みちのく銀山温泉

沖田弥子

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あやかしお宿の夏夜の思い出

あやかしお宿の夏夜の思い出-3

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 秀平の顔や体は、作業中に飛び散ったソースでまだら模様になっている。
 私は微笑みながら、キッチンペーパーで秀平の体に跳ねたソースを拭った。

「あうう、やめろ」
「たくさん、がんばりましたね。おばあちゃんへのおみやげは、どのどんどん焼きにしますか?」
「ええと……そうだなあ」

 小さな手で顔をでた秀平は、大皿に盛られたどんどん焼きを吟味した。大きさに差はなく、どれも同じ位置にソーセージと海苔のりが飾られている。

「これかな。これがいちばんの力作だ。それから、これも。海苔のりの形がいちばんきれいだ」

 秀平は二本のどんどん焼きを選んだ。私は透明パックにそれらを入れる。割り箸が持ち手になるので、とても楽だ。ソースが滴るほど塗られているので、こぼれないよう気をつけないと。

「おばあちゃん、喜んでくれるといいですね」

 ソースが零れこぼないよう、透明パックをビニール袋で包む。
 はっとした秀平は、戸惑いと喜びの入り交じる顔で小さな手を握りしめた。

「うん……きっと、ばあちゃんは喜んでくれる……」

 鉄板の後片付けを終えた圭史郎さんは、どんどん焼きの山を眺めて肩をすくめた。

「帰る前に、みんなでこれを食べるか。子鬼たちも腹を空かせてるだろ」
「そうだな。あいつらも小さいのに、秘密の銀鉱でがんばって銀を採ってたからな」

 秀平が晴々はればれとした表情をして胸を反らすので、思わず笑いがこぼれた。


 あやかし食堂に歓声が響いた。
 どんどん焼きの大皿を食堂のテーブルにのせると、食欲をそそるソースの香りが辺りに満ちる。ほかほかのどんどん焼きはとてもおいしそうだ。
 待ちかねていた子鬼たちは諸手を挙げて喜んでくれた。

「できた、できたね。どんどん焼きだね」
「どんどん焼きだね。おいしそうだね」

 秀平は温かそうな湯気を上げるどんどん焼きの前で、手を腰に当て胸を反らした。

「どうだ。おいしそうだろう。おれが、お手伝いたちと作ったんだぞ。子鬼たちは今日、がんばったからな。とくべつに食べさせてやる」

 まるで秀平がメインで作ったかのような態度なので、子鬼たちも私も圭史郎さんもそれぞれ目線を交わす。
 圭史郎さんがどんどん焼きの生地を焼いてくれたのであって、秀平はお手伝いじゃないかな……。銀粒の採取も子鬼たちに案内してもらったのに、自分が先導したかのような言いぶりだ。
 圭史郎さんは呆れた眼差しを秀平に投げた。口端を引きらせる私の傍で、茜と蒼龍は円陣を組む。

「秀平がお手伝いだよね。どんどん焼き作ったのは圭史郎」
「だよね。秀平が焼いたら、ヘラの重さで体が潰れちゃうね。今ごろ鉄板でぺちゃんこになってる」

 容赦のないひそひそ話を耳にして、私は微苦笑をもらし取り皿を配る。
 コロさんだけは、とびきりの笑顔だった。

「ありがとう、秀平さん。どんどん焼きのおやつ、僕もごちそうになるね」
「おう。犬にもとくべつに食べさせてやるからな。ありがたく食え」
「わぁい、いただきます!」

 無垢むくなコロさんから感謝された秀平は、いっそう胸を反らして顎を上げる。
 反り返りすぎて、ころんと後ろにひっくり返ってしまった。
 私は小さな秀平の灰色の体を、ひょいとてのひらで起こす。

「さあ、どんどん焼きをいただきましょう」

 割り箸を掴んだみんなは、それぞれの取り皿にどんどん焼きをのせる。茜と蒼龍は、ふたりでひとつのどんどん焼きを皿に運んでいる。
 ところが秀平は割り箸に飛びつくと、じたばたともがいていた。どうやら彼の体より、どんどん焼きのほうが重量があるので持てないようだ。

「はい、秀平のどんどん焼きはこれでいいですか?」

 私がどんどん焼きを皿にのせてあげると、秀平は笑顔を弾けさせる。

「おう。これでいいぞ」

 用意が整い、みんなで「いただきます」と唱和する。
 割り箸を手にした私は、初めてどんどん焼きを口にした。
 濃厚なソースの旨味が口の中いっぱいに広がる。もっふりとした生地は温かくて柔らかい。海苔のりと魚肉ソーセージがアクセントとなって、生地と混じり合い、飽きないみ応えだ。そして鼻腔を抜けていく、ふくよかなソースの香り。

「どんどん焼きって、すごくおいしいですね……!」

 私は感動して、どんどん焼きにかじりつく。

「そうだろ? おれのばあちゃんが作ってくれたどんどん焼きほどじゃないけどな。これも、まあまあだぞ」

 顔を上げた秀平の口許くちもとはソースまみれだ。同じく口許くちもとがソースだらけの茜と蒼龍が笑う。

「まあまあっていうわりには、秀平はすごい速さで食べてるね」
「口のまわりがソースだらけだぞ」
「おまえたちだって」

 小さな三人は、あははと笑った。
 どんどん焼きは小さなあやかしにとっては、とても大きいので、じかにかぶりついたら顔が汚れてしまう。三人よりは体の大きなコロさんは、ぺろりと平らげると、舌を出して口許くちもとについたソースを拭っていた。きっと私の口許くちもとにもソースがついてるんだろうな。
 私は楽しげなあやかしたちを見守りながら、どんどん焼きを頬張った。
 そうしていると、ふいに疑問が浮かぶ。

「そういえば……どんどん焼きの、『どんどん』は、どういう意味なんですか?」

 この食べ物のどこが、どんどんを表しているのか不思議だ。
 食材には『どんどん』という言葉が含まれるものはない。
 器用に割り箸を回しながら食べている圭史郎さんが答える。

「諸説あるんだが、どんどん売れるからだとか、生地を巻きつけるときに、ヘラでどんどん押すからだとか言われている。だが、この食べ物がどんどん焼きと名付けられ、かつ東北地方に根付いたのには理由がある」
「それはなんでしょう?」
「言いやすいからさ。濁点を多用する東北なまりでは、『どんどん』と口にすることが心地好くて、かつ馴染なじみ深いんだ」
「なるほど。どんどんって、なんだか勢いがあるので何度も言いたくなりますよね」
「まあ、これは俺の説だけどな」

 言いやすいからというのは、圭史郎さん独自の解釈らしい。
 けれど私はその説を、もっともだと感じた。

「私は圭史郎さんの説を推します。どんどん焼きと命名されたのは、『どんどん』と言いたいからですね」
「優香。もっと、どんどん食べろ。どんどん焼きはたくさんあるぞ」
「圭史郎さんこそ。どんどん食べてくださいよ。どんどん焼き、おいしいですよ」

 私たちは笑い合いながら、割り箸をくるくると回して、どんどん焼きを頬張る。
 おいしくて食べやすいどんどん焼きだけれど、私は唯一の難点に気がついた。
 それは、最後の欠片かけらを食べるときに、生地が箸から落ちそうになるということだ。屋外で食べるときは気をつけないといけない。
 私は口を大きく開けて、最後の一欠片かけらをキャッチした。


 銀山温泉街を離れて、私と圭史郎さん、それに秀平の三人は尾花沢市の街へやってきた。
 みんなでどんどん焼きを食べたあとは、いよいよ秀平のおばあちゃんが住む家を訪ねるため、軽トラにのり込んでやってきたのだ。
 風呂敷包みの中のどんどん焼きは、まだほっこりと温かい。冷めないうちにおばあちゃんに食べてもらおうということで、秀平の案内に従い、街路で車を降りたのだけれど。

「おばあちゃんの家はこの辺ですか? 秀平」
「……う……ん」

 秀平は落ち着きなく周囲を見回しては、うつむいている。花湯屋で胸を反らしていた姿とはまるで別人のようだ。おばあちゃんにどんどん焼きを届けられるというのに、どうしたのだろう。
 圭史郎さんは閑静な住宅街を眺めながら、横目で秀平を見やる。

「秀平は、ばあちゃんと一緒に住んでるのか?」
「うん……まあ……そうだよ」
「だったら自分の家がどこなのか、わかるよな。どこのネズミの穴なんだ?」

 むっとした秀平は圭史郎さんの足許あしもとにかじりついた。
 眉をひそめた圭史郎さんは足を振って秀平を振り落とそうとする。

「おれのばあちゃんは人間なんだから、人間の家に住んでるに決まってるだろ!」
「わかったわかった。で、どの家なんだよ」
「ここだ! どうだ、立派な家だろう」

 駆けていった秀平は、一軒の家の前で私たちを振り返った。
 家の門には「山田」と表札がある。秀平の苗字と同じだ。
 その家はよくある一般的な家屋だったけれど、母屋の隣に敷地があり、特徴のある小屋が建てられていた。
 人がふたり入ればいっぱいになりそうなその小屋には窓口が取りつけられているが、今は板で封鎖されていた。白いペンキの外装はところどころ剥げている。どうやらかつては店舗だったようだ。
 色褪いろあせた看板には、『ばあちゃんのどんどん焼き』と書かれていた。
 秀平は母屋の玄関へ辿たどり着くと、じっと私たちを見上げる。
 彼の実家なのだろうけれど、家を訪ねるには玄関扉を開けなければならない。その前に、設置されているインターホンを押さなければならないだろう。
 圭史郎さんが躊躇ちゅうちょなくインターホンを押すと、『はい』と応答する声が響いた。
 女性の声だけれど、おばあちゃんというほどの高齢ではない声音だ。
 秀平と圭史郎さんは黙然と私を見つめている。なんと私が応じなければならないらしい。まさか、鼠又ねずまたの秀平くんが帰ってきましたと言うわけにもいかない。慌てた私は咄嗟とっさに挨拶した。

「は、はじめまして。私は花湯屋でわか女将おかみをしている花野優香と申します。今日は、おばあちゃんにどんどん焼きを届けにきました」

 そうなんですか、と返事をした声の主は、すぐに玄関扉を開けてくれた。
 出てきたのは五十代くらいの、もちろん人間の女性だ。彼女は私と圭史郎さんを交互に見る。
 そして、思わぬことを言い出した。

「たまにいらっしゃるんですよ。おばあちゃんに会いたいと言って、贈り物をくださるファンの方が。でも、どんどん焼きを持ってきてくださったのは、あなたがたが初めてですね」
「え……?」

 意味を掴みかねて、私は目をまたたかせる。
 秀平のおばあちゃんは、ファンがいるような有名人なのだろうか。

「おばあちゃんは、有名な方なんですか?」
「あら……おふたりは、うちのお客さんだった方じゃないんですか? ほら、隣に店があるでしょう。あの店舗で、どんどん焼きを販売していたんですよ。昔はね……」

 女性は寂しげに目を伏せた。
 店舗の寂れ具合から察するに、今は営業していないようだ。
 そういえば店の名前は、『ばあちゃんのどんどん焼き』だった。おばあちゃんが店主としてどんどん焼きを作り、多くのファンが訪れる人気店だったようだ。

「おばあちゃんは、お元気ですか?」
「それが……せっかく来ていただいて悪いんですけど、会わないほうがいいと思いますよ」

 私の足許あしもとに隠れていた秀平は、突然駆け出した。
 廊下を走って、奥の部屋へ向かう。

「ばあちゃん!」

 女性には、あやかしである秀平の姿は見えていない。
 私は秀平を追いかけるため、女性に頼み込んだ。

「ぜひ、おばあちゃんに会わせてください。どんどん焼きを直接おばあちゃんに手渡したいんです。私たちの手作りなんです」

 女性は迷っていたけれど、渋々通してくれた。
 私と圭史郎さんは秀平が向かった奥の部屋へ行く。
 扉を開けると、そこには椅子に腰かけた老齢の女性がいた。座っていても明らかなほど腰が曲がり、髪の毛は白髪だ。この人が、秀平のおばあちゃんだろう。
 おばあちゃんは私たちが入室しても、こちらに目を向けようとしない。
 テレビや外の景色を見ているわけでもなく、何かの作業をしているわけでもない。ぼんやりとして、ただ座っているだけのようだった。
 秀平は、おばあちゃんの足許あしもとに駆け寄り、大声を上げた。

「ばあちゃん! おれだよ、秀平だよ。帰ってきたよ!」

 おばあちゃんは、ゆっくりとまばたきをした。
 顔を上げ、目の前に立つ秀平の姿をまっすぐに捉える。

「おや……秀平じゃないか。どこに行ってしまったのかと心配してたんだよ。帰ってきてくれたんだね」
「ばあちゃん……。おれのこと、わかるんだな」
「あたりまえじゃないか。秀平は、ばあちゃんの孫だもの」

 秀平は涙でうるんだ小さな瞳で、おばあちゃんを見つめる。

「ばあちゃん、ばあちゃん……そうだよな。おれ、ばあちゃんの孫だよな」

 おばあちゃんは慈愛に満ちた笑みを浮かべて、秀平にうなずいてみせた。
 風呂敷の中のどんどん焼きが、ずしりと重みを増した気がした。
 秀平の言うとおり、彼のおばあちゃんは人間だった。そして秀平を自分の孫だと言っている。
 けれど、おばあちゃんは自分の孫がネズミであることに疑問を抱かないのだろうか。それになぜ、あやかしである秀平の姿が見えているのか。
 あやかしの姿が見えるとき。その条件のひとつとして、その人間の死期が近いことが挙げられる。
 もしかして、おばあちゃんは……
 膝の上にのった秀平を、おばあちゃんはしわの刻まれたてのひらで愛しげにで回していた。
 私たちの背後にいた女性は、言いにくそうに話しかける。

「申し訳ないです。みっともないところをお見せして」
「え? みっともないと言いますと……」

 家に同居している彼女はおそらく、おばあちゃんの娘さんではないだろうか。
 ということは、秀平の母親ということになる。
 彼女には秀平の姿が見えていないようだけれど、息子の名前をおばあちゃんが呼んだのをみっともないとはどういうことだろう。

「母は年とともに認知症が進んでいるんです。店を閉めてからは、いつもああして独り言を喋っているんです。まるでそこに誰かがいるように」
「あ……それは……」

 あやかしと喋っているんです、と私が言う前に、女性はたまっていた鬱憤うっぷんを晴らすかのように話す。

「秀平なんて、もっともらしく人様の前で呼んで……恥ずかしくてたまらないです。以前は私へのあてつけなのかと思って喧嘩もしましたけど、結局は寂しかったんでしょうね。昔はたくさんのお客様と話して、小学生が来たら無料でどんどん焼きを食べさせてあげたりしていたから、母の周りはいつも賑やかでした」

 おばあちゃんは、娘さんの声が聞こえていないかのように、平穏な顔つきで秀平をでている。
 圭史郎さんは娘さんに訊ねた。

「この家に、秀平という名の、ばあちゃんの孫がいたんじゃないのか? あなたの息子だろう」

 瞠目どうもくした娘さんは、激しく首を左右に振った。

「とんでもない! 私は独身ですし、きょうだいもいません」
「なんだって? じゃあ、秀平は何者なんだ」

 娘さんは唇をむと、うつむいた。その表情には悔恨と苦悩が色濃く刻まれていた。

「孫の秀平なんて、初めからいないんです。私は独身で子どもを産みませんでしたから。孫がほしかった母の、妄想なんですよ……」

 私は言葉をなくして、おばあちゃんと秀平を見つめた。
 そこには陽射しの中、孫をいつくしむ祖母の姿があった。

「……おばあちゃんに、どんどん焼きを食べてもらってもいいでしょうか」
「ええ、もちろんです。暴れたりはしないので、近づいても大丈夫です。今、お茶をお持ちしますね」

 娘さんはお茶を淹れるために部屋から出て行く。私は風呂敷包みを手にしながら、おばあちゃんにゆっくりと近づいた。

「おや……どんどん焼きの匂いがするねえ。懐かしい匂いだねえ」

 顔を上げたおばあちゃんだけれど、やはり私のほうを見ようとはしない。
 まるでおばあちゃんの世界には、秀平とふたりきりであるかのように。

「ばあちゃん、おれ、どんどん焼き作ったんだ。こいつらに手伝ってもらった。ばあちゃんはおれによくどんどん焼きを作ってくれただろ? 今度はばあちゃんに、おれの作ったどんどん焼きを食べてほしかった」
「まあまあ、そうかい。嬉しいねえ。秀平が作ってくれたどんどん焼き、ばあちゃんが食べていいのかい」
「もちろんだよ! ばあちゃんに喜んでほしくて、おれ、すごいがんばった」
「そうかい、そうかい。秀平はがんばりやだものねえ」

 私は無言で風呂敷包みを解くと、パックを開いて、おばあちゃんの前に差し出した。
 おばあちゃんは慣れた手つきで、すいと割り箸をすくい上げる。
 どんどん焼きをひとくち口にしたおばあちゃんは、目を細めた。

「おいしいねえ。秀平が作ってくれたどんどん焼きは、とってもおいしい。よくがんばったねえ」
「ばあちゃん……ありがとう」
「いいこだ。秀平は、とってもいいこだねえ」

 おばあちゃんは、膝の上の小さな秀平を優しくでた。
 辺りには、ソースの香りが切なく漂っていた。


 おばあちゃんと娘さんに別れを告げて、私たちは山田家を辞した。おばあちゃんは最後まで、秀平以外の者に目を配ることも、言葉をかけることもなかった。
 門の外までくると、秀平は来たときと同じように、またうつむいた。

「……じゃあな。おれは、ここが家だから」

 秀平は、花湯屋へは戻らないようだ。ここが彼の実家なのだから、当然かもしれない。
 けれど娘さんに真実を聞いたあとで、素直に喜ぶことはできなかった。
 秀平という、おばあちゃんの人間の孫は、存在しなかった。孫が欲しいというおばあちゃんの願いが、山田秀平という人物を作り出したのだ。
 夕焼け雲を背にした圭史郎さんは、淡々とした声音で秀平に問いかけた。

「秀平、おまえ、わかってたんだろ? 自分が本当は人間なんかじゃなく、ネズミだってことを」

 私は目を見開く。
 秀平はあんなに人間であると主張していた。あやかしだから、以前は人間だったのかもしれないと思っていたのだけれど。

「秀平……そうだったんですか?」
「外側はともかく中身が人間なら、おれは人間だなんて大声でアピールしないからな。己が矮小わいしょうな存在だと知っているからこそ、そう言うのさ」

 ぎゅっと手を握りしめた秀平は、圭史郎さんが挑発的に言うのにも、黙っていた。
 やがて、握りしめた手がぶるぶると震えだす。

「そんなの……わかってるに決まってるだろ! おれは、死んであやかしになる前から、ネズミなんだから……」

 ぽろぽろと、大粒の涙が秀平のつぶらな瞳からこぼれ落ちる。

「おれ、人間になりたかった……。ばあちゃんの孫に生まれてきたかった。おれなんか、ただのドブネズミなのに……ばあちゃんはおれにもどんどん焼きの欠片かけらを食べさせてくれたんだ。でも、あの女が毒入りの餌をいて……おれは死んじゃった。だけど鼠又ねずまたになったおれを、ばあちゃんは孫だって、秀平だって言ってくれた。おれ、幸せだった。それなのに、おれは、やっぱりネズミだったんだ……」

 私は屈んで秀平の涙を小指の先で拭う。
 秀平の涙はとても温かい。ほかほかのどんどん焼きと、同じ温かさだった。

「秀平は、おばあちゃんの孫ですよ」

 しっかりと告げた私の言葉に、秀平は涙で濡れた目をまたたかせた。

「え……でも、孫っていうのは……」
「たとえ血のつながりがなくても、おばあちゃんは、あなたを孫だと認めています。それに、秀平の作ったどんどん焼きをおいしいと言って食べてくれました。それでいいじゃありませんか。おばあちゃんの望む世界を、大切にしてあげてください」

 人間でなくても、おばあちゃんにとって、秀平は大切な孫なのだ。
 ふたりの様子を見た私には、それがよくわかった。
 きっと、どんどん焼き屋を引退したおばあちゃんがゆっくり話せる唯一の相手があやかしの鼠又ねずまたであり、秀平であったのではないだろうか。
 圭史郎さんも静かにうなずく。

「そうだな……ばあちゃんが心を許して話せるのは、おまえしかいない。ばあちゃんの残りの人生を共に過ごすのは、ばあちゃん孝行になるだろう」

 秀平は小さな手で目許めもとを拭うと、うつむいていた顔を上げた。

「そういえば、ばあちゃんは、秀平が人間だったらなんてひとことも言わなかった。秀平は大事な孫だって言って、いつもおれをでてくれた。おれは、人間じゃなくても、ばあちゃんのそばにいていいんだな……」

 きらきらとした瞳に、夕陽が映っている。秀平の小さな瞳の中の夕陽は、とても小さいのだけれど、その輝きは本物の夕陽と同じだった。
 たとえ、なりたい自分になれなくても、誰かに必要とされるのならば、その人のために生きるのは充分に幸せなことだと私は思う。

「おばあちゃんの傍にいてあげてください。また、どんどん焼きを持ってきますね」
「うん……ありがとな」

 私たちは秀平に別れを告げて、山田家をあとにした。
 振り返ると、さらに小さくなった秀平は手を振っていた。私も手を振り返す。
 傍から見れば、哀しいことかもしれない。
 おばあちゃんはもしかしたら、人間とネズミの区別すらつかないのかもしれない。
 それでも、おばあちゃんの心の平穏を最後まで守ってあげたい。
 軽トラックを停めた駐車場まで戻る道すがら空を見上げると、夕陽が山の稜線に身を沈めるところだった。それから、すぐに天は藍の紗幕しゃまくで覆われる。
 私は、ぽつりと呟いた。

「圭史郎さん……これで、よかったんですよね。おばあちゃんのためにも」

 この結末が正しかったのかという迷いはいつもある。
 もしも私が、おばあちゃんが元気な頃に訪ねていたなら、違った結果だったかもと思うのは傲慢なのだろうか。
 秀平も、おばあちゃんに出会わなければ自分が何者かという葛藤を抱かずに済んだのだ。
 圭史郎さんは私と同じ空を見上げながら、低い声音で述べた。

「愛しい孫が傍にいてくれて、幸せだ。ほかに望むものはない。……ばあちゃんの顔は、そう語っていた」

 チャリ……と硬質な音を響かせて車の鍵を出した圭史郎さんは、軽トラックのドアを開けた。私も座席にのり込む。
 軽トラックは銀山温泉へ向けて、藍色に染められた街を走り出した。

「……世の中には、いろんな幸せの形があるんですね」
いびつでもいいじゃないか。幸せと感じているなら、それでいい」

 圭史郎さんの言葉が、胸に染みる。
 夜空に輝く一番星を見つめながら私は、秀平を慈しいつくむおばあちゃんの満たされた表情を思い出していた。


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