしたが、おそらく偶然かと思える。
 まだ、つむじを見せているおゆうが気の毒になり、嘆息した俺は声をかけた。

「頭を上げろ。俺の、名前だが……」
「はい」

 顔を上げた彼女の瞳に恐れはなく、むしろ期待に満ちていた。
 あやかしの俺に、あやかしお宿を手伝ってほしいというのなら、なかなか胆力のある娘だ。

「圭史郎と、名で呼べ。これからはな」
「はい……圭史郎さん。それじゃあ、花湯屋を……」

 そのとき帳場から、「ピキッ」と引きつった悲鳴が響いてきた。
 はっとした俺とおゆうは、花湯屋の玄関へ走る。

「小豆、どうしたの⁉」

 俺たちの目に飛び込んできたのは、小豆を握り潰そうとしている猿の姿だった。
 いや、違う。ただの猿ではない。

猿面さるめんだ! 近づくな」

 あやかしの猿面は、文字通り猿の面を被っているが、面を取ると顔がない。顔を削がれた猿が恨みを抱いてあやかしになったと伝えられている。低級なあやかしだが凶暴なので厄介だ。
 小豆を捕らえた猿面は長い腕を構え、威嚇してきた。

「ギギィ!」
「小豆を離して!」

 おゆうは果敢に猿面に向かっていった。
 腕を伸ばして、小豆を助けようとする。
 たとえ人間よりは小柄な猿面であっても、爪で裂かれれば皮膚が抉れる。
 無謀なおゆうに舌打ちを零した俺は、彼女を庇おうと咄嗟に踏み出した。
 猿面が繰り出した一撃が、おゆうの頭を掠める。
 その瞬間、背中の傷が、ずくりと疼いた。

「ぐっ」

 黒い影が伸びる。
 背中の傷から這い出した、俺の本体の一部が。
 黒の手はおゆうを襲おうとした猿面の腕を掴み上げた。

「ギキイイィ……」

 悲鳴を上げた猿面のもう片方の腕から、ぽろりと小豆が零れ落ちる。おゆうは両の掌で、丸い体を受け止めた。

「小豆、大丈夫ですか⁉」
「ふええ……だいじょび……」

 頼りない声を出した小豆だが、怪我はないようだ。毛皮が厚いので、爪で掴まれても体には食い込まなかったのだろう。

「さて、こいつをどうするか」

 黒の手で腕を捻り上げた猿面を見やると、先程の勢いはなく、ひどく怯えていた。ぶらりと吊り下げられた体を震わせている。

「ヒイィ……許してください。珍しい鼠がいたのでよく見ようと思って、掬い上げただけなのです」
「だが、おゆうを襲おうとしたよな?」
「こちらが襲われるかと思いまして……傷つけるつもりはありませんでした。わしの姿が見えるなんて、何者かと驚いたのもあったんです」

 状況が不利になると一転して下手に出る猿面を、疑念を込めた眼差しで睨みつける。掌で小豆を包んだおゆうは、俺に懇願した。
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