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第二章 ムゾウ
前夜
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ふたりがなぜ両親と離れることになったのかという過去を聞いている私は、その言葉を重く受け止めた。
ムゾウと凜子さんが会える機会は、二度と訪れないかもしれないのだ。
ハート型にくり抜かれた生地がオーブン板いっぱいに並べられた。
それを余熱が済んだオーブンに、圭史郎さんはレンジ用の取っ手を使って入れた。
温められていくクッキーを眺めつつ、彼はムゾウに語りかける。
「俺が綾小路輝彦のふりをするのはいいんだけどな、ムゾウもホテルに同行しろ。真実を、おまえの目で確認するんだ」
「真実……? はい、わかりました」
ムゾウは迷いながらも了承した。
果たして凜子さんは何者なのか。『大切なこと』とは何なのか。明日にはすべての謎が明らかになる。
チン、とオーブンが軽快な音を鳴らした。
よもぎクッキーが甘い匂いをさせて、できあがったのだ。
蒼龍が期待を込めた瞳で私に問いかける。
「いっこだけ、味見してもいいか?」
「そうですね。みんなで味見してみましょう」
あつあつのよもぎクッキーをふたつに割り、それぞれ口にする。
バターと砂糖が絡み合う甘さの中に、よもぎのほろ苦さが加わり、絶妙な味わいを醸し出していた。サクサクとした食感がこたえられず、いくらでも食べられてしまいそうだ。
初めてクッキーを食べたムゾウは、感極まったように身を震わせる。
「これが、クッキー……。なんておいしいんだ。世の中にこんなにおいしいものがあったなんて知りませんでした」
「おいしく作れてよかったね、ムゾウ」
「凜子もきっと喜んでくれるぞ、ムゾウ」
子鬼ふたりに、ムゾウは体を弾ませて答えた。
「ええ、そうですよね。きっと凜子さんは、受け取ってくれますよね。みなさん、ありがとうございました」
萌葱色のクッキーを三つずつ袋に包み、リボンをかけてラッピングする。凜子さんひとりへのお土産なのに、大量のプレゼントができあがった。
その日の夜、私はムゾウが寝ている客間の襖をそっと開けた。
今夜は一緒に寝ようと子鬼たちが誘ったので、客間には子鬼たちとククル、それにコロさんが寝そべり、小さな布団の山を作っている。
みんなが安らかな顔をして寝ているなか、ムゾウだけは何やら手元にあるものをいじっていた。
「ムゾウ、眠れないんですか?」
小さく声をかけると、ムゾウはびくりと体を揺らした。
手にしていたものを後ろ手に持って、こちらにやってくる。
隠しているようだが、ムゾウの体が平たいので完全に見えている。
それは凜子さんからの手紙に同封してあったという、押し花の栞だ。ムゾウの宝物である。神社を出る直前に持ってきたのは、これだったのだ。
「ええ、まあ……緊張しているせいか、目が冴えまして……」
「それ、凜子さんからもらった栞ですよね。圭史郎さんが言ったことは気にしないでください。明日はきっと凜子さんに会って、楽しく過ごせますよ」
「そうでしょうか……。ぼくは凜子さんを信じたい気持ちと、綾小路輝彦と偽っている後ろめたさで、もうぐちゃぐちゃになってしまって、よくわからなくなってしまいました。……でも、ぼくの心に問いかけてみると『凜子さんに会いたい』という想いは強くあります。神使さまに代役を頼みましたが、場合によっては、ぼくの真実を話そうかなと思っています。まだ迷いはありますけど……」
「すごく勇気を出しましたね。凜子さんにも伝わりますよ」
「花湯屋のみなさんのおかげです。会わないと後悔するという子鬼さんの助言も胸に刺さりました。もし……もしですけど、凜子さんがぼくの偽りを許してくれるなら……いえ、もう寝ます。おやすみなさい」
言いかけた言葉を呑み込んだムゾウは、さっと襖の向こうに走り去った。ククルの隣に寝そべり、静かに泥の体を平らにする。
ムゾウは、凜子さんに本当の自分を受け入れてほしいのではないだろうか。彼女に謝罪したうえで、その先の関係を考えてほしいと、ムゾウは望んでいる。
「きっと、凜子さんは許してくれますよ」
あの美しい栞を作ってくれた人が、優しい心を持っていないはずがない。
小さく呟いた私は、そうっと襖を閉じた。
翌日は晴天に恵まれた。勿忘草色の冬空に、薄い白練りの雲が棚引いている。本日は日曜日なので、街を行き交う人通りが多い。
私と圭史郎さんは軽トラックに乗り込み、凜子さんと約束した市内のホテルへ向かっていた。
今日の服装は少々お洒落なワンピースを着ていた。圭史郎さんがいつもの法被の上にコートを着ようとしたので、慌てて止めたのは言うまでもない。私の強い要請により、彼は紺のジャケットを着用していた。
何しろ圭史郎さんは、『綾小路輝彦』として凜子さんと会うわけなのだから。
ムゾウと凜子さんが会える機会は、二度と訪れないかもしれないのだ。
ハート型にくり抜かれた生地がオーブン板いっぱいに並べられた。
それを余熱が済んだオーブンに、圭史郎さんはレンジ用の取っ手を使って入れた。
温められていくクッキーを眺めつつ、彼はムゾウに語りかける。
「俺が綾小路輝彦のふりをするのはいいんだけどな、ムゾウもホテルに同行しろ。真実を、おまえの目で確認するんだ」
「真実……? はい、わかりました」
ムゾウは迷いながらも了承した。
果たして凜子さんは何者なのか。『大切なこと』とは何なのか。明日にはすべての謎が明らかになる。
チン、とオーブンが軽快な音を鳴らした。
よもぎクッキーが甘い匂いをさせて、できあがったのだ。
蒼龍が期待を込めた瞳で私に問いかける。
「いっこだけ、味見してもいいか?」
「そうですね。みんなで味見してみましょう」
あつあつのよもぎクッキーをふたつに割り、それぞれ口にする。
バターと砂糖が絡み合う甘さの中に、よもぎのほろ苦さが加わり、絶妙な味わいを醸し出していた。サクサクとした食感がこたえられず、いくらでも食べられてしまいそうだ。
初めてクッキーを食べたムゾウは、感極まったように身を震わせる。
「これが、クッキー……。なんておいしいんだ。世の中にこんなにおいしいものがあったなんて知りませんでした」
「おいしく作れてよかったね、ムゾウ」
「凜子もきっと喜んでくれるぞ、ムゾウ」
子鬼ふたりに、ムゾウは体を弾ませて答えた。
「ええ、そうですよね。きっと凜子さんは、受け取ってくれますよね。みなさん、ありがとうございました」
萌葱色のクッキーを三つずつ袋に包み、リボンをかけてラッピングする。凜子さんひとりへのお土産なのに、大量のプレゼントができあがった。
その日の夜、私はムゾウが寝ている客間の襖をそっと開けた。
今夜は一緒に寝ようと子鬼たちが誘ったので、客間には子鬼たちとククル、それにコロさんが寝そべり、小さな布団の山を作っている。
みんなが安らかな顔をして寝ているなか、ムゾウだけは何やら手元にあるものをいじっていた。
「ムゾウ、眠れないんですか?」
小さく声をかけると、ムゾウはびくりと体を揺らした。
手にしていたものを後ろ手に持って、こちらにやってくる。
隠しているようだが、ムゾウの体が平たいので完全に見えている。
それは凜子さんからの手紙に同封してあったという、押し花の栞だ。ムゾウの宝物である。神社を出る直前に持ってきたのは、これだったのだ。
「ええ、まあ……緊張しているせいか、目が冴えまして……」
「それ、凜子さんからもらった栞ですよね。圭史郎さんが言ったことは気にしないでください。明日はきっと凜子さんに会って、楽しく過ごせますよ」
「そうでしょうか……。ぼくは凜子さんを信じたい気持ちと、綾小路輝彦と偽っている後ろめたさで、もうぐちゃぐちゃになってしまって、よくわからなくなってしまいました。……でも、ぼくの心に問いかけてみると『凜子さんに会いたい』という想いは強くあります。神使さまに代役を頼みましたが、場合によっては、ぼくの真実を話そうかなと思っています。まだ迷いはありますけど……」
「すごく勇気を出しましたね。凜子さんにも伝わりますよ」
「花湯屋のみなさんのおかげです。会わないと後悔するという子鬼さんの助言も胸に刺さりました。もし……もしですけど、凜子さんがぼくの偽りを許してくれるなら……いえ、もう寝ます。おやすみなさい」
言いかけた言葉を呑み込んだムゾウは、さっと襖の向こうに走り去った。ククルの隣に寝そべり、静かに泥の体を平らにする。
ムゾウは、凜子さんに本当の自分を受け入れてほしいのではないだろうか。彼女に謝罪したうえで、その先の関係を考えてほしいと、ムゾウは望んでいる。
「きっと、凜子さんは許してくれますよ」
あの美しい栞を作ってくれた人が、優しい心を持っていないはずがない。
小さく呟いた私は、そうっと襖を閉じた。
翌日は晴天に恵まれた。勿忘草色の冬空に、薄い白練りの雲が棚引いている。本日は日曜日なので、街を行き交う人通りが多い。
私と圭史郎さんは軽トラックに乗り込み、凜子さんと約束した市内のホテルへ向かっていた。
今日の服装は少々お洒落なワンピースを着ていた。圭史郎さんがいつもの法被の上にコートを着ようとしたので、慌てて止めたのは言うまでもない。私の強い要請により、彼は紺のジャケットを着用していた。
何しろ圭史郎さんは、『綾小路輝彦』として凜子さんと会うわけなのだから。
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