みちのく銀山温泉

沖田弥子

文字の大きさ
上 下
72 / 88
閑話 影

影の苦悩

しおりを挟む
「……なるほど」

 おそらく、孤独なおゆう自身が居場所を求めているのではないかと俺は思った。
 彼女の考えには共感できなくもないが、閻魔大王の側近が務まらなかった俺が、人間のふりをして客に頭を下げるなんてできるわけない。

「いいんじゃないか。勝手にやれよ」

 突き放した言い方をして、彼女の手から匙を奪い取る。
 啜った粥は冷えていたので、喉をするりと通った。ほんのりと香る生姜が、やけに辛く染みる気がする。

「……そうですね。兄さんは怪我のこともありますから、体を治すことだけを一番に考えてください。私はひとりでも、花湯屋を開業させます」

 おゆうは強い決意を秘めた瞳を向けてきた。
 ひたむきな彼女の態度に、俺は粥を啜っていた手を止める。

「そうか。まあ、がんばれよ」
「はい! 兄さん、粥は温め直さなくていいんですか? もう冷めてますよね」
「ああ。熱いほうが飲めない。これくらいでいい」
「よかった。少しでも食べてくれて。おいしいですか?」

 おいしいとは、どういうことだ?
 考えつつ、匙を往復させて喉に粥を流し込む。味の良し悪しなどはわからない。
 この哀れな娘があまりにも懸命なので、せめて粥くらいは食べてやろうという気になっただけだ。
 地上のあやかしは大抵が雑種だが、なかには凶悪な者も紛れ込んでいる。そんな奴らを客として宿に迎え入れようなどと、無謀だ。おゆうは危険な目に遭うかもしれない。彼女はあやかしが見えるだけで、特殊能力は持っていない。
 あやかしお宿とやらは、早々に頓挫するだろう。
 ややあって、土鍋に入っていた粥はすべてなくなった。完食した俺は匙を置く。

「……うまかった」

 よくわかっていないのだが、上辺だけの世辞を言う。
 おゆうは嬉しそうに笑った。

「兄さんにそう言ってもらえるのが、何より嬉しいです」

 圭史郎も以前はおゆうに食事を作ってもらったことがあるのだろう。
 だが、その兄は俺ではない。
 何だか面白くない気分になり、俺は湯呑みで水を飲むふりをして歪ませた唇を隠した。
 俺はあやかしの影のつもりでいたが、花野圭史郎でもあるのだ。
 だが、その事実を知る者は誰もいない。
 この先どうなるのか、俺自身ですらわからなかった。



 ひと月ほどが経過して、首の矢傷は治った。おゆうが毎度の食事を作って提供してくれたので、それを食べたせいもあり、体調もよくなった。
 俺は宿などやらないと言っているのに、彼女は献身的に尽くしてくれた。誰かにそのように大切に扱われたことなどなかったので、むず痒いような感じもするが、好意は受けるのは心地好いものだった。
 その一方、器の内側が抜けることはなく、さらに密着していく感触がした。無論、圭史郎本人が語りかけることはおろか、動き出すことなどない。奴の意識は完全に消滅したのだと思えた。やはり、圭史郎は死んだのだ。
 そうすると影の能力によって生かされているこの体だけが、取り残されたことになる。そして周囲の人間たちは、花野圭史郎が変わらずに生きていると思い込んでいるのだ。
 つまり、俺は花野圭史郎として生きていかなければならない。
 俺が、人間になる……?
 ありえない思考にかぶりを振る。上級あやかしである俺が、人間になどなれるはずがない。せいぜい、かりそめの人間といったところか。だが待っていたところで圭史郎本人が帰ってくるわけではないのだ。いったい、いつまで、俺は花野圭史郎でいなければならない?
 考えるほど困惑は深まり、羽織った半纏を懐手にする。部屋の窓から眺める庭木は寒々しいものに変化していた。そろそろ冬が訪れるらしい。
 ふと、あやかしの気配を察知して、後ろを振り返る。

「なんだ、おまえか」

 ころんとした体で壁の穴をすり抜けた小豆が、こちらへやってきた。いつもおゆうから離れないのに珍しい。この雑種は俺を警戒しているのか、俺にすり寄ってくるということは決してない。

「おゆうはくりやだろう。もうここにはいないぞ」

 言葉は通じているはずだが、小豆は俺の手の届かない距離で、ぼんやりと佇んでいた。
 ふいに開かれた小さな口から、低い声音が紡がれる。

「おゆうから離れろ。地獄に戻ってこい」

 瞠目した俺は、息を呑む。
 誰だ、こいつは。

「おまえ……‼」

 小豆を捕まえようと手を伸ばすと、寸前で身を翻した。丸い体は慌てて穴をくぐり、廊下へ逃げていった。
 俺は空を切った掌を見つめて、呆然とする。
 あの低い声は、小豆のものではない。小動物の体を通して、何者かの言霊を伝えたのだ。しかも声の主は、俺の正体を知っている。

「あの声は……アカザだな」
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

ルナール古書店の秘密

志波 連
キャラ文芸
両親を事故で亡くした松本聡志は、海のきれいな田舎町に住む祖母の家へとやってきた。  その事故によって顔に酷い傷痕が残ってしまった聡志に友人はいない。  それでもこの町にいるしかないと知っている聡志は、可愛がってくれる祖母を悲しませないために、毎日を懸命に生きていこうと努力していた。  そして、この町に来て五年目の夏、聡志は海の家で人生初のバイトに挑戦した。  先輩たちに無視されつつも、休むことなく頑張る聡志は、海岸への階段にある「ルナール古書店」の店主や、バイト先である「海の家」の店長らとかかわっていくうちに、自分が何ものだったのかを知ることになるのだった。  表紙は写真ACより引用しています

婚約者の幼馴染?それが何か?

仏白目
恋愛
タバサは学園で婚約者のリカルドと食堂で昼食をとっていた 「あ〜、リカルドここにいたの?もう、待っててっていったのにぃ〜」 目の前にいる私の事はガン無視である 「マリサ・・・これからはタバサと昼食は一緒にとるから、君は遠慮してくれないか?」 リカルドにそう言われたマリサは 「酷いわ!リカルド!私達あんなに愛し合っていたのに、私を捨てるの?」 ん?愛し合っていた?今聞き捨てならない言葉が・・・ 「マリサ!誤解を招くような言い方はやめてくれ!僕たちは幼馴染ってだけだろう?」 「そんな!リカルド酷い!」 マリサはテーブルに突っ伏してワアワア泣き出した、およそ貴族令嬢とは思えない姿を晒している  この騒ぎ自体 とんだ恥晒しだわ タバサは席を立ち 冷めた目でリカルドを見ると、「この事は父に相談します、お先に失礼しますわ」 「まってくれタバサ!誤解なんだ」 リカルドを置いて、タバサは席を立った

人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。

松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。 そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。 しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。

【完結】内緒で死ぬことにした  〜いつかは思い出してくださいわたしがここにいた事を〜

たろ
恋愛
手術をしなければ助からないと言われました。 でもわたしは利用価値のない人間。 手術代など出してもらえるわけもなく……死ぬまで努力し続ければ、いつかわたしのことを、わたしの存在を思い出してくれるでしょうか? 少しでいいから誰かに愛されてみたい、死ぬまでに一度でいいから必要とされてみたい。 生きることを諦めた女の子の話です ★異世界のゆるい設定です

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。