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第一章 カマクラコモリ
新たな生贄 3
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そのイチの瞼が、すうと開いた。
ぱちぱちと瞬き、目の前の母親を驚いた顔をして見る。
「あれ……母さん? おいら、どうしてここに……」
「イチ、目が覚めたのね。無事でよかった」
「おいら、夢を見たよ……。車とぶつかって、気がついたら母さんがいなくて……ずっと探してた。そうしたらね、おいらは人間になってたんだ。人間の父さんと母さんがいたよ」
「全部、夢なのよ。ひとりにしてごめんね。これからはずっと、母さんが傍にいるからね……ずっと……」
キツネの母親は愛しげに呟きながら、イチの頭を優しく撫でる。
寝物語のように紡がれるその台詞を聞いていた私の体が、圭史郎さんの手によりかまくらの外に引き出された。
すると、入り口は音もなく雪の壁で埋められていく。
うち捨てられていたキツネの人形が、ほろりとかまくらの中に入った。
私の目に最後に焼きついた光景は、幸せそうなキツネの母子の姿だった。
やがてただの雪の山と化したかまくらは、夜闇の中に溶け込んでいく。
あとには荒涼とした雪原だけが残された。
まるで初めからそこには何もなかったかのように、ヒュウヒュウと風の唸り声が通り過ぎていく。
私が抱っこしている光希君の安らかな寝息だけが、現実を感じさせた。
ぽつりと、ヨミじいさんが呟く。
「行ってしまったのう」
その声に振り向くと、みんなは神妙な面持ちで、カマクラコモリのいた雪原を見つめていた。圭史郎さんの背中から出ていたと思しき黒い手は、もうどこにもない。
コロさんは不思議そうな顔をして、かまくらのあった場所に足跡をつけて辿った。
「キツネさんは、どこに行っちゃったの? あのかまくらが、おうちなの?」
キツネの母親には、取り戻したイチとともに逃げ出すという選択肢もあったはずなのに、自らの意志でカマクラコモリに囚われた。
光希君を、親元に返してあげるために。
その親心に胸を打たれた私は、きつく唇を噛みしめる。
天を見上げると、夜空には大粒の星々が燦爛と瞬いていた。
翌朝、高橋さんが花湯屋を訪れた。光希君はあれからぐっすり眠ってくれたので、体調は良好だ。耳と尻尾がなくなったことに対して違和感を覚えていない光希君だけれど、その代わり彼は、とあることを気にしていた。
「光希! よかった、もとに戻ったんだな!」
談話室で光希君と再会した高橋さんは、我が子をきつく抱きしめる。
けれど光希君は感動を露わにする父親に反して、不思議そうにきょろきょろと辺りを見回していた。
「ぱーぱ……こおにゃん、いないの」
光希君は子鬼たちを探しているのだ。朝食のときもあやかしたちと一緒にいたのだけれど、光希君は茜と蒼龍、そしてヨミじいさんやコロさんの存在に気がつくことはなかった。
キツネのイチが体から抜け出たので、彼はあやかしが見えなくなってしまったのである。
茜と蒼龍はソファの肘掛けに座りながら、父親に抱かれる光希君を眺めていた。
「さよならだね、みつき」
「オレたちと遊んだこと、大人になったら忘れていいからな」
子鬼たちの声が聞こえていない高橋さんは、対面した圭史郎さんと私に礼を述べた。
「ありがとう、圭史郎、若女将さん。いったい、どうやって耳と尻尾を消したんだ?」
「どうやったかは、あやかし世界の秘密というやつだな。光希は、あやかしのキツネの子どもと合体していたから耳と尻尾が生えていたんだ。おそらく遊んでいて、偶然ぶつかったといったところだろう。分離したキツネの子は親元に帰った。光希は完全に、もとどおりの人間だ。もう意識をのっとられて夜に出歩くこともない」
「そうだったのか……助かったよ。嫁さんも回復して、光希が帰ってくるのを待ってる。これは少ないけど、謝礼だ。受け取ってくれ」
懐から封筒を取り出そうとした高橋さんを、圭史郎さんは掌をかざして止めた。
「礼はいい。そういう商売じゃないんだ。また何か困ったことがあったら相談に来てくれ」
「だけど、光希は二晩も泊めてもらったんだ。宿泊費も無料というわけにはいかないだろ」
私のほうをちらりと見た高橋さんは申し訳なさそうだ。
とびっきりの笑顔を浮かべた私は、若女将としての気持ちを伝える。
「今度はぜひ、ご家族で花湯屋にいらしてくださいね!」
圭史郎さんは呆れたように嘆息して、ソファに凭れる。
「やれやれ、うちの若女将は商売上手だ」
あはは、とみんなの笑い声が談話室に響き渡った。
光希君を乗せた高橋さんの車が銀山温泉街から去って行くのを、私たちは見届けた。
光希君は最後までコロさんや子鬼たちがいないことを気にしていたけれど、きっといつもの日常を取り戻せば、あやかしたちとの思い出は遠い過去となっていくのだろう。
ホールの柱時計にとまっていたヨミじいさんは羽ばたいて玄関に出ると、雪化粧を施した山のほうを眺める。
「さて、わしも帰るとするかのう」
「ありがとうございました。ヨミじいさんのおかげで解決できましたね」
ぱちぱちと瞬き、目の前の母親を驚いた顔をして見る。
「あれ……母さん? おいら、どうしてここに……」
「イチ、目が覚めたのね。無事でよかった」
「おいら、夢を見たよ……。車とぶつかって、気がついたら母さんがいなくて……ずっと探してた。そうしたらね、おいらは人間になってたんだ。人間の父さんと母さんがいたよ」
「全部、夢なのよ。ひとりにしてごめんね。これからはずっと、母さんが傍にいるからね……ずっと……」
キツネの母親は愛しげに呟きながら、イチの頭を優しく撫でる。
寝物語のように紡がれるその台詞を聞いていた私の体が、圭史郎さんの手によりかまくらの外に引き出された。
すると、入り口は音もなく雪の壁で埋められていく。
うち捨てられていたキツネの人形が、ほろりとかまくらの中に入った。
私の目に最後に焼きついた光景は、幸せそうなキツネの母子の姿だった。
やがてただの雪の山と化したかまくらは、夜闇の中に溶け込んでいく。
あとには荒涼とした雪原だけが残された。
まるで初めからそこには何もなかったかのように、ヒュウヒュウと風の唸り声が通り過ぎていく。
私が抱っこしている光希君の安らかな寝息だけが、現実を感じさせた。
ぽつりと、ヨミじいさんが呟く。
「行ってしまったのう」
その声に振り向くと、みんなは神妙な面持ちで、カマクラコモリのいた雪原を見つめていた。圭史郎さんの背中から出ていたと思しき黒い手は、もうどこにもない。
コロさんは不思議そうな顔をして、かまくらのあった場所に足跡をつけて辿った。
「キツネさんは、どこに行っちゃったの? あのかまくらが、おうちなの?」
キツネの母親には、取り戻したイチとともに逃げ出すという選択肢もあったはずなのに、自らの意志でカマクラコモリに囚われた。
光希君を、親元に返してあげるために。
その親心に胸を打たれた私は、きつく唇を噛みしめる。
天を見上げると、夜空には大粒の星々が燦爛と瞬いていた。
翌朝、高橋さんが花湯屋を訪れた。光希君はあれからぐっすり眠ってくれたので、体調は良好だ。耳と尻尾がなくなったことに対して違和感を覚えていない光希君だけれど、その代わり彼は、とあることを気にしていた。
「光希! よかった、もとに戻ったんだな!」
談話室で光希君と再会した高橋さんは、我が子をきつく抱きしめる。
けれど光希君は感動を露わにする父親に反して、不思議そうにきょろきょろと辺りを見回していた。
「ぱーぱ……こおにゃん、いないの」
光希君は子鬼たちを探しているのだ。朝食のときもあやかしたちと一緒にいたのだけれど、光希君は茜と蒼龍、そしてヨミじいさんやコロさんの存在に気がつくことはなかった。
キツネのイチが体から抜け出たので、彼はあやかしが見えなくなってしまったのである。
茜と蒼龍はソファの肘掛けに座りながら、父親に抱かれる光希君を眺めていた。
「さよならだね、みつき」
「オレたちと遊んだこと、大人になったら忘れていいからな」
子鬼たちの声が聞こえていない高橋さんは、対面した圭史郎さんと私に礼を述べた。
「ありがとう、圭史郎、若女将さん。いったい、どうやって耳と尻尾を消したんだ?」
「どうやったかは、あやかし世界の秘密というやつだな。光希は、あやかしのキツネの子どもと合体していたから耳と尻尾が生えていたんだ。おそらく遊んでいて、偶然ぶつかったといったところだろう。分離したキツネの子は親元に帰った。光希は完全に、もとどおりの人間だ。もう意識をのっとられて夜に出歩くこともない」
「そうだったのか……助かったよ。嫁さんも回復して、光希が帰ってくるのを待ってる。これは少ないけど、謝礼だ。受け取ってくれ」
懐から封筒を取り出そうとした高橋さんを、圭史郎さんは掌をかざして止めた。
「礼はいい。そういう商売じゃないんだ。また何か困ったことがあったら相談に来てくれ」
「だけど、光希は二晩も泊めてもらったんだ。宿泊費も無料というわけにはいかないだろ」
私のほうをちらりと見た高橋さんは申し訳なさそうだ。
とびっきりの笑顔を浮かべた私は、若女将としての気持ちを伝える。
「今度はぜひ、ご家族で花湯屋にいらしてくださいね!」
圭史郎さんは呆れたように嘆息して、ソファに凭れる。
「やれやれ、うちの若女将は商売上手だ」
あはは、とみんなの笑い声が談話室に響き渡った。
光希君を乗せた高橋さんの車が銀山温泉街から去って行くのを、私たちは見届けた。
光希君は最後までコロさんや子鬼たちがいないことを気にしていたけれど、きっといつもの日常を取り戻せば、あやかしたちとの思い出は遠い過去となっていくのだろう。
ホールの柱時計にとまっていたヨミじいさんは羽ばたいて玄関に出ると、雪化粧を施した山のほうを眺める。
「さて、わしも帰るとするかのう」
「ありがとうございました。ヨミじいさんのおかげで解決できましたね」
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