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五条子爵の陰謀 1

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 次の仕事である大滝男爵家でのレッスンは、いつもとは違う様相を呈していた。
 挨拶をして壮麗な玄関をくぐり、ピアノの置かれている応接室へ入ると、見知った男が我が物顔で紅茶を嗜んでいたのだ。

「公成じゃないか。ここで何をしているんだ」

 隣には六歳になる大滝男爵の子息が腰掛けて、公成と安珠の顔を交互に見上げている。

「甥っ子のピアノ講師が安珠という、たいそう美しい先生だと聞いてね。これは会いに行かなければと思った次第だよ」

 相変わらず、さらりと褒め上げる男だ。どうやら大滝男爵家とは親戚だったらしい。
 五条公成は誕生日パーティーの一件など、なかったかのように清々しい笑みで安珠を見遣る。本物の恋多き男は幾多の修羅場を経験しているであろうから、禍根など残さないのが礼儀なのかもしれない。安珠としても蒸し返したくないので丁度良い。

「今日は叔父さんが見学だね。緊張しなくても大丈夫だよ。ではレッスンを始めようか」

 生徒に微笑みかけてレッスンを開始する。孤児院で披露したのと同じ曲を、生徒は小さな手で楽しそうに奏でた。その無邪気な姿は孤児院の子どもたちと、少しも変わりがなかった。
 レッスンを終えて大滝男爵家を辞すると、それまで見守っていた公成は当然ごとく安珠の手を取る。

「お疲れさま、安珠。さあ、行こうか」
「どこへ?」
「我が子爵家へ案内させてくれ。実は私もピアノを習いたいと思っていてね。ぜひ安珠の手ほどきを受けたいな」
「公成は初心者じゃないだろう。確かソナチネじゃなかったか」

 慇懃に車のドアを開ける五条家の運転手の前で足を止めると、公成はやんわりと握りしめた安珠の手を胸に宛てた。

「他家の庭先で立ち話をするのも無礼だから、まずは車に乗ってくれ。もちろん帰りは屋敷まで送り届けるよ」

 屋敷と言われて、出がけの鴇との会話を思い出す。
 何か大事な話があるようだった。おそらくは結婚のことだろうが、安珠にとっては耳を塞ぎたい内容だ。
 できるだけ帰宅を先延ばしにしたいという思いが働き、安珠は素直に乗車する。
 五条子爵家の三男坊である公成は、自分名義の邸宅を所有している。当主を継ぐ必要もないので悠々自適に暮らし、数々の男や女を連れ込んでいるという噂だ。以前は真偽のほどが分からず興味もなかったが、安珠の華の和音のように全くの偽りではないと今なら察せられた。公成の発する耳心地の良い声音、優しげな眼差しの奥に潜む獰猛な気配、さりげなく安珠に触れる体温は計画的なものだ。単なる憧憬とは全く異なっている。これが色目を使うという意味なのだ。
 鴇に数多の夜を抱かれて経験を積んだので、見透かせるようになったのだろう。

「襲爵のことは残念だったね。公爵の座を庶子に奪われるなんて、何という不幸なのだろう。宮家の血筋を継ぐ尊い身分の安珠が、卑しい庶子に見下されるなんてあってはならないことだ」

 公成は実に華族らしい見解で、安珠に対する配慮を述べる。気遣ってくれるのだろうが、飾り立てた言葉は逆に白けた。

「べつに不幸でもない。お父さまの決めたことだから今は納得している。それに鴇は見下したりしないよ」
「ほほう。では見上げられるほうなのか」
「見上げる……?」

 そういえば父は身分を重んじるわりに愛情と身分の高さは比例せず、カヨを唯一愛していたなどと臨終に吐露していた。
 愛情は心で判断するものなので社会的に決められた身分と合致しないのだ。それだけ身分とは、人の心の流れを汲んでいないといえる。
 その矛盾に答えるように、公成は鷹揚に語る。

「公爵に就任したからといって生まれを覆せるわけではないからね。安珠が尊い身分であることに何ら変わりはないから、見上げるべき憧れの珠玉というわけだ。無論、私もそのひとりだけどね」

 爵位なんて、浅薄なものだ。
 そのことに改めて気づかされる。現に鴇は公爵になっても贅沢をしているわけではなく、人が使う金の工面に奔走させられている。鴇が叶えた願望といえば、安珠を抱いたことくらいだ。

「そうか……そんなに憧れていたのかな」

 傍にいれば腹立たしいのに、離れているとどうしてか鴇の顔を思い浮かべてしまう。
 公成は神妙な様子の安珠に眉をひそめた。

「あの鴇という庶子が、誕生日パーティーのときに楽しい時間を邪魔した使用人なのだろう?」
「ああ、そうだな」
「なるほど。恋敵というわけか。気づかなかったとは私も迂闊だった」

 すぐに話を恋愛に結びつけてしまうので、公成は繊細な顔立ちをしているとおり、色恋にしか興味がないようだ。恋敵だなどと勝手に敵を作っているので訂正する必要性も感じない。それが公成の恋愛遊戯を盛り上げる要素のひとつなのだろう。
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