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矜持 2
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いつもながら回りくどい。鴇から感じる鬱陶しさは、父が存命だった頃に似ている。ふたりの覚束ない関係は以前に戻ったようだった。
否、これが正しい距離なのだ。
公爵家の嫡子と、庶子を装い公爵になった下男が仲良くできるはずもない。いがみ合って然るべきだ。蜜月のように過ごした期間が偽りだったというだけだ。
鴇のことなんか、好きになるわけない。抱かれたいなんて微塵も思っていない。あれは愛を取り違えただけのことだ。
固く胸に言い聞かせて不毛な言い合いを閉ざす。
「支度する。男の匂いをさせたまま生徒に会うわけにはいかないからな」
生徒への悪影響を匂わせれば、鴇は身を引いた。だが部屋を出ようとする間際、扉に手を付かれて囲われてしまう。
「仕事から帰ったら、今日こそはきちんと話をさせていただきます。とても大事な話です。逃げないで俺の話を聞くと約束してください」
まるで安珠が逃げ回っているかのような言い分だ。まともに話を聞く気もないが、仕事の時間が迫っているので仕方なく頷く。
「分かったから退いてくれ」
「必ずですよ。帰りが遅いときは迎えに行きます」
「くどい」
振り切って自室に戻り、鏡を覗いて男の痕跡が付いていないか確認する。オーデコロンを首筋にひと吹きして雄の匂いを紛らわせた。
大事な話とは、何だろう。
支援金を打ち切るという類いでないとすれば、結婚のことだろうか。
鴇の元には華族や豪商から多くの縁談が持ち込まれていることを知っている。たとえ元は下男の庶子だろうが、今は公爵閣下だ。先代の公爵夫人は宮様だが、鴇の元の地位が低いので釣り合いが取れるのではないかと目論む家の父親が着飾った娘を連れて屋敷を訪れる。財力のある家を選んで婚姻を結べば金を融通してもらえるだろうし、性欲を処理する相手もできるから鴇にとっては好都合だろう。
安珠を抱いていない分、鴇が欲求不満に陥っていることは想像に易い。
彼は一方的に口淫されるだけでは満足できない性分らしく、相手との触れ合いを求める。安珠に愛想を尽かされて他の者に走るのは時間の問題に思えた。
鴇が他の男や女を抱くかもしれないと考えただけで、胸を衝かれる思いがする。
澪のことで喧嘩をしたときも激しく取り乱してしまったのに、結婚相手など紹介されたら理性を保てる自信がなかった。
「関係ない、あんなやつ。気にするな」
鏡の中の己を叱咤して、クラヴァットを整える。深呼吸してから鞄を持ち、玄関の車寄せへ向かった。運転手に大滝男爵家ではなく、とある場所を指示する。
着いた先は、鳴海神父の運営する孤児院だった。本日は孤児院の子どもたちに音楽鑑賞をしてもらおうというボランティアを請け負っている。鴇には無論秘密だが、大滝男爵家でのレッスンは午後からなので嘘ではない。
運転手に屋敷へ戻って良い旨を伝えて降車する。孤児院の扉をくぐると、笑顔の鳴海神父が出迎えてくれた。神父の後ろから子どもたちが次々に顔を出す。
「お待ちしておりました、椿小路さん。子どもたちも楽しみに待っていましたよ」
「こんにちは、神父さま。みんな、こんにちは」
子どもたちは口々に安珠先生が来たと伝聞している。鴇の過去を訊ねるために鳴海神父の元を訪れてから、自分にも何かできないかと思い、演奏のボランティアを申し出た。週に一度、孤児院を訪れては子どもたちにピアノ演奏を聴かせている。
室内に入ると早速子どもたちは安珠に纏わりつきながらピアノの前へ促す。年長の子は大人しく椅子に座っているが、五歳くらいまでは中々じっとしていられないものだ。
軽快なテンポで踊り出すような曲を弾けば、遊戯室には子どもたちの笑顔が煌めいた。
これまで安珠がピアノを弾き続けてきたのは己の技巧を磨くためであり、つまりは自分のためだった。
けれど子どもたちの前で弾いていると、誰かのため役に立ちたいという思いが胸の裡から湧いてくる。子どもたちにむけられる無垢な眸。一切の穢れのない憧憬。安珠が子どもの頃も、このような思いを抱いていた。
将来はピアノの先生になりたいと、いつか馬車の中で史子と母に告げたことを思い出す。あれは廣人に出会った日のことだ。何も知らない純粋だった子ども時代、自分の心に真っ直ぐでいられた。大人になればこんなにも苦悩を抱え、ねじ曲げられてしまうだなんて知らずに。
だから大人になった今はせめて子どもたちに恥じぬよう、憧れのピアノの先生で居続けようと思う。
季節の童謡や定番の唱歌など、幾つもの演奏を子どもたちと歌いながら織り成していく。
終わりの時間が訪れ、最後の和音を刻むと、小さな手から紡がれる拍手が湧き起こった。
「僕も大人になったら、安珠先生みたいなピアノ弾く人になる!」
ひとりの男の子に告げられて、安珠は子どもの頃に夢見た職業に到達したのだという感慨に包まれた。
「ありがとう……。きっと、なれるよ」
鳴海神父と子どもたちに見送られ、安珠はまた来週も来ることを約束して孤児院を去った。
否、これが正しい距離なのだ。
公爵家の嫡子と、庶子を装い公爵になった下男が仲良くできるはずもない。いがみ合って然るべきだ。蜜月のように過ごした期間が偽りだったというだけだ。
鴇のことなんか、好きになるわけない。抱かれたいなんて微塵も思っていない。あれは愛を取り違えただけのことだ。
固く胸に言い聞かせて不毛な言い合いを閉ざす。
「支度する。男の匂いをさせたまま生徒に会うわけにはいかないからな」
生徒への悪影響を匂わせれば、鴇は身を引いた。だが部屋を出ようとする間際、扉に手を付かれて囲われてしまう。
「仕事から帰ったら、今日こそはきちんと話をさせていただきます。とても大事な話です。逃げないで俺の話を聞くと約束してください」
まるで安珠が逃げ回っているかのような言い分だ。まともに話を聞く気もないが、仕事の時間が迫っているので仕方なく頷く。
「分かったから退いてくれ」
「必ずですよ。帰りが遅いときは迎えに行きます」
「くどい」
振り切って自室に戻り、鏡を覗いて男の痕跡が付いていないか確認する。オーデコロンを首筋にひと吹きして雄の匂いを紛らわせた。
大事な話とは、何だろう。
支援金を打ち切るという類いでないとすれば、結婚のことだろうか。
鴇の元には華族や豪商から多くの縁談が持ち込まれていることを知っている。たとえ元は下男の庶子だろうが、今は公爵閣下だ。先代の公爵夫人は宮様だが、鴇の元の地位が低いので釣り合いが取れるのではないかと目論む家の父親が着飾った娘を連れて屋敷を訪れる。財力のある家を選んで婚姻を結べば金を融通してもらえるだろうし、性欲を処理する相手もできるから鴇にとっては好都合だろう。
安珠を抱いていない分、鴇が欲求不満に陥っていることは想像に易い。
彼は一方的に口淫されるだけでは満足できない性分らしく、相手との触れ合いを求める。安珠に愛想を尽かされて他の者に走るのは時間の問題に思えた。
鴇が他の男や女を抱くかもしれないと考えただけで、胸を衝かれる思いがする。
澪のことで喧嘩をしたときも激しく取り乱してしまったのに、結婚相手など紹介されたら理性を保てる自信がなかった。
「関係ない、あんなやつ。気にするな」
鏡の中の己を叱咤して、クラヴァットを整える。深呼吸してから鞄を持ち、玄関の車寄せへ向かった。運転手に大滝男爵家ではなく、とある場所を指示する。
着いた先は、鳴海神父の運営する孤児院だった。本日は孤児院の子どもたちに音楽鑑賞をしてもらおうというボランティアを請け負っている。鴇には無論秘密だが、大滝男爵家でのレッスンは午後からなので嘘ではない。
運転手に屋敷へ戻って良い旨を伝えて降車する。孤児院の扉をくぐると、笑顔の鳴海神父が出迎えてくれた。神父の後ろから子どもたちが次々に顔を出す。
「お待ちしておりました、椿小路さん。子どもたちも楽しみに待っていましたよ」
「こんにちは、神父さま。みんな、こんにちは」
子どもたちは口々に安珠先生が来たと伝聞している。鴇の過去を訊ねるために鳴海神父の元を訪れてから、自分にも何かできないかと思い、演奏のボランティアを申し出た。週に一度、孤児院を訪れては子どもたちにピアノ演奏を聴かせている。
室内に入ると早速子どもたちは安珠に纏わりつきながらピアノの前へ促す。年長の子は大人しく椅子に座っているが、五歳くらいまでは中々じっとしていられないものだ。
軽快なテンポで踊り出すような曲を弾けば、遊戯室には子どもたちの笑顔が煌めいた。
これまで安珠がピアノを弾き続けてきたのは己の技巧を磨くためであり、つまりは自分のためだった。
けれど子どもたちの前で弾いていると、誰かのため役に立ちたいという思いが胸の裡から湧いてくる。子どもたちにむけられる無垢な眸。一切の穢れのない憧憬。安珠が子どもの頃も、このような思いを抱いていた。
将来はピアノの先生になりたいと、いつか馬車の中で史子と母に告げたことを思い出す。あれは廣人に出会った日のことだ。何も知らない純粋だった子ども時代、自分の心に真っ直ぐでいられた。大人になればこんなにも苦悩を抱え、ねじ曲げられてしまうだなんて知らずに。
だから大人になった今はせめて子どもたちに恥じぬよう、憧れのピアノの先生で居続けようと思う。
季節の童謡や定番の唱歌など、幾つもの演奏を子どもたちと歌いながら織り成していく。
終わりの時間が訪れ、最後の和音を刻むと、小さな手から紡がれる拍手が湧き起こった。
「僕も大人になったら、安珠先生みたいなピアノ弾く人になる!」
ひとりの男の子に告げられて、安珠は子どもの頃に夢見た職業に到達したのだという感慨に包まれた。
「ありがとう……。きっと、なれるよ」
鳴海神父と子どもたちに見送られ、安珠はまた来週も来ることを約束して孤児院を去った。
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