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あやかしお宿の若女将になりました
あやかしお宿の若女将になりました-2
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初めて訪れる土地に来て、いきなり若女将だ、あやかし使いの末裔だと言われても受け入れられない。大体、あやかしってなんだろう。全部が子鬼たちのような姿ではないよね。
「あやかしって……結構いるものなんですか?」
「私は全く見えないからねえ。どうなのかしら、圭史郎さん」
そうか。鶴子おばさんには子鬼たちの姿も見えないから、圭史郎さんを通してしか情報が得られないんだ。
私と鶴子おばさんは圭史郎さんに目を向けた。
「銀山温泉は昔からあやかしが集まる地場らしくてな。そこらにいるよ」
「子鬼たちのような小さくて可愛らしいあやかしばかり……ではないですよね?」
「そのとおり。魑魅魍魎が跋扈してると喩えたほうがいいかな。どんなあやかしが来てもお客様だ。丁重にお迎えするために精神は鍛えておいたほうがいいと思うぞ」
すうと背筋が冷える。
私の脳裏には人間を取り殺すような恐ろしい妖怪の姿が浮かんだ。
青ざめた私の考えを察したのか、圭史郎さんは極上の笑顔で追い打ちをかける。
「喰われないよう、気をつけろ。……冗談だよ。そんなわけないだろ。可愛いあやかししかいないから安心しろ」
「安心できません」
幽霊すら苦手なのに、あやかしをお客様としてお迎えするだなんて、とてもできそうにない。私が若女将をしなくても、あやかしに慣れている圭史郎さんがいれば済むのではないだろうか。
「圭史郎さんが若旦那をやればいいんじゃないですか? 私はお手伝いでいいです」
「俺は神使だからな。あやかし使いとは親戚みたいなもので、本来は俺がサポートする側なんだ。若旦那なんていう立場じゃない」
「でも、私は若女将の仕事なんて初めてだし、しかもお客様があやかしだなんて……」
仲居さんの経験もないのに若女将なんて責任が大きすぎる。どうにか若女将は避けたくて、私はやんわりと断りながらソファの端に寄る。
すると向かいの鶴子おばさんが、さめざめと泣き出した。
「鶴子おばさん? どうしたんですか?」
「いえね、思い出したの。光一郎さんが花湯屋を出て行った日をね。そのとき私は子どもだったんだけれど、『おじさんどこへいくの?』と問いかけたら、光一郎さんは『あやかしなんて気味が悪い、もう勘弁してくれ』と呟いて逃げるように背を向けたわ。あやかしのお客様を持て余した父は、兄さんがいてくれれば、自分にあやかし使いの能力があればと死ぬまで繰り返して……」
「わかりました、わかりました。若女将、やらせていただきます」
おじいちゃん、恨みます。
私はあやかし使いの役目を放棄したおじいちゃんの代わりに、花湯屋で若女将を務めなければならない宿命らしい。
鶴子おばさんの思い出話を聞かされたら、断ることなんてできない。
それに私が花湯屋を訪れたのは、鶴子おばさんから要請があったからではない。近頃の私の様子を見かねた父が、山形の高校に転校したらどうかと提案したことがきっかけだった。
これも何かの縁かもしれない。
やってみようかな。あやかしお宿の若女将。
了承した途端、鶴子おばさんは目許に当てていたハンカチを下げて笑顔を向けた。
涙……出てない。
「ありがとう、優香ちゃん。これで当主があやかし使いではないという花湯屋の不名誉を挽回できるわ。私も精一杯サポートするから、若女将として頑張ってちょうだいね」
「ええ……はい」
「俺も手伝うからな。よろしく、若女将」
爽やかに微笑む圭史郎さんに肩を叩かれ、引き攣った笑いが零れる。
なんだか……うまい具合に……
「丸め込まれちゃったね」
「逃げられなくなっちゃったね」
「どうなるかな?」
「どうなるかな? たのしみ、たのしみ」
圭史郎さんの肩の上で、子鬼たちは楽しそうに踊っている。
私は呆然としたまま、ふたりが織り成す不思議な踊りを瞳に映した。
「おまえら、余計なこと言うなよ」
「圭史郎も嬉しいのにね」
「嬉しいのにね」
「うるさいな」
圭史郎さんは指先で子鬼たちを弾いた。ふたりは華麗な回転を見せてソファに着地すると、私の膝にのってくる。
「優香は? 嬉しい? 茜は嬉しい」
「優香は? 嬉しい? 蒼龍は嬉しい」
まるで蜂蜜を溶かしたような黄金色の小さな瞳で見つめられて、私はこくりと頷いた。
「うん……嬉しい」
「わあい。嬉しい、嬉しい」
「わあい、わあい。嬉しい」
ふたりは手を繫ぎながら、膝の上でくるくると踊る。
こうして私の、あやかしお宿の若女将生活は始まった。
第一章 コロ
奥羽山脈の山麓にある銀山温泉は、十七世紀に銀鉱で働いていた鉱夫が発見したと言い伝えられている。
銀山温泉街を抜ければ、江戸時代には御公儀山として栄えた延沢銀山跡が残されている。最盛期には島根の石見、兵庫の生野と共に三大銀山と謳われたそうだ。
今では銀山川の両岸に、大正ロマンを色濃く残す温泉宿が建ち並び、四季を通して観光客の訪れる温泉街となった。
そのひとつの『花湯屋』は、江戸時代から続く由緒ある老舗旅館である。
ただし、暖簾はふたつある。
ひとつは藍の暖簾で、こちらは人間のお客様用だ。
そしてもうひとつは臙脂の暖簾で……
「圭史郎さん! ちょっとは手伝ってくれたらどうなんですか⁉」
廊下に、掃除機をかけていた私の怒声が響き渡る。
圭史郎さんは談話室のソファに寝そべりながら、優雅な午睡を貪っていた。そこはお客様がいらっしゃるところなのだけど。
「んあー……?」
神使という肩書きの圭史郎さんは、外見はモデルのように格好よくて爽やかそうなイケメンなのに、中身は大変残念な青年のようである。
温泉宿といえば心を込めてお客様をおもてなしするものだと思うのだが、私が訪れるまで花湯屋の臙脂の暖簾をひとりで預かっていたであろう圭史郎さんは、日がな午睡に励んでいるのだ。
「これじゃあ、鶴子おばさんが私を若女将に、って推すのも無理ないよね」
私は東京からとある理由で、ここ山形の尾花沢市に引っ越してきた。
初めはおじいちゃんの実家である花湯屋で、仲居さんとしてお手伝いをするつもりだったのだけれど……あやかし使いの末裔であると聞かされて、若女将を任されることになってしまったのだ。
臙脂の暖簾の向こう側は、あやかしのお客様が訪れる秘密のお宿。
あやかしのお客様を迎えるなんて不安でいっぱいだったけど、花湯屋に来てから二週間ほど経った今では大分慣れてきた。
主に掃除が。
裏の花湯屋には、あやかしのお客様が押し寄せるなんてことはなく、臙脂の暖簾はちっとも動かないのである。圭史郎さんが言うには、シーズンも大きく影響するらしいけれど。
今は閑散期なのかな。あやかしが温泉に入りたくなるのは、いつ頃なのか見当がつかない。
もうすぐ春休みも終わり、新年度からは高校も始まる。若女将と高校生の両立だから、頑張らないと!
「圭史郎さーん! いくらお客様がいなくて暇だからって、昼寝ばかりしないでくださいよ」
紺色の法被がソファからだらしなく垂れている。その袂がもぞりと動いたかと思うと、ひょいと小さな生き物がふたつ飛び出てきた。
「優香は働きすぎ。そうじき、うるさいね」
「うるさいね。圭史郎とお昼寝しよ」
ハムスターほどの大きさをした子鬼ふたりが顔を出す。女の子が茜で、男の子が蒼龍という名前だ。
彼らはあやかしであり、花湯屋の湯治客なのだけれど、あまりにも馴染んでいるのでまるでペット……ではなく家族のようである。
「お昼寝しません。色々とお仕事あるんですよ」
初めはあやかしに臆していた私も、子鬼たちとはすっかり打ち解けてしまった。
「優香の次のおしごとは、あたしたちと遊ぶことね」
「遊ぶことだね。だってオレたちお客様。いつもここにいるもんね」
自分たちはお客様なので相手をしてくれと言いたいらしい。
いつもはキャビネットの裏側やソファの下に隠れていたり、圭史郎さんの法被の中に入っていたりする子鬼たちだけれど、たまにこうして出てくるのだ。
「はいはい、わかりました。じゃあ遊覧に行きますか」
「わあい、いく」
「わあい、いく」
遊覧と名付けているが、湖で遊覧船にのるようなことではない。
私が掌を差し出すと、茜と蒼龍はぴょんとのってきた。両手でふたりを抱えながら廊下を渡り、従業員用の扉を開く。
表は人間とあやかしのお客様で暖簾の色が分けられているが、裏は繫がっている。
いくらあやかしのお客様が少ないといっても部屋はいくつもあるし、温泉浴場も広いので管理が必要だ。私だけではとても手が回らないから、女将である鶴子おばさんを始めとした花湯屋のみなさんに手を貸してもらっていた。
圭史郎さんがあてにならないからね。
事務室に顔を出すと、仲居のみずほさんが受話器を置きながらメモを記していた。
「お掃除、終わりました」
「お疲れさま、優香ちゃん。女将さんは松の間に行ってるよ」
みずほさんは明るいお姉さんのような若々しさに溢れた仲居さんだけれど、実年齢は秘密だそうだ。花湯屋に勤めている仲居さんの中で一番古参らしい。
一体いくつなんだろうと好奇心が湧くが、それは永遠の謎にしておこう。
「次は何をお手伝いしましょうか?」
「もう十分じゃない? どうせ圭史郎さんは優香ちゃんに全部任せて昼寝でしょ?」
そのとおりです。圭史郎さん、見抜かれてますよ。
お茶の準備を始めたみずほさんは、私が何かを持っているような不自然なポーズをしているので、興味深げに覗き込む。
「もしかして、それ……あやかしのお客様がいらっしゃるの?」
「そうなんです。子鬼のふたりが遊んでほしいそうなので、花湯屋を巡る遊覧に出てるところです」
子鬼ふたりは見えないところに引きこもっていることが多い。こうして宿の中を歩いて回るだけでも、ふたりにとっては大冒険らしいのだ。
「みずほだね」
「みずほは若作りだね」
遠慮のない子鬼の感想に、私は頬を引き攣らせる。
聞こえてなくてよかった。みずほさんに今の台詞を聞かれていたら、握り潰されちゃうかもしれないよ。
みずほさんにはあやかし使いの能力はないので、子鬼たちの姿も見えないし、声も聞こえていない。
「子鬼の茜ちゃんと蒼龍君でしょ? 圭史郎さんから聞いたことあるよ。掌サイズで可愛いんだよね~」
「見たことないのにね」
「見たことないのにね、ブス」
「……ええ、とても、可愛いんですよ……」
お願い、どうかみずほさんが突然あやかし使いの能力に目覚めませんように。
お茶を出してくれたみずほさんの厚意に甘えて、テーブルに子鬼たちを下ろした私は湯呑みを手にする。
子鬼たちは私や圭史郎さんには懐いているのだけれど、稀に会う他の人たちに対してはなぜか辛辣だ。
「茜ちゃんと蒼龍君。お姉さんの手にものってみてよ~」
笑顔で両手を差し出したみずほさん。
茜は鋭い眼光で睨みつけ、蒼龍は怯えたように私の袖に掴まる。
「いやだね、ブス」
「いやだね、デブ」
みずほさんはスレンダーな美人なので、その罵倒は事実とはかけ離れている。
「……あの、今日は気分が優れないようです……」
「そっかぁ、残念」
圭史郎さん以外の花湯屋の人々は、あやかしを見ることはできないけれど、その存在を知っているし、お客様として大切に思っている。
みずほさんは素敵なお姉さんなのに、子鬼たちが忌み嫌うのはどうしてなんだろう。そういえば鶴子おばさんにも絶対に近づこうとしない。
「優香ちゃん、山形には慣れた? 東京から来て突然旅館の仕事だから戸惑うことも多いんじゃない?」
「はい。びっくりしたことも色々あるんですけど、それよりも楽しいです。着物を着るのも憧れてたので、嬉しかったです」
花湯屋で若女将をしているときは小袖の着物を纏い、髪をお団子にまとめている。今はお掃除をしていたので、前掛けも着用していた。
「尾花沢は雪が多くて驚いたでしょ。もうそろそろ春だから暖かくなるね。でもストーブは五月の連休に入るまで手放せないんだけどさ」
「ゴールデンウィークまでですか⁉ 朝晩はすごく冷えますよね」
しばらくみずほさんと気候のことや宿の業務などについて、お茶を飲みながら話に花を咲かせる。子鬼たちはテーブルの上で鬼ごっこを繰り広げていた。本物の鬼ごっこだ。
そのとき、からりと扉が開いて料理人の遊佐さんが顔を出した。
「みずほさん、女将さんはまだか」
「ぎゃああああああああ‼」
途端に子鬼たちの悲鳴が響き渡る。
驚いた私は肩を跳ねさせた拍子に、椅子をがたんと鳴らしてしまった。
けれど遊佐さんは意に介さず、みずほさんも小首を傾げただけ。
悲鳴が聞こえたのは私ひとり。遊佐さんやみずほさんには、子鬼たちの悲鳴は聞こえなかったのだ。
「松の間に行ってますよ。呼んできましょうか」
「頼む。宴会の舟盛りのことで、ちょっと」
テーブルの上にいた子鬼たちは私の袂に逃げ込んだ。
遊佐さんは寡黙な料理人で、花湯屋の厨房を仕切っている。夜毎、膳を彩る料理は見事なもので、お客様の評判もいい。子鬼たちが恐れるような人ではないと思うのだけれど。
「じゃあ、ちょっと行ってくるね~」
ひらりと手を振ったみずほさんは宿の二階にある松の間へ小走りで駆けていった。遊佐さんも無言で扉を閉めて、厨房へと戻っていく。
「ねえ。茜も蒼龍も、どうしちゃったんですか?」
湯呑みを隅の流しで洗いながら、袂に隠れている子鬼ふたりに問いかける。
……が、返事はない。袂が微かに揺れているので、震えているみたいだ。
「そりゃそうだろ。あやかしは人間と仲がいいわけじゃないからな」
「圭史郎さん! おはようございます」
「ああ、いい昼寝だったよ」
寝癖の付いた髪を掻きながら事務室に入ってきた圭史郎さんは、私の袂を掴んで軽く揺する。
子鬼たちは素早く袂から出ると、今度は圭史郎さんの法被の襟元にもぐりこんだ。
「こわかったね、圭史郎」
「こわかったね、こわかったね」
「人間が恐いのはおまえらだろ」
あやかしは人間のごく近くにいるので共存しているのかと思ったけれど、子鬼たちが怖がったり避けたりしている様子を見れば、人間と打ち解けているというわけではないらしい。
「でも、圭史郎さんや私のことは怖がったりしないし、仲良くしてくれるじゃないですか」
「それは神使とあやかし使いの末裔だからだよ。あやかしは人間を嫌うし、人間はあやかしを厭うものなんだ。優香はあやかしがどうやって生まれるか、知ってるか?」
「……木の股から生まれるんですか?」
「それは悪魔。誰がボケろと言ったんだよ」
「ボケてません」
自分があやかし使いの末裔ということも花湯屋にやってきて初めて知ったのに、あやかしが生まれたわけなんて知るはずもない。
確か、花野家の先祖があやかしを取りまとめて温泉宿に招いたので、あやかし使いと呼ばれるようになったのだと圭史郎さんが語っていた。
花湯屋を継ぐはずだったおじいちゃんの孫である私は、そのあやかし使いの能力を受け継いでいるのだ。
とはいえ、あやかしが見えて話ができる以外で特別なことは今のところ何もない。
圭史郎さんは神妙な顔つきをして、私をまっすぐに見つめた。
「あやかしには二種類いる。ひとつは発生したときから、あやかしである者。そいつらは地獄からやってくる。もうひとつは、この世で怨念を抱えたまま死んで、あやかしとなる者。前者は人の手には負えないし、この辺りにはあまりいない。花湯屋を訪れるのは圧倒的に後者だ。子鬼たちもそれだ。あやかしは怨念から生まれるんだよ」
私は瞳を瞠る。こんなに可愛らしい子鬼たちが怨念から生まれるだなんて、俄には信じられない話だ。
「……怨念って、恨みとか、そういうことですか」
「そうだな。この世に未練を残したまま死んだ者が、復讐するためにあやかしになる」
怨念とか、未練とか復讐とか、仄暗い言葉が羅列される。
花湯屋を訪れるあやかしのお客様が、そういったものを抱えているなんて。
でも……果たして本当にそうだろうか。私は首を捻った。
「未練を残して復讐を考えているあやかしが、のんびり温泉に浸かってるって、そんなのなんだかしっくりこないじゃないですか?」
私はまだ子鬼たちしか知らないけれど、怨念を抱えた恐ろしいあやかしが、ゆるりと温泉で和んでいるところを想像すると……微笑ましい気がする。
「温泉で怨念も浄化されちゃいそうですよね」
「花湯屋の使命はそこにある。優香は当主になるはずだった男の孫だから、あやかし使いの末裔だけど、やることは一緒だ。あやかしを花湯屋に招いて、怨念を洗い流すということだな」
あやかし使いとは、怨念を持ったあやかしの心を変化させる役目を負っているようだ。恨みや復讐なんて考えてたら、精神衛生上よくないもんね。
でも、そう簡単にいくのだろうか。そもそも茜と蒼龍は復讐なんて考えてるようには見えない。いつでものんびり過ごしている。
圭史郎さんの襟元から、茜と蒼龍は顔を出した。ぴょんと飛んだ子鬼たちは私の肩に着地する。
「茜と蒼龍は、怨念なんて持ってないですよね? 圭史郎さんの言ったことは大げさですよね?」
茜は私の耳に手をついて、こてんと首を傾げる。
「温泉で怨念はなくなったね」
蒼龍は私の肩に座りながら、こてんと茜とは逆方向に首を傾げた。
「怨念で温泉はなくなったね」
「蒼龍、それ逆だね。温泉なくなったらたいへん」
「あっ……しっぱい、しっぱい。温泉怨念温泉怨念……」
「おまえら、温泉と怨念を言いたいだけだろ」
圭史郎さんが呆れながら指摘すると、子鬼たちは、あははと笑った。
「優香の言うとおりだね。圭史郎が大げさ」
「大げさだね。圭史郎は昼寝ばかりなのに言うことは壮大」
「おまえらな」
圭史郎さんが蒼龍を掴もうと手を伸ばすと、ひらりと華麗に身を翻して魔の手を避ける。今度は反対の肩にのっている茜を掴もうとするが、茜も素早く私の首根につかまって身を躱した。
ひらり、ひらり。
私を挟んだ鬼ごっこは続く。
圭史郎さんの手がぶつからないよう、私は硬直するけれど、ふいに圭史郎さんの指先が耳朶を掠めた。
「いたた」
「ああ、悪い。もうやめだ」
圭史郎さんは手を引く。逃げ切った茜と蒼龍は得意げに胸を反らした。私の肩の上で。
ほっとした私は頬を緩める。よかった。茜と蒼龍は温泉に浸かったことによって、抱えていた怨念は消えたんだ。そもそも怨念だなんて、圭史郎さんは大げさなんだから。
「そういえば、あやかしの客が来たぞ。だから呼びに来たんだ」
圭史郎さんは重大なことを、さらりと告げる。私は目を瞠った。
「えっ? お客様⁉ どうしてそんな大事なことを後回しにするんですか!」
子鬼たちを除けば、私が花湯屋を訪れて初めてのお客様だ。
ついにあやかしのお客様が訪れたのだ。それなのに私としたことがお出迎えできなかっただなんて、若女将失格かもしれない。
慌てふためいている私を面白そうに眺めていた圭史郎さんは、笑いながら踵を返した。
「もう風呂に入ってるぞ。俺が案内しておいた」
「あっ、そうなんですか。ありがとうございます。……じゃなくて! 今度からは真っ先にお客様がいらっしゃったことを教えてくださいね!」
「わかったよ。ほら、いくぞ」
絶対わかってないよね。
そのとき軽い足音が聞こえて、みずほさんと鶴子おばさんが姿を現す。私たちはあやかしのお客様が訪れたことを伝えて、裏の花湯屋のほうへ向かった。
「おかえりなさいませ!」
私は極上の笑顔で散歩から宿に帰ってきたお客様をお迎えした。
閑古鳥が鳴いていた花湯屋の臙脂の暖簾の向こう側だったけれど、ついに子鬼たち以外のお客様が訪れたのである。
彼が花湯屋を訪れて三日経つ。毎日散歩に出かけるお客様の帰りを、私は出迎えていた。
「ただいま、若女将さん」
その名は、コロさん。
二足歩行のしっかりとした歩み。もふもふで艶々の茶色の毛並み。ぴんと立ったふたつの耳に、くるりと丸まった尻尾。
「コロさん、今日もお散歩ですか。天気がよくて気持ちのいい日でしたね」
「うん。そうだったね。お風呂いただこうかな」
「はい! 大浴場の準備はできていますよ」
「ありがとう」
朗らかにお話ししてから、コロさんはいつものように大浴場へ向かう。
……犬だ。
どこからどう見ても、柴犬だ。
外見は柴犬にしか見えないコロさんも、二足歩行で喋れるので、やはりあやかしである。
あやかしというと棍棒を持った一つ目の鬼とか、花魁のような着物を纏う大蛇とか、そういうものを想像していたから、なんだか拍子抜けしてしまった。
コロさんのあとを追い、大浴場の脱衣場へ足を踏み入れる。
犬の毛皮を脱いで籠に入れている……なんてことはなく、私は胸を撫で下ろす。浴場へ続く引き戸を開けてみると、コロさんは気持ち良さげな顔で檜造りの湯船に浸かっていた。
「ふう。ごくらく、ごくらく」
「コロさん、お湯加減はいかがですか?」
「ちょうどいいよ、若女将さん」
銀山温泉の泉質はナトリウム――塩化物・硫酸塩温泉である。効能は動脈硬化症・神経痛・疲労回復・健康増進などなど。
加えて、あやかしのお客様には長寿の効能と、それぞれの症状に効く泉質があるのだとか。
怨念を洗い流すという主な目的の他にも様々な効能があるようだ。
とはいえ、可愛らしくて朗らかなコロさんが、怨念を抱えているようには到底見えないのだけれど。
ざぶり、と肩まで湯に浸かるコロさんは小さく呟いた。
「思い出すなぁ……。あのとき、一緒にお風呂に入った……」
「え。何か言いました?」
「ううん! なんでもないよ、若女将さん」
「そうですか? それでは、どうぞごゆっくり」
湯気の向こうにコロさんの、ふたつの耳が見えた。私は静かに戸を閉め、大浴場をあとにする。
「あんなに可愛いお客様なら大歓迎だよね」
「コロはまだ若いあやかしだな」
「ひゃっ! 圭史郎さん!」
厨房に籠もっていた圭史郎さんが、いつのまにか背後に来ていた。
実はあやかしのお客様の食事は、圭史郎さんが調理を行っている。昼寝してるだけじゃなかった。
「あやかしって……結構いるものなんですか?」
「私は全く見えないからねえ。どうなのかしら、圭史郎さん」
そうか。鶴子おばさんには子鬼たちの姿も見えないから、圭史郎さんを通してしか情報が得られないんだ。
私と鶴子おばさんは圭史郎さんに目を向けた。
「銀山温泉は昔からあやかしが集まる地場らしくてな。そこらにいるよ」
「子鬼たちのような小さくて可愛らしいあやかしばかり……ではないですよね?」
「そのとおり。魑魅魍魎が跋扈してると喩えたほうがいいかな。どんなあやかしが来てもお客様だ。丁重にお迎えするために精神は鍛えておいたほうがいいと思うぞ」
すうと背筋が冷える。
私の脳裏には人間を取り殺すような恐ろしい妖怪の姿が浮かんだ。
青ざめた私の考えを察したのか、圭史郎さんは極上の笑顔で追い打ちをかける。
「喰われないよう、気をつけろ。……冗談だよ。そんなわけないだろ。可愛いあやかししかいないから安心しろ」
「安心できません」
幽霊すら苦手なのに、あやかしをお客様としてお迎えするだなんて、とてもできそうにない。私が若女将をしなくても、あやかしに慣れている圭史郎さんがいれば済むのではないだろうか。
「圭史郎さんが若旦那をやればいいんじゃないですか? 私はお手伝いでいいです」
「俺は神使だからな。あやかし使いとは親戚みたいなもので、本来は俺がサポートする側なんだ。若旦那なんていう立場じゃない」
「でも、私は若女将の仕事なんて初めてだし、しかもお客様があやかしだなんて……」
仲居さんの経験もないのに若女将なんて責任が大きすぎる。どうにか若女将は避けたくて、私はやんわりと断りながらソファの端に寄る。
すると向かいの鶴子おばさんが、さめざめと泣き出した。
「鶴子おばさん? どうしたんですか?」
「いえね、思い出したの。光一郎さんが花湯屋を出て行った日をね。そのとき私は子どもだったんだけれど、『おじさんどこへいくの?』と問いかけたら、光一郎さんは『あやかしなんて気味が悪い、もう勘弁してくれ』と呟いて逃げるように背を向けたわ。あやかしのお客様を持て余した父は、兄さんがいてくれれば、自分にあやかし使いの能力があればと死ぬまで繰り返して……」
「わかりました、わかりました。若女将、やらせていただきます」
おじいちゃん、恨みます。
私はあやかし使いの役目を放棄したおじいちゃんの代わりに、花湯屋で若女将を務めなければならない宿命らしい。
鶴子おばさんの思い出話を聞かされたら、断ることなんてできない。
それに私が花湯屋を訪れたのは、鶴子おばさんから要請があったからではない。近頃の私の様子を見かねた父が、山形の高校に転校したらどうかと提案したことがきっかけだった。
これも何かの縁かもしれない。
やってみようかな。あやかしお宿の若女将。
了承した途端、鶴子おばさんは目許に当てていたハンカチを下げて笑顔を向けた。
涙……出てない。
「ありがとう、優香ちゃん。これで当主があやかし使いではないという花湯屋の不名誉を挽回できるわ。私も精一杯サポートするから、若女将として頑張ってちょうだいね」
「ええ……はい」
「俺も手伝うからな。よろしく、若女将」
爽やかに微笑む圭史郎さんに肩を叩かれ、引き攣った笑いが零れる。
なんだか……うまい具合に……
「丸め込まれちゃったね」
「逃げられなくなっちゃったね」
「どうなるかな?」
「どうなるかな? たのしみ、たのしみ」
圭史郎さんの肩の上で、子鬼たちは楽しそうに踊っている。
私は呆然としたまま、ふたりが織り成す不思議な踊りを瞳に映した。
「おまえら、余計なこと言うなよ」
「圭史郎も嬉しいのにね」
「嬉しいのにね」
「うるさいな」
圭史郎さんは指先で子鬼たちを弾いた。ふたりは華麗な回転を見せてソファに着地すると、私の膝にのってくる。
「優香は? 嬉しい? 茜は嬉しい」
「優香は? 嬉しい? 蒼龍は嬉しい」
まるで蜂蜜を溶かしたような黄金色の小さな瞳で見つめられて、私はこくりと頷いた。
「うん……嬉しい」
「わあい。嬉しい、嬉しい」
「わあい、わあい。嬉しい」
ふたりは手を繫ぎながら、膝の上でくるくると踊る。
こうして私の、あやかしお宿の若女将生活は始まった。
第一章 コロ
奥羽山脈の山麓にある銀山温泉は、十七世紀に銀鉱で働いていた鉱夫が発見したと言い伝えられている。
銀山温泉街を抜ければ、江戸時代には御公儀山として栄えた延沢銀山跡が残されている。最盛期には島根の石見、兵庫の生野と共に三大銀山と謳われたそうだ。
今では銀山川の両岸に、大正ロマンを色濃く残す温泉宿が建ち並び、四季を通して観光客の訪れる温泉街となった。
そのひとつの『花湯屋』は、江戸時代から続く由緒ある老舗旅館である。
ただし、暖簾はふたつある。
ひとつは藍の暖簾で、こちらは人間のお客様用だ。
そしてもうひとつは臙脂の暖簾で……
「圭史郎さん! ちょっとは手伝ってくれたらどうなんですか⁉」
廊下に、掃除機をかけていた私の怒声が響き渡る。
圭史郎さんは談話室のソファに寝そべりながら、優雅な午睡を貪っていた。そこはお客様がいらっしゃるところなのだけど。
「んあー……?」
神使という肩書きの圭史郎さんは、外見はモデルのように格好よくて爽やかそうなイケメンなのに、中身は大変残念な青年のようである。
温泉宿といえば心を込めてお客様をおもてなしするものだと思うのだが、私が訪れるまで花湯屋の臙脂の暖簾をひとりで預かっていたであろう圭史郎さんは、日がな午睡に励んでいるのだ。
「これじゃあ、鶴子おばさんが私を若女将に、って推すのも無理ないよね」
私は東京からとある理由で、ここ山形の尾花沢市に引っ越してきた。
初めはおじいちゃんの実家である花湯屋で、仲居さんとしてお手伝いをするつもりだったのだけれど……あやかし使いの末裔であると聞かされて、若女将を任されることになってしまったのだ。
臙脂の暖簾の向こう側は、あやかしのお客様が訪れる秘密のお宿。
あやかしのお客様を迎えるなんて不安でいっぱいだったけど、花湯屋に来てから二週間ほど経った今では大分慣れてきた。
主に掃除が。
裏の花湯屋には、あやかしのお客様が押し寄せるなんてことはなく、臙脂の暖簾はちっとも動かないのである。圭史郎さんが言うには、シーズンも大きく影響するらしいけれど。
今は閑散期なのかな。あやかしが温泉に入りたくなるのは、いつ頃なのか見当がつかない。
もうすぐ春休みも終わり、新年度からは高校も始まる。若女将と高校生の両立だから、頑張らないと!
「圭史郎さーん! いくらお客様がいなくて暇だからって、昼寝ばかりしないでくださいよ」
紺色の法被がソファからだらしなく垂れている。その袂がもぞりと動いたかと思うと、ひょいと小さな生き物がふたつ飛び出てきた。
「優香は働きすぎ。そうじき、うるさいね」
「うるさいね。圭史郎とお昼寝しよ」
ハムスターほどの大きさをした子鬼ふたりが顔を出す。女の子が茜で、男の子が蒼龍という名前だ。
彼らはあやかしであり、花湯屋の湯治客なのだけれど、あまりにも馴染んでいるのでまるでペット……ではなく家族のようである。
「お昼寝しません。色々とお仕事あるんですよ」
初めはあやかしに臆していた私も、子鬼たちとはすっかり打ち解けてしまった。
「優香の次のおしごとは、あたしたちと遊ぶことね」
「遊ぶことだね。だってオレたちお客様。いつもここにいるもんね」
自分たちはお客様なので相手をしてくれと言いたいらしい。
いつもはキャビネットの裏側やソファの下に隠れていたり、圭史郎さんの法被の中に入っていたりする子鬼たちだけれど、たまにこうして出てくるのだ。
「はいはい、わかりました。じゃあ遊覧に行きますか」
「わあい、いく」
「わあい、いく」
遊覧と名付けているが、湖で遊覧船にのるようなことではない。
私が掌を差し出すと、茜と蒼龍はぴょんとのってきた。両手でふたりを抱えながら廊下を渡り、従業員用の扉を開く。
表は人間とあやかしのお客様で暖簾の色が分けられているが、裏は繫がっている。
いくらあやかしのお客様が少ないといっても部屋はいくつもあるし、温泉浴場も広いので管理が必要だ。私だけではとても手が回らないから、女将である鶴子おばさんを始めとした花湯屋のみなさんに手を貸してもらっていた。
圭史郎さんがあてにならないからね。
事務室に顔を出すと、仲居のみずほさんが受話器を置きながらメモを記していた。
「お掃除、終わりました」
「お疲れさま、優香ちゃん。女将さんは松の間に行ってるよ」
みずほさんは明るいお姉さんのような若々しさに溢れた仲居さんだけれど、実年齢は秘密だそうだ。花湯屋に勤めている仲居さんの中で一番古参らしい。
一体いくつなんだろうと好奇心が湧くが、それは永遠の謎にしておこう。
「次は何をお手伝いしましょうか?」
「もう十分じゃない? どうせ圭史郎さんは優香ちゃんに全部任せて昼寝でしょ?」
そのとおりです。圭史郎さん、見抜かれてますよ。
お茶の準備を始めたみずほさんは、私が何かを持っているような不自然なポーズをしているので、興味深げに覗き込む。
「もしかして、それ……あやかしのお客様がいらっしゃるの?」
「そうなんです。子鬼のふたりが遊んでほしいそうなので、花湯屋を巡る遊覧に出てるところです」
子鬼ふたりは見えないところに引きこもっていることが多い。こうして宿の中を歩いて回るだけでも、ふたりにとっては大冒険らしいのだ。
「みずほだね」
「みずほは若作りだね」
遠慮のない子鬼の感想に、私は頬を引き攣らせる。
聞こえてなくてよかった。みずほさんに今の台詞を聞かれていたら、握り潰されちゃうかもしれないよ。
みずほさんにはあやかし使いの能力はないので、子鬼たちの姿も見えないし、声も聞こえていない。
「子鬼の茜ちゃんと蒼龍君でしょ? 圭史郎さんから聞いたことあるよ。掌サイズで可愛いんだよね~」
「見たことないのにね」
「見たことないのにね、ブス」
「……ええ、とても、可愛いんですよ……」
お願い、どうかみずほさんが突然あやかし使いの能力に目覚めませんように。
お茶を出してくれたみずほさんの厚意に甘えて、テーブルに子鬼たちを下ろした私は湯呑みを手にする。
子鬼たちは私や圭史郎さんには懐いているのだけれど、稀に会う他の人たちに対してはなぜか辛辣だ。
「茜ちゃんと蒼龍君。お姉さんの手にものってみてよ~」
笑顔で両手を差し出したみずほさん。
茜は鋭い眼光で睨みつけ、蒼龍は怯えたように私の袖に掴まる。
「いやだね、ブス」
「いやだね、デブ」
みずほさんはスレンダーな美人なので、その罵倒は事実とはかけ離れている。
「……あの、今日は気分が優れないようです……」
「そっかぁ、残念」
圭史郎さん以外の花湯屋の人々は、あやかしを見ることはできないけれど、その存在を知っているし、お客様として大切に思っている。
みずほさんは素敵なお姉さんなのに、子鬼たちが忌み嫌うのはどうしてなんだろう。そういえば鶴子おばさんにも絶対に近づこうとしない。
「優香ちゃん、山形には慣れた? 東京から来て突然旅館の仕事だから戸惑うことも多いんじゃない?」
「はい。びっくりしたことも色々あるんですけど、それよりも楽しいです。着物を着るのも憧れてたので、嬉しかったです」
花湯屋で若女将をしているときは小袖の着物を纏い、髪をお団子にまとめている。今はお掃除をしていたので、前掛けも着用していた。
「尾花沢は雪が多くて驚いたでしょ。もうそろそろ春だから暖かくなるね。でもストーブは五月の連休に入るまで手放せないんだけどさ」
「ゴールデンウィークまでですか⁉ 朝晩はすごく冷えますよね」
しばらくみずほさんと気候のことや宿の業務などについて、お茶を飲みながら話に花を咲かせる。子鬼たちはテーブルの上で鬼ごっこを繰り広げていた。本物の鬼ごっこだ。
そのとき、からりと扉が開いて料理人の遊佐さんが顔を出した。
「みずほさん、女将さんはまだか」
「ぎゃああああああああ‼」
途端に子鬼たちの悲鳴が響き渡る。
驚いた私は肩を跳ねさせた拍子に、椅子をがたんと鳴らしてしまった。
けれど遊佐さんは意に介さず、みずほさんも小首を傾げただけ。
悲鳴が聞こえたのは私ひとり。遊佐さんやみずほさんには、子鬼たちの悲鳴は聞こえなかったのだ。
「松の間に行ってますよ。呼んできましょうか」
「頼む。宴会の舟盛りのことで、ちょっと」
テーブルの上にいた子鬼たちは私の袂に逃げ込んだ。
遊佐さんは寡黙な料理人で、花湯屋の厨房を仕切っている。夜毎、膳を彩る料理は見事なもので、お客様の評判もいい。子鬼たちが恐れるような人ではないと思うのだけれど。
「じゃあ、ちょっと行ってくるね~」
ひらりと手を振ったみずほさんは宿の二階にある松の間へ小走りで駆けていった。遊佐さんも無言で扉を閉めて、厨房へと戻っていく。
「ねえ。茜も蒼龍も、どうしちゃったんですか?」
湯呑みを隅の流しで洗いながら、袂に隠れている子鬼ふたりに問いかける。
……が、返事はない。袂が微かに揺れているので、震えているみたいだ。
「そりゃそうだろ。あやかしは人間と仲がいいわけじゃないからな」
「圭史郎さん! おはようございます」
「ああ、いい昼寝だったよ」
寝癖の付いた髪を掻きながら事務室に入ってきた圭史郎さんは、私の袂を掴んで軽く揺する。
子鬼たちは素早く袂から出ると、今度は圭史郎さんの法被の襟元にもぐりこんだ。
「こわかったね、圭史郎」
「こわかったね、こわかったね」
「人間が恐いのはおまえらだろ」
あやかしは人間のごく近くにいるので共存しているのかと思ったけれど、子鬼たちが怖がったり避けたりしている様子を見れば、人間と打ち解けているというわけではないらしい。
「でも、圭史郎さんや私のことは怖がったりしないし、仲良くしてくれるじゃないですか」
「それは神使とあやかし使いの末裔だからだよ。あやかしは人間を嫌うし、人間はあやかしを厭うものなんだ。優香はあやかしがどうやって生まれるか、知ってるか?」
「……木の股から生まれるんですか?」
「それは悪魔。誰がボケろと言ったんだよ」
「ボケてません」
自分があやかし使いの末裔ということも花湯屋にやってきて初めて知ったのに、あやかしが生まれたわけなんて知るはずもない。
確か、花野家の先祖があやかしを取りまとめて温泉宿に招いたので、あやかし使いと呼ばれるようになったのだと圭史郎さんが語っていた。
花湯屋を継ぐはずだったおじいちゃんの孫である私は、そのあやかし使いの能力を受け継いでいるのだ。
とはいえ、あやかしが見えて話ができる以外で特別なことは今のところ何もない。
圭史郎さんは神妙な顔つきをして、私をまっすぐに見つめた。
「あやかしには二種類いる。ひとつは発生したときから、あやかしである者。そいつらは地獄からやってくる。もうひとつは、この世で怨念を抱えたまま死んで、あやかしとなる者。前者は人の手には負えないし、この辺りにはあまりいない。花湯屋を訪れるのは圧倒的に後者だ。子鬼たちもそれだ。あやかしは怨念から生まれるんだよ」
私は瞳を瞠る。こんなに可愛らしい子鬼たちが怨念から生まれるだなんて、俄には信じられない話だ。
「……怨念って、恨みとか、そういうことですか」
「そうだな。この世に未練を残したまま死んだ者が、復讐するためにあやかしになる」
怨念とか、未練とか復讐とか、仄暗い言葉が羅列される。
花湯屋を訪れるあやかしのお客様が、そういったものを抱えているなんて。
でも……果たして本当にそうだろうか。私は首を捻った。
「未練を残して復讐を考えているあやかしが、のんびり温泉に浸かってるって、そんなのなんだかしっくりこないじゃないですか?」
私はまだ子鬼たちしか知らないけれど、怨念を抱えた恐ろしいあやかしが、ゆるりと温泉で和んでいるところを想像すると……微笑ましい気がする。
「温泉で怨念も浄化されちゃいそうですよね」
「花湯屋の使命はそこにある。優香は当主になるはずだった男の孫だから、あやかし使いの末裔だけど、やることは一緒だ。あやかしを花湯屋に招いて、怨念を洗い流すということだな」
あやかし使いとは、怨念を持ったあやかしの心を変化させる役目を負っているようだ。恨みや復讐なんて考えてたら、精神衛生上よくないもんね。
でも、そう簡単にいくのだろうか。そもそも茜と蒼龍は復讐なんて考えてるようには見えない。いつでものんびり過ごしている。
圭史郎さんの襟元から、茜と蒼龍は顔を出した。ぴょんと飛んだ子鬼たちは私の肩に着地する。
「茜と蒼龍は、怨念なんて持ってないですよね? 圭史郎さんの言ったことは大げさですよね?」
茜は私の耳に手をついて、こてんと首を傾げる。
「温泉で怨念はなくなったね」
蒼龍は私の肩に座りながら、こてんと茜とは逆方向に首を傾げた。
「怨念で温泉はなくなったね」
「蒼龍、それ逆だね。温泉なくなったらたいへん」
「あっ……しっぱい、しっぱい。温泉怨念温泉怨念……」
「おまえら、温泉と怨念を言いたいだけだろ」
圭史郎さんが呆れながら指摘すると、子鬼たちは、あははと笑った。
「優香の言うとおりだね。圭史郎が大げさ」
「大げさだね。圭史郎は昼寝ばかりなのに言うことは壮大」
「おまえらな」
圭史郎さんが蒼龍を掴もうと手を伸ばすと、ひらりと華麗に身を翻して魔の手を避ける。今度は反対の肩にのっている茜を掴もうとするが、茜も素早く私の首根につかまって身を躱した。
ひらり、ひらり。
私を挟んだ鬼ごっこは続く。
圭史郎さんの手がぶつからないよう、私は硬直するけれど、ふいに圭史郎さんの指先が耳朶を掠めた。
「いたた」
「ああ、悪い。もうやめだ」
圭史郎さんは手を引く。逃げ切った茜と蒼龍は得意げに胸を反らした。私の肩の上で。
ほっとした私は頬を緩める。よかった。茜と蒼龍は温泉に浸かったことによって、抱えていた怨念は消えたんだ。そもそも怨念だなんて、圭史郎さんは大げさなんだから。
「そういえば、あやかしの客が来たぞ。だから呼びに来たんだ」
圭史郎さんは重大なことを、さらりと告げる。私は目を瞠った。
「えっ? お客様⁉ どうしてそんな大事なことを後回しにするんですか!」
子鬼たちを除けば、私が花湯屋を訪れて初めてのお客様だ。
ついにあやかしのお客様が訪れたのだ。それなのに私としたことがお出迎えできなかっただなんて、若女将失格かもしれない。
慌てふためいている私を面白そうに眺めていた圭史郎さんは、笑いながら踵を返した。
「もう風呂に入ってるぞ。俺が案内しておいた」
「あっ、そうなんですか。ありがとうございます。……じゃなくて! 今度からは真っ先にお客様がいらっしゃったことを教えてくださいね!」
「わかったよ。ほら、いくぞ」
絶対わかってないよね。
そのとき軽い足音が聞こえて、みずほさんと鶴子おばさんが姿を現す。私たちはあやかしのお客様が訪れたことを伝えて、裏の花湯屋のほうへ向かった。
「おかえりなさいませ!」
私は極上の笑顔で散歩から宿に帰ってきたお客様をお迎えした。
閑古鳥が鳴いていた花湯屋の臙脂の暖簾の向こう側だったけれど、ついに子鬼たち以外のお客様が訪れたのである。
彼が花湯屋を訪れて三日経つ。毎日散歩に出かけるお客様の帰りを、私は出迎えていた。
「ただいま、若女将さん」
その名は、コロさん。
二足歩行のしっかりとした歩み。もふもふで艶々の茶色の毛並み。ぴんと立ったふたつの耳に、くるりと丸まった尻尾。
「コロさん、今日もお散歩ですか。天気がよくて気持ちのいい日でしたね」
「うん。そうだったね。お風呂いただこうかな」
「はい! 大浴場の準備はできていますよ」
「ありがとう」
朗らかにお話ししてから、コロさんはいつものように大浴場へ向かう。
……犬だ。
どこからどう見ても、柴犬だ。
外見は柴犬にしか見えないコロさんも、二足歩行で喋れるので、やはりあやかしである。
あやかしというと棍棒を持った一つ目の鬼とか、花魁のような着物を纏う大蛇とか、そういうものを想像していたから、なんだか拍子抜けしてしまった。
コロさんのあとを追い、大浴場の脱衣場へ足を踏み入れる。
犬の毛皮を脱いで籠に入れている……なんてことはなく、私は胸を撫で下ろす。浴場へ続く引き戸を開けてみると、コロさんは気持ち良さげな顔で檜造りの湯船に浸かっていた。
「ふう。ごくらく、ごくらく」
「コロさん、お湯加減はいかがですか?」
「ちょうどいいよ、若女将さん」
銀山温泉の泉質はナトリウム――塩化物・硫酸塩温泉である。効能は動脈硬化症・神経痛・疲労回復・健康増進などなど。
加えて、あやかしのお客様には長寿の効能と、それぞれの症状に効く泉質があるのだとか。
怨念を洗い流すという主な目的の他にも様々な効能があるようだ。
とはいえ、可愛らしくて朗らかなコロさんが、怨念を抱えているようには到底見えないのだけれど。
ざぶり、と肩まで湯に浸かるコロさんは小さく呟いた。
「思い出すなぁ……。あのとき、一緒にお風呂に入った……」
「え。何か言いました?」
「ううん! なんでもないよ、若女将さん」
「そうですか? それでは、どうぞごゆっくり」
湯気の向こうにコロさんの、ふたつの耳が見えた。私は静かに戸を閉め、大浴場をあとにする。
「あんなに可愛いお客様なら大歓迎だよね」
「コロはまだ若いあやかしだな」
「ひゃっ! 圭史郎さん!」
厨房に籠もっていた圭史郎さんが、いつのまにか背後に来ていた。
実はあやかしのお客様の食事は、圭史郎さんが調理を行っている。昼寝してるだけじゃなかった。
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