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第二章 ムゾウ
失恋と夕焼け空
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それは、ムゾウが失恋するということだ。
凜子さんはまだ何も知らない。
綾小路輝彦の正体も、彼が今、どのような思いでいるのかも。
そしてそれは、今しか伝えられない。
私はたまらず、バスケットの蓋を開けようとした。
「凜子さん、本物の輝彦さんはここに……!」
けれど、それまで沈黙していたバスケットの中から、悲痛な叫びが迸る。
「若女将さま、お願いです、僕を、これ以上、惨めにさせないでください……!」
息を呑んだ私は蓋にかけた手を止めた。
凜子さんに、文通していたのは自分だと明かし、彼女への気持ちを打ち明けられるのは、今しかないのに。
泣き出しそうなムゾウの声にためらった私は、言葉を継ぐことができなかった。
凜子さんは不思議そうな顔をして、ほんの少し開いたバスケットに目線を注ぐ。すると、嘴を突き出してククルが現れた。
「クルッポ」
「あら、この鳩さん、手紙を持ってきてくれた子だわ。今までありがとう。ちょっと太っているからか疲れやすいみたいで、うちでお菓子をあげて休んでもらっている間に手紙を書いていたんですよ」
凜子さんにはムゾウの姿は見えず、声すら聞こえないのだった。
彼は今、バスケットの隅で、震えながら体を小さくしていた。
ククルは嘴で摘まんだよもぎクッキーの袋を、凜子さんに差し出した。
「まあ、ありがとう。プレゼントをくれるの?」
「あ、あの、お土産です。みんなで作ったんです。輝彦さんもすごくがんばってくれました」
どうにかしてムゾウの気持ちを伝えたくて、私はぎこちなく伝えた。
ハート型のよもぎクッキーを受け取ってくれた凜子さんは、満面の笑みを見せた。
そのとき、純白の花婿の衣装を纏った男性が「凜子」と声をかけてきた。凜子さんの旦那さんだ。彼は『綾小路輝彦』の強烈な印象とは異なり、優しそうな面立ちをした素朴な青年だった。
「ぜひみなさんで披露宴のパーティーに出席してくださいね。立食なので気兼ねなく楽しめると思いますから」
そう言って凜子さんは、花婿に連れられて披露宴の会場へ向かっていく。
バスケットから顔を覗かせたムゾウは、瞬きもせずに彼女の後ろ姿を見つめていた。
「凜子さん……綺麗だ。まるで、お姫様みたいだ。やっぱり凜子さんは、ぼくの想像どおりの、美しくて優しい女性だった……」
儚く消えていく花の香り。
ムゾウの切なげな呟きが、残り香とともに溶けていった。
冬の夕陽が曇天の雲間に滲んでいる。
帰宅する軽トラックの車内から、私はぼんやりとその光景を眺めていた。
結婚披露パーティーはつつがなく行われ、綾小路輝彦とその友人として招待された私たちは幸せな新郎新婦の門出を祝福した。豪華な料理に舌鼓を打ち、こっそりククルにも食べさせた。ただ、ムゾウは終始バスケットの隅に隠れて、何も食べようとしなかった。
車内には堪えきれずに溢れたムゾウの嗚咽が響いている。
凜子さんとデートできると意気込んでいたのに、ほかの男性と結婚するところを見せられたのでは、失恋の痛手はかなり大きいに違いない。慰めようにも、なかなか声をかけられない。
ふいに、運転していた圭史郎さんが語り始める。
「よもぎは道端に生えている地味な草だが、食用や漢方薬に使用できる。見た目で価値は計れないということだな」
それは醜さを気にしているムゾウになぞらえたのだろうか。
圭史郎さんなりの慰めなのだと察したけれど、ぴたりと嗚咽を止めたムゾウはぼそぼそと呟いた。
「そんなふうに慰められるのも哀しいです。ぼくには何の価値もありませんから」
「文章が上手くて字が綺麗だろ。その価値があったから凜子と思い出を作れた。彼女はおまえの手紙に何度も勇気づけられたと言っていた。おまえの言葉が彼女を幸福にしたんだ。別の男と結婚しても、綾小路輝彦のことを凜子は忘れないだろう」
ムゾウは考え込むように、じっと俯いていた。
ククルが案ずるように「クルルゥ……」と喉を鳴らしている。
凜子さんは、圭史郎さんを『綾小路輝彦』本人だと思ったままパーティーを終えてしまった。彼女が文通していたのはムゾウなのに、それを凜子さんは知らない。
「ムゾウ……凜子さんに真実を打ち明けなくてよかったんですか? 本当に文通していたのは、圭史郎さんでも綾小路輝彦でもなく、あやかしのムゾウだと告げて、彼女に事実を受け入れてもらいたかったんじゃありませんか?」
凜子さんの幸せな結婚の陰に、ムゾウの失恋がある。それがいたたまれない。せめて彼女に本当のことを知ってもらうべきだったのではないだろうか。
涙に濡れた一つ目で夕陽を見つめたムゾウは、穏やかな声を紡いだ。
「凜子さんは嘘偽りありませんでした。彼女は手紙のままの美しい人でした。だから彼女は『綾小路輝彦』の正体が、醜いあやかしのムゾウだなんて知らなくていい。彼女の幸福な世界に、ぼくのような偽りだらけの者は存在しなくていいんです。凜子さんとの文通は、ぼくにとって輝かしい思い出になりました。彼女が幸せになってくれるのなら、ぼくも幸せです」
ムゾウという醜い泥のあやかしが抱いた恋が、ほろ苦く終わった。
好きな人の幸せを喜べるムゾウの純真な想いは、崇高なものだと私の胸に沁みた。
ククルはムゾウを慰めるように、ぴたりと隣に寄り添っている。
「ムゾウには、ククルがいますものね。凜子さんも言ってましたけど、手紙を届けるのは大変だったみたいですよ」
「それはククルが太っているから飛んでいて息切れするんでしょう。……でも、ククルは一度も手紙を届けるのを嫌がらなかったな。当然のように思っていたけど、いつもぼくの頼みを聞いてくれて、ありがとう。感謝してるよ、ククル」
「クルッポ」
ふたりは仲睦まじくバスケットの上に寄り添いながら夕陽を浴びた。
ムゾウの失恋の傷が癒えたらいつか、傍にいるククルの想いに気づいてくれるかもしれない。
「凜子さんの正体はククルだと、圭史郎さんは予想してましたけど、はずれましたね。ククルは潔白でした」
ククルへの疑いは晴れた。にこやかな笑みを向けると、圭史郎さんは夕陽が眩しいのか片眼を眇める。
「まさか、こうなるとはな……。自分が偽っているから相手もそうだとは限らない、というわけか。予想がはずれて俺も傷心だ。今夜は失恋パーティーを開くか」
「よもぎクッキーを、みんなで食べましょうね。おいしい紅茶も淹れましょう」
失恋のほろ苦いティーパーティーに思いを馳せて、みんなの顔に笑みが浮かぶ。
車は花湯屋に向けて、夕焼け色に染まった山間を走っていった。
凜子さんはまだ何も知らない。
綾小路輝彦の正体も、彼が今、どのような思いでいるのかも。
そしてそれは、今しか伝えられない。
私はたまらず、バスケットの蓋を開けようとした。
「凜子さん、本物の輝彦さんはここに……!」
けれど、それまで沈黙していたバスケットの中から、悲痛な叫びが迸る。
「若女将さま、お願いです、僕を、これ以上、惨めにさせないでください……!」
息を呑んだ私は蓋にかけた手を止めた。
凜子さんに、文通していたのは自分だと明かし、彼女への気持ちを打ち明けられるのは、今しかないのに。
泣き出しそうなムゾウの声にためらった私は、言葉を継ぐことができなかった。
凜子さんは不思議そうな顔をして、ほんの少し開いたバスケットに目線を注ぐ。すると、嘴を突き出してククルが現れた。
「クルッポ」
「あら、この鳩さん、手紙を持ってきてくれた子だわ。今までありがとう。ちょっと太っているからか疲れやすいみたいで、うちでお菓子をあげて休んでもらっている間に手紙を書いていたんですよ」
凜子さんにはムゾウの姿は見えず、声すら聞こえないのだった。
彼は今、バスケットの隅で、震えながら体を小さくしていた。
ククルは嘴で摘まんだよもぎクッキーの袋を、凜子さんに差し出した。
「まあ、ありがとう。プレゼントをくれるの?」
「あ、あの、お土産です。みんなで作ったんです。輝彦さんもすごくがんばってくれました」
どうにかしてムゾウの気持ちを伝えたくて、私はぎこちなく伝えた。
ハート型のよもぎクッキーを受け取ってくれた凜子さんは、満面の笑みを見せた。
そのとき、純白の花婿の衣装を纏った男性が「凜子」と声をかけてきた。凜子さんの旦那さんだ。彼は『綾小路輝彦』の強烈な印象とは異なり、優しそうな面立ちをした素朴な青年だった。
「ぜひみなさんで披露宴のパーティーに出席してくださいね。立食なので気兼ねなく楽しめると思いますから」
そう言って凜子さんは、花婿に連れられて披露宴の会場へ向かっていく。
バスケットから顔を覗かせたムゾウは、瞬きもせずに彼女の後ろ姿を見つめていた。
「凜子さん……綺麗だ。まるで、お姫様みたいだ。やっぱり凜子さんは、ぼくの想像どおりの、美しくて優しい女性だった……」
儚く消えていく花の香り。
ムゾウの切なげな呟きが、残り香とともに溶けていった。
冬の夕陽が曇天の雲間に滲んでいる。
帰宅する軽トラックの車内から、私はぼんやりとその光景を眺めていた。
結婚披露パーティーはつつがなく行われ、綾小路輝彦とその友人として招待された私たちは幸せな新郎新婦の門出を祝福した。豪華な料理に舌鼓を打ち、こっそりククルにも食べさせた。ただ、ムゾウは終始バスケットの隅に隠れて、何も食べようとしなかった。
車内には堪えきれずに溢れたムゾウの嗚咽が響いている。
凜子さんとデートできると意気込んでいたのに、ほかの男性と結婚するところを見せられたのでは、失恋の痛手はかなり大きいに違いない。慰めようにも、なかなか声をかけられない。
ふいに、運転していた圭史郎さんが語り始める。
「よもぎは道端に生えている地味な草だが、食用や漢方薬に使用できる。見た目で価値は計れないということだな」
それは醜さを気にしているムゾウになぞらえたのだろうか。
圭史郎さんなりの慰めなのだと察したけれど、ぴたりと嗚咽を止めたムゾウはぼそぼそと呟いた。
「そんなふうに慰められるのも哀しいです。ぼくには何の価値もありませんから」
「文章が上手くて字が綺麗だろ。その価値があったから凜子と思い出を作れた。彼女はおまえの手紙に何度も勇気づけられたと言っていた。おまえの言葉が彼女を幸福にしたんだ。別の男と結婚しても、綾小路輝彦のことを凜子は忘れないだろう」
ムゾウは考え込むように、じっと俯いていた。
ククルが案ずるように「クルルゥ……」と喉を鳴らしている。
凜子さんは、圭史郎さんを『綾小路輝彦』本人だと思ったままパーティーを終えてしまった。彼女が文通していたのはムゾウなのに、それを凜子さんは知らない。
「ムゾウ……凜子さんに真実を打ち明けなくてよかったんですか? 本当に文通していたのは、圭史郎さんでも綾小路輝彦でもなく、あやかしのムゾウだと告げて、彼女に事実を受け入れてもらいたかったんじゃありませんか?」
凜子さんの幸せな結婚の陰に、ムゾウの失恋がある。それがいたたまれない。せめて彼女に本当のことを知ってもらうべきだったのではないだろうか。
涙に濡れた一つ目で夕陽を見つめたムゾウは、穏やかな声を紡いだ。
「凜子さんは嘘偽りありませんでした。彼女は手紙のままの美しい人でした。だから彼女は『綾小路輝彦』の正体が、醜いあやかしのムゾウだなんて知らなくていい。彼女の幸福な世界に、ぼくのような偽りだらけの者は存在しなくていいんです。凜子さんとの文通は、ぼくにとって輝かしい思い出になりました。彼女が幸せになってくれるのなら、ぼくも幸せです」
ムゾウという醜い泥のあやかしが抱いた恋が、ほろ苦く終わった。
好きな人の幸せを喜べるムゾウの純真な想いは、崇高なものだと私の胸に沁みた。
ククルはムゾウを慰めるように、ぴたりと隣に寄り添っている。
「ムゾウには、ククルがいますものね。凜子さんも言ってましたけど、手紙を届けるのは大変だったみたいですよ」
「それはククルが太っているから飛んでいて息切れするんでしょう。……でも、ククルは一度も手紙を届けるのを嫌がらなかったな。当然のように思っていたけど、いつもぼくの頼みを聞いてくれて、ありがとう。感謝してるよ、ククル」
「クルッポ」
ふたりは仲睦まじくバスケットの上に寄り添いながら夕陽を浴びた。
ムゾウの失恋の傷が癒えたらいつか、傍にいるククルの想いに気づいてくれるかもしれない。
「凜子さんの正体はククルだと、圭史郎さんは予想してましたけど、はずれましたね。ククルは潔白でした」
ククルへの疑いは晴れた。にこやかな笑みを向けると、圭史郎さんは夕陽が眩しいのか片眼を眇める。
「まさか、こうなるとはな……。自分が偽っているから相手もそうだとは限らない、というわけか。予想がはずれて俺も傷心だ。今夜は失恋パーティーを開くか」
「よもぎクッキーを、みんなで食べましょうね。おいしい紅茶も淹れましょう」
失恋のほろ苦いティーパーティーに思いを馳せて、みんなの顔に笑みが浮かぶ。
車は花湯屋に向けて、夕焼け色に染まった山間を走っていった。
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