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疑惑のリサイタル 5
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「いいえ。人違いです」
「しかし、お顔立ちがよく似ていらっしゃる。それに声も。心配していたのですよ。何か事情があるなら……」
「存じません。行きましょう、安珠」
「おい、鴇。神父さまは何か話があるんじゃないのか」
安珠の腰を抱いた鴇は足早に去ろうとする。神父は驚きに目を見開いた。
「鴇? あなたの名は、鴇と仰るのですか? まさか……」
鴇に無理やり連れられて、車寄せへ辿り着く。安珠が振り返ったときにはもう、神父の姿は見えなかった。
待機していた車に乗り込めば、車は屋敷へ向かって夜の帳が降りた街路を走り出す。ガス灯が織り成す光と影の交差を見つめながら、安珠は小さな溜息を吐いた。
今日は折角のデートだったのに、あまり鴇に喜んでもらえなかった。
それどころか喧嘩をして、最後まで鴇に不快な思いをさせてしまった。こんなつもりじゃなかったのに。
沈鬱な気持ちで車窓を眺めていると、ふいに男の体が寄せられた。耳元に呼気が吹き込まれる。
「今日は、嬉しかったです」
「……え? そんなふうに見えなかったぞ」
「泣くほど嫉妬してくれて、嬉しかった」
「……そこか。泣いてなんかいない」
熱い唇が耳朶をなぞっていく。快楽に慣らされた体はそれだけでもうぞくりと疼き、鼓動は期待に昂ぶった。
「帰ったら仲直りのセックスをしましょう。今夜は寝かせませんので、そのつもりでいてください」
驚いた安珠が視線をむければ、鴇の眸は愛しいものを見るように優しく眇められていた。
俺だけの安珠、と言ってくれて嬉しかった。人前でも憚らずに安珠への想いを告げてくれた。鴇への特別な感情が胸の裡から溢れようとしている。
でも、それは口にはできなくて。
安珠の手が縋りつくようにフロックコートの襟元に寄せられると、華奢な体はすっぽりと逞しい腕の中に包まれた。
流麗なピアノの音色が室内を優しく彩る。
リサイタル鑑賞の夜は鴇と喧嘩をしたが、それを払拭するほど体を蕩かされて濃密に求め合った。
無垢だった安珠は快楽を知り、嫉妬という感情を覚え、更に色香を纏わせて鴇の色に染め上げられていく。肌は真珠のごとく光り輝き、琥珀の眸は薄らと濡れて艶めく。甘い恋愛の味を堪能するほどに、安珠はいっそう美しさを増した。
鴇は契約を振りかざして安珠を性欲の捌け口にしているのではない。彼はまるで恋人のように安珠を気遣い、大切に扱ってくれる。鴇の独占欲には悩まされるが、それも想われている証だと前向きに捉えて心が浮き立ってしまう。
父が存命だった頃は側近の鴇を疎ましく思っていたものだが、あれは彼のことをよく知らなかったせいだ。鴇はいつでも安珠を愛しげに見つめていて、ふとしたときに視線を合わせては唇を寄せる。
愛されている。
その確信が安珠の心に芽生えていた。それはくすぐったくて、幸福な芽吹きだった。
安珠はうっとりと眸を閉じて、鴇の奏でる音色に身を委ねた。
「ん、そこ。メゾピアノだからもっと優しく」
「このくらいですか?」
鴇のピアノの腕前は瞬く間に向上した。元々指先が器用な上に呑み込みも早い。リサイタルでアレクセイに握手してもらった効果があったようだ。それを言えばまた嫉妬されてしまうので口にしないけれど。
ふと口端に温かなものが触れたので、驚いて眸を開く。鴇は曲を奏でながら、隣に座る安珠に口づけていた。
「こら。暗譜できるからって、そんなことするんじゃない」
咎める声は完全に躍っている。鴇にピアノを教える時間が、何よりも楽しいひとときだ。
「目を閉じているのはキスしてほしいという、おねだりかなと思って」
「鴇はいつも僕のせいにするんだから。ふふ、くすぐったい」
「じゃあ今日は俺のせいでいいですから。そんなに可愛い声を聞いたら我慢できない」
このままベッドに連れ込まれて抱かれてしまうのがいつもの流れだが、今日はレッスンの状況を鑑みて指導を続けることにする。不埒な生徒を押し返したつもりが、まるで鴇に抱きつくような体勢で安珠は教本を捲った。
「この曲は合格だ。では次の曲にいこう。草競馬だな。この記号は何か分かるか?」
ト音記号の隣に記載された拍子記号を指し示す。竪琴のような形のそれは、父がカヨに託した懐中時計に刻まれていた二分の二拍子だ。
鴇は軽く首を捻った。
「何でしたっけ。今までのは縦線が入っていませんでしたよね」
まるで初めて見たかのような反応の薄さに、安珠はひとつ瞬きをした。鴇なら知っていて当然だろうと思っていたのだが。
「しかし、お顔立ちがよく似ていらっしゃる。それに声も。心配していたのですよ。何か事情があるなら……」
「存じません。行きましょう、安珠」
「おい、鴇。神父さまは何か話があるんじゃないのか」
安珠の腰を抱いた鴇は足早に去ろうとする。神父は驚きに目を見開いた。
「鴇? あなたの名は、鴇と仰るのですか? まさか……」
鴇に無理やり連れられて、車寄せへ辿り着く。安珠が振り返ったときにはもう、神父の姿は見えなかった。
待機していた車に乗り込めば、車は屋敷へ向かって夜の帳が降りた街路を走り出す。ガス灯が織り成す光と影の交差を見つめながら、安珠は小さな溜息を吐いた。
今日は折角のデートだったのに、あまり鴇に喜んでもらえなかった。
それどころか喧嘩をして、最後まで鴇に不快な思いをさせてしまった。こんなつもりじゃなかったのに。
沈鬱な気持ちで車窓を眺めていると、ふいに男の体が寄せられた。耳元に呼気が吹き込まれる。
「今日は、嬉しかったです」
「……え? そんなふうに見えなかったぞ」
「泣くほど嫉妬してくれて、嬉しかった」
「……そこか。泣いてなんかいない」
熱い唇が耳朶をなぞっていく。快楽に慣らされた体はそれだけでもうぞくりと疼き、鼓動は期待に昂ぶった。
「帰ったら仲直りのセックスをしましょう。今夜は寝かせませんので、そのつもりでいてください」
驚いた安珠が視線をむければ、鴇の眸は愛しいものを見るように優しく眇められていた。
俺だけの安珠、と言ってくれて嬉しかった。人前でも憚らずに安珠への想いを告げてくれた。鴇への特別な感情が胸の裡から溢れようとしている。
でも、それは口にはできなくて。
安珠の手が縋りつくようにフロックコートの襟元に寄せられると、華奢な体はすっぽりと逞しい腕の中に包まれた。
流麗なピアノの音色が室内を優しく彩る。
リサイタル鑑賞の夜は鴇と喧嘩をしたが、それを払拭するほど体を蕩かされて濃密に求め合った。
無垢だった安珠は快楽を知り、嫉妬という感情を覚え、更に色香を纏わせて鴇の色に染め上げられていく。肌は真珠のごとく光り輝き、琥珀の眸は薄らと濡れて艶めく。甘い恋愛の味を堪能するほどに、安珠はいっそう美しさを増した。
鴇は契約を振りかざして安珠を性欲の捌け口にしているのではない。彼はまるで恋人のように安珠を気遣い、大切に扱ってくれる。鴇の独占欲には悩まされるが、それも想われている証だと前向きに捉えて心が浮き立ってしまう。
父が存命だった頃は側近の鴇を疎ましく思っていたものだが、あれは彼のことをよく知らなかったせいだ。鴇はいつでも安珠を愛しげに見つめていて、ふとしたときに視線を合わせては唇を寄せる。
愛されている。
その確信が安珠の心に芽生えていた。それはくすぐったくて、幸福な芽吹きだった。
安珠はうっとりと眸を閉じて、鴇の奏でる音色に身を委ねた。
「ん、そこ。メゾピアノだからもっと優しく」
「このくらいですか?」
鴇のピアノの腕前は瞬く間に向上した。元々指先が器用な上に呑み込みも早い。リサイタルでアレクセイに握手してもらった効果があったようだ。それを言えばまた嫉妬されてしまうので口にしないけれど。
ふと口端に温かなものが触れたので、驚いて眸を開く。鴇は曲を奏でながら、隣に座る安珠に口づけていた。
「こら。暗譜できるからって、そんなことするんじゃない」
咎める声は完全に躍っている。鴇にピアノを教える時間が、何よりも楽しいひとときだ。
「目を閉じているのはキスしてほしいという、おねだりかなと思って」
「鴇はいつも僕のせいにするんだから。ふふ、くすぐったい」
「じゃあ今日は俺のせいでいいですから。そんなに可愛い声を聞いたら我慢できない」
このままベッドに連れ込まれて抱かれてしまうのがいつもの流れだが、今日はレッスンの状況を鑑みて指導を続けることにする。不埒な生徒を押し返したつもりが、まるで鴇に抱きつくような体勢で安珠は教本を捲った。
「この曲は合格だ。では次の曲にいこう。草競馬だな。この記号は何か分かるか?」
ト音記号の隣に記載された拍子記号を指し示す。竪琴のような形のそれは、父がカヨに託した懐中時計に刻まれていた二分の二拍子だ。
鴇は軽く首を捻った。
「何でしたっけ。今までのは縦線が入っていませんでしたよね」
まるで初めて見たかのような反応の薄さに、安珠はひとつ瞬きをした。鴇なら知っていて当然だろうと思っていたのだが。
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