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第一章 カマクラコモリ
不思議なかまくら 3
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「ですが、わたしには息子がいるのです。車に撥ねられたとき、傍にいたはずですが、気づいたらどこにもいませんでした。わたしはいなくなった息子を必死で捜しました。そうしてこのかまくらに辿り着き、呼びかけましたら、息子のイチはわたしの声に応えてくれたのです」
キツネの母親は目を細めて、愛しげに光希君を見やる。
私は表情を硬くして、おそるおそる問いかけた。
「もしかして、お母さんの息子のイチは……この子なんですか?」
「ええ、そうです。人間の子どものように見えますけれど、匂いでわかりますから、この子はイチに間違いありません。きっと悪い人間に捕まって、このような姿にされてしまったのでしょう。イチは夜の間だけここへ来て、朝になるとどこかへ行ってしまいます。このまま二度と帰ってこなかったら……そして、完全に人間に変わってしまったらと思うと……胸が潰れそうです。わたしは毎朝、イチに会えるのはこれが最後かもしれないと震えながら見送っております」
切々と訴えるキツネの母親は涙を拭った。
私は思わず圭史郎さんと目を合わせる。彼は何も言わず、押し黙っていた。
キツネの母親の心情は、高橋さんと全く同じだ。
双方とも我が子を想うゆえに行方を案じ、心を痛めている。そして見知らぬ悪者に子どもを拐かされるのではないかと恐れている。
ひとつの体にふたりの子どもがいるので、昼は人間、夜はキツネのあやかしとなり、光希君とイチはそれぞれの親元に通わなければならないのだ。
ヨミじいさんは、ふと首を捻った。
「ここで見送っておるのか。おぬしの足ならば、子を追いかけることは容易ではないかな?」
「それは……追いかけたくても、できないのです。なぜなら……」
昏い目をしたキツネの母親は私たちを窺い、すうっと腰を上げた。
その瞬間、圭史郎さんに強く肩を押される。
合図だ。
わけがわからないが、私は圭史郎さんの指示通りに素早く光希君を抱える。それを見て息を呑んだキツネの母親が手を伸ばした。
「あっ……待って、イチ!」
だが七輪越しなので手は届かない。
圭史郎さんにぐいぐい背を押されるので、光希君を抱きかかえた私は転がるようにかまくらの外へ出た。背後にいる圭史郎さんも出口を塞ぐように両腕を拡げつつ、穴をくぐる。
私たちの挙動を見て、はっとしたヨミじいさんは羽をばたつかせて飛び上がった。
七輪の上を飛び越え、キツネの母親が回り込むより早く、圭史郎さんの頭の脇から体を捩り込ませて屋外へ出る。
なぜ、こんなに慌てて出る必要があるのか。
かまくらの中は暖かくて居心地がよかったのに、外は氷点下の極寒である。
光希君のお尻をしっかりと抱え直した私は、寒さに身を震わせた。
ひとり、かまくらに取り残されたキツネの母親は洞穴のような入り口に佇んでいた。
彼女は切ない目で光希君を見つめ、声を張り上げる。
「お願いです、イチを連れて行かないでください!」
なぜかキツネの母親は、かまくらから出ようとしない。
彼女にとっては息子のイチが連れ去られようとしているのに、どうしてこちらに駆け寄ってこないのだろう。
圭史郎さんは私の前に腕を出して、近づかないよう制した。彼はキツネの母親からは手が届かない距離で、神妙に諭す。
「イチはもとの姿に戻れるよう、俺たちが何とかしよう。だが今は人間の子どもと融合しているから、連れて帰らなくてはならない。昼間は人間と暮らしているが、イチの身に危害は及ばない。安心してくれ」
「……そうですか。イチの身が無事ならいいのですが……。どうか、お願いします。わたしども親子は平穏に暮らしたいだけなのです。わたしに、イチを、返して……」
言い終わらないうちに、かまくらの入り口が蠢いた。まるで生き物のようにうねり、入り口は雪で塞がれていく。まるで、キツネの母親を呑み込むかのように。
「えっ⁉」
瞬いた私は、たまたま入り口に雪が落ちたのかと思ったが、そうではなかった。
白い塊と化したかまくらは、すう……と遠ざかり、小さくなっていく。そして明かりも、ふっと掻き消えた。
暖かな炭火も、美味しそうな食べ物も、優しい母親も、まるですべてが夢だったように跡形もない。
つい今まで私たちが入っていたはずのかまくらは、消滅してしまった。あとには漆黒の暗闇と不気味な静寂だけが残された。
「……かまくらは、どうしてなくなってしまったんですか? もしかして私たち、キツネに化かされただとか、そういうことですか?」
混乱した私は圭史郎さんとヨミじいさんに問いかけた。彼らは黙然として、かまくらが消えていった暗闇を見つめている。
「とにかく、花湯屋に戻るぞ。今日は終いだ」
「そうじゃな。ここに長い時間いたら、凍えてしまうわい」
立っているだけで、ぞくりとした冷気に全身が覆われる。光希君の体も、早く布団に入れてあげないといけない。
私たちは来た道を引き返し、軽トラックを停車した地点へ向かった。
いつの間にか大粒の雪が降り出し、ジャケットが瞬く間に白く染まる。雪が目に当たり、冷たくて痛い。真っ暗闇なので、前を行く圭史郎さんの背中がかろうじてわかる程度だ。来たときはほんの少しの距離だと思ったのに、降雪があると恐ろしく遠く感じる。
キツネの母親は目を細めて、愛しげに光希君を見やる。
私は表情を硬くして、おそるおそる問いかけた。
「もしかして、お母さんの息子のイチは……この子なんですか?」
「ええ、そうです。人間の子どものように見えますけれど、匂いでわかりますから、この子はイチに間違いありません。きっと悪い人間に捕まって、このような姿にされてしまったのでしょう。イチは夜の間だけここへ来て、朝になるとどこかへ行ってしまいます。このまま二度と帰ってこなかったら……そして、完全に人間に変わってしまったらと思うと……胸が潰れそうです。わたしは毎朝、イチに会えるのはこれが最後かもしれないと震えながら見送っております」
切々と訴えるキツネの母親は涙を拭った。
私は思わず圭史郎さんと目を合わせる。彼は何も言わず、押し黙っていた。
キツネの母親の心情は、高橋さんと全く同じだ。
双方とも我が子を想うゆえに行方を案じ、心を痛めている。そして見知らぬ悪者に子どもを拐かされるのではないかと恐れている。
ひとつの体にふたりの子どもがいるので、昼は人間、夜はキツネのあやかしとなり、光希君とイチはそれぞれの親元に通わなければならないのだ。
ヨミじいさんは、ふと首を捻った。
「ここで見送っておるのか。おぬしの足ならば、子を追いかけることは容易ではないかな?」
「それは……追いかけたくても、できないのです。なぜなら……」
昏い目をしたキツネの母親は私たちを窺い、すうっと腰を上げた。
その瞬間、圭史郎さんに強く肩を押される。
合図だ。
わけがわからないが、私は圭史郎さんの指示通りに素早く光希君を抱える。それを見て息を呑んだキツネの母親が手を伸ばした。
「あっ……待って、イチ!」
だが七輪越しなので手は届かない。
圭史郎さんにぐいぐい背を押されるので、光希君を抱きかかえた私は転がるようにかまくらの外へ出た。背後にいる圭史郎さんも出口を塞ぐように両腕を拡げつつ、穴をくぐる。
私たちの挙動を見て、はっとしたヨミじいさんは羽をばたつかせて飛び上がった。
七輪の上を飛び越え、キツネの母親が回り込むより早く、圭史郎さんの頭の脇から体を捩り込ませて屋外へ出る。
なぜ、こんなに慌てて出る必要があるのか。
かまくらの中は暖かくて居心地がよかったのに、外は氷点下の極寒である。
光希君のお尻をしっかりと抱え直した私は、寒さに身を震わせた。
ひとり、かまくらに取り残されたキツネの母親は洞穴のような入り口に佇んでいた。
彼女は切ない目で光希君を見つめ、声を張り上げる。
「お願いです、イチを連れて行かないでください!」
なぜかキツネの母親は、かまくらから出ようとしない。
彼女にとっては息子のイチが連れ去られようとしているのに、どうしてこちらに駆け寄ってこないのだろう。
圭史郎さんは私の前に腕を出して、近づかないよう制した。彼はキツネの母親からは手が届かない距離で、神妙に諭す。
「イチはもとの姿に戻れるよう、俺たちが何とかしよう。だが今は人間の子どもと融合しているから、連れて帰らなくてはならない。昼間は人間と暮らしているが、イチの身に危害は及ばない。安心してくれ」
「……そうですか。イチの身が無事ならいいのですが……。どうか、お願いします。わたしども親子は平穏に暮らしたいだけなのです。わたしに、イチを、返して……」
言い終わらないうちに、かまくらの入り口が蠢いた。まるで生き物のようにうねり、入り口は雪で塞がれていく。まるで、キツネの母親を呑み込むかのように。
「えっ⁉」
瞬いた私は、たまたま入り口に雪が落ちたのかと思ったが、そうではなかった。
白い塊と化したかまくらは、すう……と遠ざかり、小さくなっていく。そして明かりも、ふっと掻き消えた。
暖かな炭火も、美味しそうな食べ物も、優しい母親も、まるですべてが夢だったように跡形もない。
つい今まで私たちが入っていたはずのかまくらは、消滅してしまった。あとには漆黒の暗闇と不気味な静寂だけが残された。
「……かまくらは、どうしてなくなってしまったんですか? もしかして私たち、キツネに化かされただとか、そういうことですか?」
混乱した私は圭史郎さんとヨミじいさんに問いかけた。彼らは黙然として、かまくらが消えていった暗闇を見つめている。
「とにかく、花湯屋に戻るぞ。今日は終いだ」
「そうじゃな。ここに長い時間いたら、凍えてしまうわい」
立っているだけで、ぞくりとした冷気に全身が覆われる。光希君の体も、早く布団に入れてあげないといけない。
私たちは来た道を引き返し、軽トラックを停車した地点へ向かった。
いつの間にか大粒の雪が降り出し、ジャケットが瞬く間に白く染まる。雪が目に当たり、冷たくて痛い。真っ暗闇なので、前を行く圭史郎さんの背中がかろうじてわかる程度だ。来たときはほんの少しの距離だと思ったのに、降雪があると恐ろしく遠く感じる。
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