100 / 112
鴇の正体 1
しおりを挟む
「縦の線が入っていないのは四分の四拍子だ。インペルフェクティオという。これは二分の二拍子で、アッラ・ブレーヴェ。二分音符を一拍として、一小節に二拍数える。……懐中時計にこの記号が刻まれていただろう」
「ああ、そうでしたね」
「四分音符だから一小節内に音が四つ入る。二分音符ならふたつ。お父さまはこれを指して、ふたりは一緒という意味を託したようだが……もしかして草競馬を弾いているときだったのか?」
二分の二拍子は行進曲に多い。ソナタを弾きこなす父がバイエルの曲を弾いていたとは思えないが、まさか父はカヨにピアノの手ほどきをしていたのだろうか。
今ならカヨを唯一愛した女だと主張した父の気持ちを安珠は理解できた。
居心地が良いのだ。宮様の母は妻として申し分のない女性なのだが、溢れる気高さゆえ長い時間を過ごすと息が詰まる気がする。その点、身分の低いカヨは大らかで細かいことを気にしない性格だったのだろう。失敗して記号が歪んでしまってもカヨは笑って許してくれたと、父は感動していた。
鴇も、華の和音が偽りだという真実を聞いても些かも嫌な顔をせずに許してくれた。あれから鴇に対する感情が変化したのだと振り返る。
鴇はしばらく沈黙していた。目線は楽譜に注がれている。
「分かりません。母は何も言っていなかったので」
「何も? でも、お父さまのことはよく話していたんだよな。いつも敬愛していたと、お父さまの前で言ったじゃないか」
最後に安珠を拒絶した父へ恨みにも似た感情を抱いたこともあったが、鴇への情愛はカヨに対する父の想いと同じなのだと捉え、許容できるようになった。
愛する人から死の間際に、敬愛していたと言ってもらえるのは至上の悦びだろう。
ただ、父はカヨ本人の口から聞いたわけではないが。
「ああ……そうでした」
鴇はそれ以上語る気がないのか、口を噤んでいる。
彼の冷めた様子が気になった。
まただ。リサイタルの夜のように、またふたりの間には温度差がある。
赤子だった鴇とカヨは当時、金も与えられず祖母に屋敷を追い出されたという。カヨは跡取りの証である懐中時計を息子に握らせて、あなたは公爵家を継ぐ資格があるのだと切々と説いていたことが想像できる。
だが当の鴇からは、懐中時計を通しての己の立場に執着は見られない。
金無垢の懐中時計は父の位牌の前に飾られているが、鴇がそれを握りしめたり、邂逅に浸っているような様子は見たことがなかった。それどころか、記号の正式名称がアッラ・ブレーヴェだということも知らなかったようだ。
彼が執着を持たない大雑把な性格というなら納得できるが、安珠に対する異常な執着心を鑑みれば、拘りがあって然るべきだろう。安珠の体にある黒子の数を夜通し数えている男が、自分の将来を左右する懐中時計の記号には興味を持たなかったなんて考えにくい。
「ここは付点ですよね?」
「……あ、ああ。そう。スタッカートと似ているけど、意味は全く違うから」
リサイタルの夜に会った神父は、鴇を見て『廣人』と問いかけた。単なる人違いかもしれない。安珠が子どもの頃に会ったヒロトと神父の知人である廣人は、偶然同じ名前だったのかもしれない。
けれど何かが引っかかる。まるで抜けない破片が喉元に刺さっているようだ。
神父は鴇の名を聞いて驚いていた。彼は『廣人』と『鴇』という、ふたつの名を予め知っている。両者に何らかの結びつきがあるというのか。
母親のことや懐中時計を含めた過去に触れたがらない鴇。どこか信用ならない男だと以前は思っていた。愛情を受けたことにより忘れていた疑念が、再び心の奥で悩ましく頭を擡げる。
おまえはヒロトなのか。もしそうならば、どうして名を変えていたんだ。なぜ僕に、約束どおり会いに来たと言ってくれない。
安珠は切ない胸の裡を抱えて鴇を見た。すぐさま微笑みと軽い接吻が降ってくる。
信じたい。ぜんぶ、話してほしい。僕に言えない過去でもあるのだろうか。澪のことは率直に謝ってくれたのに。
鴇が、好きだ。
だから、ぜんぶ知りたい。彼のすべてを、受け止めたいから。
安珠は密かに決意を固めた。
数日後、安珠は運転手に言いつけて慌ただしく車に乗り込んだ。
鴇は物件の交渉に赴くため晃久と遠出すると言い、早朝屋敷を出ている。帰宅するのは深夜になるだろう。
リサイタルの夜に会った神父を捜し出し、彼に詳細を訊ねたいと考えていた。
ふたつの懐中時計と、ヒロトと鴇。それらは複雑な糸で絡み合っている。
まずは劇場へ赴いて、併設されたカフェの店員に訊ねる。本日は公演がないので閑散としていたが、神父のことを訊ねると店員はすぐに教えてくれた。
「ああ、そうでしたね」
「四分音符だから一小節内に音が四つ入る。二分音符ならふたつ。お父さまはこれを指して、ふたりは一緒という意味を託したようだが……もしかして草競馬を弾いているときだったのか?」
二分の二拍子は行進曲に多い。ソナタを弾きこなす父がバイエルの曲を弾いていたとは思えないが、まさか父はカヨにピアノの手ほどきをしていたのだろうか。
今ならカヨを唯一愛した女だと主張した父の気持ちを安珠は理解できた。
居心地が良いのだ。宮様の母は妻として申し分のない女性なのだが、溢れる気高さゆえ長い時間を過ごすと息が詰まる気がする。その点、身分の低いカヨは大らかで細かいことを気にしない性格だったのだろう。失敗して記号が歪んでしまってもカヨは笑って許してくれたと、父は感動していた。
鴇も、華の和音が偽りだという真実を聞いても些かも嫌な顔をせずに許してくれた。あれから鴇に対する感情が変化したのだと振り返る。
鴇はしばらく沈黙していた。目線は楽譜に注がれている。
「分かりません。母は何も言っていなかったので」
「何も? でも、お父さまのことはよく話していたんだよな。いつも敬愛していたと、お父さまの前で言ったじゃないか」
最後に安珠を拒絶した父へ恨みにも似た感情を抱いたこともあったが、鴇への情愛はカヨに対する父の想いと同じなのだと捉え、許容できるようになった。
愛する人から死の間際に、敬愛していたと言ってもらえるのは至上の悦びだろう。
ただ、父はカヨ本人の口から聞いたわけではないが。
「ああ……そうでした」
鴇はそれ以上語る気がないのか、口を噤んでいる。
彼の冷めた様子が気になった。
まただ。リサイタルの夜のように、またふたりの間には温度差がある。
赤子だった鴇とカヨは当時、金も与えられず祖母に屋敷を追い出されたという。カヨは跡取りの証である懐中時計を息子に握らせて、あなたは公爵家を継ぐ資格があるのだと切々と説いていたことが想像できる。
だが当の鴇からは、懐中時計を通しての己の立場に執着は見られない。
金無垢の懐中時計は父の位牌の前に飾られているが、鴇がそれを握りしめたり、邂逅に浸っているような様子は見たことがなかった。それどころか、記号の正式名称がアッラ・ブレーヴェだということも知らなかったようだ。
彼が執着を持たない大雑把な性格というなら納得できるが、安珠に対する異常な執着心を鑑みれば、拘りがあって然るべきだろう。安珠の体にある黒子の数を夜通し数えている男が、自分の将来を左右する懐中時計の記号には興味を持たなかったなんて考えにくい。
「ここは付点ですよね?」
「……あ、ああ。そう。スタッカートと似ているけど、意味は全く違うから」
リサイタルの夜に会った神父は、鴇を見て『廣人』と問いかけた。単なる人違いかもしれない。安珠が子どもの頃に会ったヒロトと神父の知人である廣人は、偶然同じ名前だったのかもしれない。
けれど何かが引っかかる。まるで抜けない破片が喉元に刺さっているようだ。
神父は鴇の名を聞いて驚いていた。彼は『廣人』と『鴇』という、ふたつの名を予め知っている。両者に何らかの結びつきがあるというのか。
母親のことや懐中時計を含めた過去に触れたがらない鴇。どこか信用ならない男だと以前は思っていた。愛情を受けたことにより忘れていた疑念が、再び心の奥で悩ましく頭を擡げる。
おまえはヒロトなのか。もしそうならば、どうして名を変えていたんだ。なぜ僕に、約束どおり会いに来たと言ってくれない。
安珠は切ない胸の裡を抱えて鴇を見た。すぐさま微笑みと軽い接吻が降ってくる。
信じたい。ぜんぶ、話してほしい。僕に言えない過去でもあるのだろうか。澪のことは率直に謝ってくれたのに。
鴇が、好きだ。
だから、ぜんぶ知りたい。彼のすべてを、受け止めたいから。
安珠は密かに決意を固めた。
数日後、安珠は運転手に言いつけて慌ただしく車に乗り込んだ。
鴇は物件の交渉に赴くため晃久と遠出すると言い、早朝屋敷を出ている。帰宅するのは深夜になるだろう。
リサイタルの夜に会った神父を捜し出し、彼に詳細を訊ねたいと考えていた。
ふたつの懐中時計と、ヒロトと鴇。それらは複雑な糸で絡み合っている。
まずは劇場へ赴いて、併設されたカフェの店員に訊ねる。本日は公演がないので閑散としていたが、神父のことを訊ねると店員はすぐに教えてくれた。
0
お気に入りに追加
1,131
あなたにおすすめの小説
天の求婚
紅林
BL
太平天帝国では5年ほど前から第一天子と第二天子によって帝位継承争いが勃発していた。
主人公、新田大貴子爵は第二天子派として広く活動していた亡き父の跡を継いで一年前に子爵家を継いだ。しかし、フィラデルフィア合衆国との講和条約を取り付けた第一天子の功績が認められ次期帝位継承者は第一天子となり、派閥争いに負けた第二天子派は継承順位を下げられ、それに付き従った者の中には爵位剥奪のうえ、帝都江流波から追放された華族もいた
そして大貴もその例に漏れず、邸宅にて謹慎を申し付けられ現在は華族用の豪華な護送車で大天族の居城へと向かっていた
即位したての政権が安定していない君主と没落寸前の血筋だけは立派な純血華族の複雑な結婚事情を描いた物語
【完結】幼馴染から離れたい。
June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。
βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。
番外編 伊賀崎朔視点もあります。
(12月:改正版)
読んでくださった読者の皆様、たくさんの❤️ありがとうございます😭
婚約者に会いに行ったらば
龍の御寮さん
BL
王都で暮らす婚約者レオンのもとへと会いに行ったミシェル。
そこで見たのは、レオンをお父さんと呼ぶ子供と仲良さそうに並ぶ女性の姿。
ショックでその場を逃げ出したミシェルは――
何とか弁解しようするレオンとなぜか記憶を失ったミシェル。
そこには何やら事件も絡んできて?
傷つけられたミシェルが幸せになるまでのお話です。
初心者オメガは執着アルファの腕のなか
深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。
オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。
オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。
穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。
Ωの不幸は蜜の味
grotta
BL
俺はΩだけどαとつがいになることが出来ない。うなじに火傷を負ってフェロモン受容機能が損なわれたから噛まれてもつがいになれないのだ――。
Ωの川西望はこれまで不幸な恋ばかりしてきた。
そんな自分でも良いと言ってくれた相手と結婚することになるも、直前で婚約は破棄される。
何もかも諦めかけた時、望に同居を持ちかけてきたのはマンションのオーナーである北条雪哉だった。
6千文字程度のショートショート。
思いついてダダっと書いたので設定ゆるいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる