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閑話 影
なりかわり 2
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数日が経ち、圭史郎の体は次第に回復してきた。
花野家は屋敷に多くの使用人を抱える地主で、圭史郎はたったひとりの跡取り息子だというのが、ここ数日で得た情報だった。
圭史郎の父親は前妻に先立たれ、後妻の連れ子は娘だそうである。そうすると莫大な財産を受け継ぐのは圭史郎しかおらず、父親が息子の容態を心配するのも道理だった。
幼い頃から使用人に囲まれ、何不自由のない暮らしをしてきたのであろう圭史郎の面影を、俺は脳裏に思い浮かべた。あの屈託のない笑顔と、恐れを知らない天真爛漫な様子は、世間の辛酸を知らない恵まれた者ゆえのものだったのだろう。地獄で大王と喧嘩して、つまはじきにされた俺とは全く違った人生だ。
布団から身を起こし、嘆息を零す。
すると、そっと襖を開けた女中が、怖々声をかけてきた。
「坊ちゃま……お食事ができましたが……」
「いらないと言ってるだろ。あんなまずいものが食べられるか」
苛々して返すと、目を伏せた女中は襖を閉めた。
使用人たちは腫れ物に触るように俺に接してくるので、神経を逆撫でされる。
そうしてから奴らは裏で噂話を繰り広げる。
『何だろうね、あの態度。今までの優しかった坊ちゃまとは別人みたいだよ』
『言葉遣いも、まるで違うしね。洞窟で山賊に襲われたそうだけど……そのときに何かあったのかねぇ』
舌打ちを零した俺は、水の入った湯呑みを襖にぶちまけた。
まったく腹立たしい。
いくら外見が同じでも、中身が違えば別人だとわかってしまうものらしい。使用人たちは、今の圭史郎は誰かが成り代わっているのではないかと疑っている。それほど、俺と圭史郎の人柄がかけ離れているというわけだが、だからといってわざとらしく圭史郎を装うのも馬鹿らしかった。
「うんざりしてきたな……。そろそろ脱ぐか」
人間どもに囲まれて世話を焼かれるのも窮屈なものだ。この体は回復したわけだし、もう俺が体内から出ても大丈夫だろう。あやかしの俺が入らなければ、あのまま体の機能は停止して死亡していたのだ。圭史郎は矢が刺さったあとのことは何も覚えていないだろうが、俺のおかげで助かったのだから感謝してほしいものである。
縁側から庭へ出た俺は、欅の木の陰へ回った。
陽射しが大木の濃い陰影を形作っている。
ここなら俺が体を脱ぎ捨てたあと、意識の戻った圭史郎はすぐに部屋に戻れるだろう。木陰があるので、俺は夜までここに身を潜めていられる。
誰も来ないことを確認してから、体の内側を蠢かせた。医者が塞がっていると言った背中の出入口を、わずかに開く。
体内から這いずり出ようとしたが。
「うっ」
何だ、どうしたんだ。
出られない。
影である俺の本体が、器に密着したようになって剥がれない。
こんなことは初めてだ。
焦った俺は圭史郎の腕を伸ばし、背中の傷に触れてみた。
少し、開いている。出口については問題ない。普段ならここから出られるはずなのに。
身を捩っていた俺は思い当たる可能性に、はっとした。
「まさか……圭史郎は死んだのか⁉」
死骸に入ることはできないので、俺が圭史郎の体に入ったとき、彼はまだ生きていたことになる。だが、もしその直後に死亡したのだとしたら。
未知の事態に、ぞっと背筋が震えた。
人間に取り憑いている最中に、死亡させてしまった経験はない。そもそも、そんなに長い期間を過ごすことはなかった。せいぜい数日だけだ。
器の人間が死んだら、出られなくなるのか……?
そうすると、この体は今、俺の能力のみで生きながらえていることになる。本物の花野圭史郎は死んでいるのに、器だけが残されてしまったのだ。
「まいったな。器を壊せば出られるか……?」
このまま圭史郎に成り代わっているなんて、冗談じゃない。
だが、無理やり体を破壊すれば、俺自身もどうなるかわからない。器と本体は、まるで固まってしまったかのように癒着していた。
困惑していたそのとき、かすかな足音が耳に届く。
「誰だ!」
ぎらりと視線を向けると、庭木の向こうに小花柄の着物を纏った若い娘が立っていた。
誰何された娘は慌てて周囲を見回すと、身を屈めてこちらへにじり寄ってくる。
無様な恰好に気勢が削がれる。俺は殺気を収めた。
ただの人間の小娘だ。さりげなく浴衣の襟首を直して、傷を隠す。
傍にやってきた娘は、大きな瞳で俺を見つめた。
「兄さん、お元気そうでよかったです! 父さんから、会ってはいけないと言われているので、こっそり来ちゃいました」
兄さんということは、この娘が圭史郎の妹か。
そういえば、妹は生まれつきあやかしが見えるだとか、圭史郎が語っていたな。
まさか俺の正体は見破られていないだろうな……
訝しげに妹を見やると、ふと彼女の肩にとまっている小さなネズミが目に入った。
ひょいとネズミの襟首を摘まんで持ち上げる。
白地に橙色のぶちが入っている、太ったネズミだ。尻尾が二本ある。
「こいつは……鼠又の亜種か。珍しい種類だな」
花野家は屋敷に多くの使用人を抱える地主で、圭史郎はたったひとりの跡取り息子だというのが、ここ数日で得た情報だった。
圭史郎の父親は前妻に先立たれ、後妻の連れ子は娘だそうである。そうすると莫大な財産を受け継ぐのは圭史郎しかおらず、父親が息子の容態を心配するのも道理だった。
幼い頃から使用人に囲まれ、何不自由のない暮らしをしてきたのであろう圭史郎の面影を、俺は脳裏に思い浮かべた。あの屈託のない笑顔と、恐れを知らない天真爛漫な様子は、世間の辛酸を知らない恵まれた者ゆえのものだったのだろう。地獄で大王と喧嘩して、つまはじきにされた俺とは全く違った人生だ。
布団から身を起こし、嘆息を零す。
すると、そっと襖を開けた女中が、怖々声をかけてきた。
「坊ちゃま……お食事ができましたが……」
「いらないと言ってるだろ。あんなまずいものが食べられるか」
苛々して返すと、目を伏せた女中は襖を閉めた。
使用人たちは腫れ物に触るように俺に接してくるので、神経を逆撫でされる。
そうしてから奴らは裏で噂話を繰り広げる。
『何だろうね、あの態度。今までの優しかった坊ちゃまとは別人みたいだよ』
『言葉遣いも、まるで違うしね。洞窟で山賊に襲われたそうだけど……そのときに何かあったのかねぇ』
舌打ちを零した俺は、水の入った湯呑みを襖にぶちまけた。
まったく腹立たしい。
いくら外見が同じでも、中身が違えば別人だとわかってしまうものらしい。使用人たちは、今の圭史郎は誰かが成り代わっているのではないかと疑っている。それほど、俺と圭史郎の人柄がかけ離れているというわけだが、だからといってわざとらしく圭史郎を装うのも馬鹿らしかった。
「うんざりしてきたな……。そろそろ脱ぐか」
人間どもに囲まれて世話を焼かれるのも窮屈なものだ。この体は回復したわけだし、もう俺が体内から出ても大丈夫だろう。あやかしの俺が入らなければ、あのまま体の機能は停止して死亡していたのだ。圭史郎は矢が刺さったあとのことは何も覚えていないだろうが、俺のおかげで助かったのだから感謝してほしいものである。
縁側から庭へ出た俺は、欅の木の陰へ回った。
陽射しが大木の濃い陰影を形作っている。
ここなら俺が体を脱ぎ捨てたあと、意識の戻った圭史郎はすぐに部屋に戻れるだろう。木陰があるので、俺は夜までここに身を潜めていられる。
誰も来ないことを確認してから、体の内側を蠢かせた。医者が塞がっていると言った背中の出入口を、わずかに開く。
体内から這いずり出ようとしたが。
「うっ」
何だ、どうしたんだ。
出られない。
影である俺の本体が、器に密着したようになって剥がれない。
こんなことは初めてだ。
焦った俺は圭史郎の腕を伸ばし、背中の傷に触れてみた。
少し、開いている。出口については問題ない。普段ならここから出られるはずなのに。
身を捩っていた俺は思い当たる可能性に、はっとした。
「まさか……圭史郎は死んだのか⁉」
死骸に入ることはできないので、俺が圭史郎の体に入ったとき、彼はまだ生きていたことになる。だが、もしその直後に死亡したのだとしたら。
未知の事態に、ぞっと背筋が震えた。
人間に取り憑いている最中に、死亡させてしまった経験はない。そもそも、そんなに長い期間を過ごすことはなかった。せいぜい数日だけだ。
器の人間が死んだら、出られなくなるのか……?
そうすると、この体は今、俺の能力のみで生きながらえていることになる。本物の花野圭史郎は死んでいるのに、器だけが残されてしまったのだ。
「まいったな。器を壊せば出られるか……?」
このまま圭史郎に成り代わっているなんて、冗談じゃない。
だが、無理やり体を破壊すれば、俺自身もどうなるかわからない。器と本体は、まるで固まってしまったかのように癒着していた。
困惑していたそのとき、かすかな足音が耳に届く。
「誰だ!」
ぎらりと視線を向けると、庭木の向こうに小花柄の着物を纏った若い娘が立っていた。
誰何された娘は慌てて周囲を見回すと、身を屈めてこちらへにじり寄ってくる。
無様な恰好に気勢が削がれる。俺は殺気を収めた。
ただの人間の小娘だ。さりげなく浴衣の襟首を直して、傷を隠す。
傍にやってきた娘は、大きな瞳で俺を見つめた。
「兄さん、お元気そうでよかったです! 父さんから、会ってはいけないと言われているので、こっそり来ちゃいました」
兄さんということは、この娘が圭史郎の妹か。
そういえば、妹は生まれつきあやかしが見えるだとか、圭史郎が語っていたな。
まさか俺の正体は見破られていないだろうな……
訝しげに妹を見やると、ふと彼女の肩にとまっている小さなネズミが目に入った。
ひょいとネズミの襟首を摘まんで持ち上げる。
白地に橙色のぶちが入っている、太ったネズミだ。尻尾が二本ある。
「こいつは……鼠又の亜種か。珍しい種類だな」
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