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第二章 ムゾウ
凜子の正体
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とはいえ、圭史郎さんが無難に役をこなせるとは思えないので、できれば凜子さんにムゾウのことを話したいのだけれど。
車窓を眺めていた私は、抱えた籐のバスケットを見下ろした。
ここには昨日、みんなで作ったよもぎクッキーが入っている。
そしてバスケットに貼りつくようにして、ムゾウが揺れる車体に身を任せていた。
「はあ……いよいよですね。ぼくは眠れませんでした。凜子さんは来てくれるのかなぁ……。大切なことって、いったい何だろう。いいことでも悪いことでもどちらでもいいので、もうぼくを楽にしてほしいです」
先程から独りごちているムゾウは、泥の体から取り出した栞を眺めては溜息を吐いている。そんなムゾウを慰めるように、隣に寄り添っているククルが鳴いた。
「クルッポ」
「ああ、ククルは知ってるのか? 凜子さんの大切なことが何なのか。でも、文通をやめるだとか、そういうことではないんだよな。それならククルにも伝えられそうだ。もっと複雑で説明が難しいことなんだろう?」
「クルルゥ」
落ち着きのないムゾウは饒舌になり、あれこれと語り続けている。見かねた圭史郎さんが文句を言い出した。
「うるさいぞ、ムゾウ。待ち合わせの時間までもうすぐだ。そうすればすべてが明らかになるんだからな。憶測するだけ無駄だ」
「はあぁ~……神使さま、お願いしますよ。凜子さんにきちんと挨拶してくださいね。ぼくは、『うるさいぞ』なんて言葉遣いをしませんので、気をつけてくださいね」
「わかったから、おまえらはバスケットに入ってろ。ほら、着いたぞ」
軽トラはホテルの駐車場へ辿り着いた。ククルとムゾウはバスケットの中に潜り込む。
ホテルの玄関をくぐると、そこには煌びやかな世界が広がっていた。
きらきらと輝くシャンデリアに、果てしなく広がる緋の絨毯。礼服や着物を纏った人々が微笑を浮かべて行き交っている。本日は催し物があるらしく、賑わっているようだ。
「温泉旅館とはまた違った華やかさだな。こんなに混んでるとは思わなかった」
「パーティーがあるんでしょうか。女性もたくさんいるから、どの人が凜子さんなのかわからないですね」
「だから、凜子は……」
「そ、そうだ、圭史郎さん。二階へ行ってみましょう!」
バスケットの中にいるククルを指差した圭史郎さんを留め、蔓模様の施された螺旋階段へ引っ張っていく。二階では結婚式が行われるらしく、いっそう華麗な雰囲気に満ちていた。
純白のウェディングドレスを纏った花嫁が友人らしき招待客に囲まれて、楽しそうに話していた。彼女たちの向こうの室内には、真っ白なテーブルクロスと銀食器が用意され、お仕着せを纏ったホテルスタッフたちが立ち回っている。どうやらこれから結婚披露パーティーが行われるらしい。
バスケットの蓋を少々ずらして顔を出したムゾウは驚いたように目を見開いた。
「わああ……眩しい。こんな綺麗な世界があるんですね」
そのとき、私たちに気づいた花嫁がまっすぐこちらに歩み寄ってきた。
私たちは招待客ではなく、顔見知りでもないのに、どうしたのだろう。
麗しいブーケを手にした幸せそうな花嫁は、私と圭史郎さんの顔を交互に見ると、弾んだ声でこう言った。
「もしかして、綾小路輝彦さんですか? 私は凜子です」
ごくりと息を呑んだ私は目を瞠る。
凜子さんは、実在した。しかもまさか、これから結婚する花嫁が凜子さんだったなんて。
圭史郎さんに目を向けると、彼も驚いたように頬を強張らせていた。
「……本当に本人か? いや、そうなんだろうな。『綾小路輝彦』という名を知っているのは、俺たち以外には凜子しかいない」
圭史郎さんが男性なので、凜子さんは『綾小路輝彦』の正体は彼であると認識したらしい。彼女は訥々と話し始めた。
「突然呼び出したりしてごめんなさい。でも、どうしても今日しか輝彦さんに会って伝えられないと思ったんです。私、結婚するんです。ほら、以前手紙に、仕事関係でしつこく話しかけてくる男性がいるって書いたでしょう? あの人とお付き合いすることになったので、輝彦さんに手紙でそのことを報告しなければと思ったんですけど、お返事が三か月ない間に話が進んで結婚に至ったんです」
「つまり手紙にあった『大切なこと』とは、恋人ができたという意味だったんだな」
「そうなんです。お付き合いする人がいるのに文通を続けるのは、輝彦さんを裏切るようでどうしようと、すごく迷ったんですけど……お返事が来なかったので、もう嫌われてしまったのかなと思っていました」
私は呆然として事の真相を聞いていた。
ムゾウは三か月、凜子さんの伝えたいこととは何かと迷っていたわけだけれど、その間に凜子さんはお付き合いした男性と結婚へ向けて話が進んでいたのだ。
もしかしたら、ムゾウがすぐに『大切なこととは何か』と確かめていれば、凜子さんは綾小路輝彦への恋心を固めてくれたかもしれない。凜子さんと恋人になるのは、ムゾウだったかもしれない。けれど手紙の返事が滞ったので、ふたりのつながりは薄くなってしまった。
綾小路輝彦のふりをした圭史郎さんは、静かにひとこと言った。
「結婚おめでとう」
「……ありがとう、輝彦さん。あなたの手紙に私は何度も勇気づけられました。輝彦さんと文通できたことは、本当にいい思い出になりました」
凜子さんは柔らかな微笑を浮かべて、感謝を告げた。結婚を機に、文通は終わるということを、純白のウェディングドレスが示唆していた。
車窓を眺めていた私は、抱えた籐のバスケットを見下ろした。
ここには昨日、みんなで作ったよもぎクッキーが入っている。
そしてバスケットに貼りつくようにして、ムゾウが揺れる車体に身を任せていた。
「はあ……いよいよですね。ぼくは眠れませんでした。凜子さんは来てくれるのかなぁ……。大切なことって、いったい何だろう。いいことでも悪いことでもどちらでもいいので、もうぼくを楽にしてほしいです」
先程から独りごちているムゾウは、泥の体から取り出した栞を眺めては溜息を吐いている。そんなムゾウを慰めるように、隣に寄り添っているククルが鳴いた。
「クルッポ」
「ああ、ククルは知ってるのか? 凜子さんの大切なことが何なのか。でも、文通をやめるだとか、そういうことではないんだよな。それならククルにも伝えられそうだ。もっと複雑で説明が難しいことなんだろう?」
「クルルゥ」
落ち着きのないムゾウは饒舌になり、あれこれと語り続けている。見かねた圭史郎さんが文句を言い出した。
「うるさいぞ、ムゾウ。待ち合わせの時間までもうすぐだ。そうすればすべてが明らかになるんだからな。憶測するだけ無駄だ」
「はあぁ~……神使さま、お願いしますよ。凜子さんにきちんと挨拶してくださいね。ぼくは、『うるさいぞ』なんて言葉遣いをしませんので、気をつけてくださいね」
「わかったから、おまえらはバスケットに入ってろ。ほら、着いたぞ」
軽トラはホテルの駐車場へ辿り着いた。ククルとムゾウはバスケットの中に潜り込む。
ホテルの玄関をくぐると、そこには煌びやかな世界が広がっていた。
きらきらと輝くシャンデリアに、果てしなく広がる緋の絨毯。礼服や着物を纏った人々が微笑を浮かべて行き交っている。本日は催し物があるらしく、賑わっているようだ。
「温泉旅館とはまた違った華やかさだな。こんなに混んでるとは思わなかった」
「パーティーがあるんでしょうか。女性もたくさんいるから、どの人が凜子さんなのかわからないですね」
「だから、凜子は……」
「そ、そうだ、圭史郎さん。二階へ行ってみましょう!」
バスケットの中にいるククルを指差した圭史郎さんを留め、蔓模様の施された螺旋階段へ引っ張っていく。二階では結婚式が行われるらしく、いっそう華麗な雰囲気に満ちていた。
純白のウェディングドレスを纏った花嫁が友人らしき招待客に囲まれて、楽しそうに話していた。彼女たちの向こうの室内には、真っ白なテーブルクロスと銀食器が用意され、お仕着せを纏ったホテルスタッフたちが立ち回っている。どうやらこれから結婚披露パーティーが行われるらしい。
バスケットの蓋を少々ずらして顔を出したムゾウは驚いたように目を見開いた。
「わああ……眩しい。こんな綺麗な世界があるんですね」
そのとき、私たちに気づいた花嫁がまっすぐこちらに歩み寄ってきた。
私たちは招待客ではなく、顔見知りでもないのに、どうしたのだろう。
麗しいブーケを手にした幸せそうな花嫁は、私と圭史郎さんの顔を交互に見ると、弾んだ声でこう言った。
「もしかして、綾小路輝彦さんですか? 私は凜子です」
ごくりと息を呑んだ私は目を瞠る。
凜子さんは、実在した。しかもまさか、これから結婚する花嫁が凜子さんだったなんて。
圭史郎さんに目を向けると、彼も驚いたように頬を強張らせていた。
「……本当に本人か? いや、そうなんだろうな。『綾小路輝彦』という名を知っているのは、俺たち以外には凜子しかいない」
圭史郎さんが男性なので、凜子さんは『綾小路輝彦』の正体は彼であると認識したらしい。彼女は訥々と話し始めた。
「突然呼び出したりしてごめんなさい。でも、どうしても今日しか輝彦さんに会って伝えられないと思ったんです。私、結婚するんです。ほら、以前手紙に、仕事関係でしつこく話しかけてくる男性がいるって書いたでしょう? あの人とお付き合いすることになったので、輝彦さんに手紙でそのことを報告しなければと思ったんですけど、お返事が三か月ない間に話が進んで結婚に至ったんです」
「つまり手紙にあった『大切なこと』とは、恋人ができたという意味だったんだな」
「そうなんです。お付き合いする人がいるのに文通を続けるのは、輝彦さんを裏切るようでどうしようと、すごく迷ったんですけど……お返事が来なかったので、もう嫌われてしまったのかなと思っていました」
私は呆然として事の真相を聞いていた。
ムゾウは三か月、凜子さんの伝えたいこととは何かと迷っていたわけだけれど、その間に凜子さんはお付き合いした男性と結婚へ向けて話が進んでいたのだ。
もしかしたら、ムゾウがすぐに『大切なこととは何か』と確かめていれば、凜子さんは綾小路輝彦への恋心を固めてくれたかもしれない。凜子さんと恋人になるのは、ムゾウだったかもしれない。けれど手紙の返事が滞ったので、ふたりのつながりは薄くなってしまった。
綾小路輝彦のふりをした圭史郎さんは、静かにひとこと言った。
「結婚おめでとう」
「……ありがとう、輝彦さん。あなたの手紙に私は何度も勇気づけられました。輝彦さんと文通できたことは、本当にいい思い出になりました」
凜子さんは柔らかな微笑を浮かべて、感謝を告げた。結婚を機に、文通は終わるということを、純白のウェディングドレスが示唆していた。
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