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新たな公爵の淫靡な命令 1
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父が亡くなったのを機に、椿小路公爵家は喧噪の渦に呑まれている。客間を改装する工事の音に伴い、見知らぬ男たちがひっきりなしに屋敷に押しかけているのだ。
史子と共にサロンで優雅に午後の紅茶を嗜んでいた安珠は、繊細なブルーレースが描かれたカップをソーサーに戻した。
「さあ。鴇が何かやってるんじゃないかな」
鴇と山崎は忙しそうにしているが、当主ではない安珠には与り知らぬことである。窓から臨む庭園の薔薇を眺めていると、史子は唐突に切り出した。
「安珠、あなた、鴇とはどうなの?」
「……どうって、なにが」
どきりとしたが、さりげなく動揺を押し隠す。
鴇に自慰を手伝うと言われ、口淫された夜が脳裏に蘇った。
あの一度きりだ。
鴇はひとりでするなだとか指示していたが、父の死や襲爵など様々なことが重なり、自慰どころではなかった。体の疼きを覚えることは度々あったが、それを凌駕する衝撃的な現実を経験するうちにいつの間にか収まっている。それらを史子が知るはずはない。
「お父さまの後を継げずに落ち込んだでしょうけれど、こうなってしまったからには鴇を椿小路公爵と認めて仲良くしなければならないわ。彼は庶子とはいえ、私たちの兄弟なんですからね。あなた、鴇に八つ当たりなんてしていないでしょうね?」
史子のもっともらしい憂慮に、肩から力が抜けた安珠は己の淫らな想像をこっそり恥じる。
「ご心配なく。鴇とは今までどおりだよ。別に仲良くもないけれど、喧嘩するわけでもない」
鴇が公爵に就任したからといって、特にふたりの関係に変化はなかった。鴇の態度も以前と変わらず、礼儀正しくて謙虚だ。唯一変化があったことといえば、安珠を呼び捨てにするくらいである。それよりは使用人や華族たちがわざとらしいほど公爵に就いた鴇に媚びるので、周りのほうが変貌したといえた。
立場が逆転したので、もうあの夜のようなことはないのだろうか。別に、またしてほしいわけではないが……。
ぼんやりと飴色の紅茶に目を落としていると、慇懃なノックの音が鳴る。
「鴇さまが執務室にてお待ちです。史子さま、安珠さまにお越しいただきたいとのことです」
深々と礼をする山崎の重々しい口調に、何か重大な用件があるのだと悟る。史子と視線を交わした安珠は共に立ち上がり、執務室へと向かった。
連日、男たちが怒鳴り散らしていた執務室は、今は誰もいなかった。既に用は済んだらしい。久しぶりに足を踏み入れた執務室からは父の姿は消え、代わりに重厚な机の前に物憂げな鴇が鎮座していた。
「お父さまのいないこの部屋は寂しいものだわ。私たちに何か御用かしら、鴇」
「どうぞ、お掛けください」
手を差し出して羅紗張りの椅子を勧める仕草はこなれていた。しとやかに座った史子の隣に、安珠も腰を下ろす。
「あの男たちは何者だったんだ? まるで借金取りに金を毟り取られたような顔をしているじゃないか」
心なしか顔色の悪い鴇を揶揄してやると、嘆息と共に肯定されてしまう。
「そのとおりです。彼らは借金取りですよ。おふたりは、公爵家の現在の財政状況をご存じですか?」
史子と顔を見合わせて、首を傾げる。
財政状況と言われても、金銭を扱ったことがないので分からない。公爵家の財産を管理するのは執事の仕事だ。安珠は買い物をするときも財布を持たないので、銅銭は触ったことすらない。
鴇は呆けるふたりに、きつい眼差しで訴えた。
「非常に切迫しています。借金の内容は旦那さまが保証人に連名した上で返済不能に陥った案件、土地絡みの負債、名義貸しからの倒産など。莫大な金額ですよ」
負債や倒産など、聞き慣れない単語が羅列される。そんなに借金があったとは知らなかった。父からは何も聞いていない。
「ふうん……。でも、お父さまがいた頃は借金取りなんて来なかったじゃないか」
「来ていたんでしょう。ですが旦那さまが亡くなられたので回収できなくなると焦った借金取りたちが、一斉に押し寄せてきたわけです」
いつの間にか鴇は『旦那さま』と以前の呼び方に戻っている。公爵に就任したはいいが負の遺産を引き継がされたことに気づき、父への敬意など霧散したのかもしれない。
どうせそんなものだ。
安珠は優雅に組んだ足を組み替えて、首元を撫でるレースシャツを指先で払い除けた。
「返してやればいいだろう。椿小路公爵の初仕事に相応しいじゃないか」
「もちろん返済しますが、それには現金を確保する必要があります。帳簿を拝見しましたが、無益な支出が多すぎる。これを見てください」
鴇は黒紐で括られた分厚い帳簿の束を書棚から取り出し、机に重ねた。
こういったものに金のことを記載しておくらしい。安珠は初めて見る公爵家の帳簿を興味深げに眺めた。
「へえ。水代なんてあるんだな」
史子と共にサロンで優雅に午後の紅茶を嗜んでいた安珠は、繊細なブルーレースが描かれたカップをソーサーに戻した。
「さあ。鴇が何かやってるんじゃないかな」
鴇と山崎は忙しそうにしているが、当主ではない安珠には与り知らぬことである。窓から臨む庭園の薔薇を眺めていると、史子は唐突に切り出した。
「安珠、あなた、鴇とはどうなの?」
「……どうって、なにが」
どきりとしたが、さりげなく動揺を押し隠す。
鴇に自慰を手伝うと言われ、口淫された夜が脳裏に蘇った。
あの一度きりだ。
鴇はひとりでするなだとか指示していたが、父の死や襲爵など様々なことが重なり、自慰どころではなかった。体の疼きを覚えることは度々あったが、それを凌駕する衝撃的な現実を経験するうちにいつの間にか収まっている。それらを史子が知るはずはない。
「お父さまの後を継げずに落ち込んだでしょうけれど、こうなってしまったからには鴇を椿小路公爵と認めて仲良くしなければならないわ。彼は庶子とはいえ、私たちの兄弟なんですからね。あなた、鴇に八つ当たりなんてしていないでしょうね?」
史子のもっともらしい憂慮に、肩から力が抜けた安珠は己の淫らな想像をこっそり恥じる。
「ご心配なく。鴇とは今までどおりだよ。別に仲良くもないけれど、喧嘩するわけでもない」
鴇が公爵に就任したからといって、特にふたりの関係に変化はなかった。鴇の態度も以前と変わらず、礼儀正しくて謙虚だ。唯一変化があったことといえば、安珠を呼び捨てにするくらいである。それよりは使用人や華族たちがわざとらしいほど公爵に就いた鴇に媚びるので、周りのほうが変貌したといえた。
立場が逆転したので、もうあの夜のようなことはないのだろうか。別に、またしてほしいわけではないが……。
ぼんやりと飴色の紅茶に目を落としていると、慇懃なノックの音が鳴る。
「鴇さまが執務室にてお待ちです。史子さま、安珠さまにお越しいただきたいとのことです」
深々と礼をする山崎の重々しい口調に、何か重大な用件があるのだと悟る。史子と視線を交わした安珠は共に立ち上がり、執務室へと向かった。
連日、男たちが怒鳴り散らしていた執務室は、今は誰もいなかった。既に用は済んだらしい。久しぶりに足を踏み入れた執務室からは父の姿は消え、代わりに重厚な机の前に物憂げな鴇が鎮座していた。
「お父さまのいないこの部屋は寂しいものだわ。私たちに何か御用かしら、鴇」
「どうぞ、お掛けください」
手を差し出して羅紗張りの椅子を勧める仕草はこなれていた。しとやかに座った史子の隣に、安珠も腰を下ろす。
「あの男たちは何者だったんだ? まるで借金取りに金を毟り取られたような顔をしているじゃないか」
心なしか顔色の悪い鴇を揶揄してやると、嘆息と共に肯定されてしまう。
「そのとおりです。彼らは借金取りですよ。おふたりは、公爵家の現在の財政状況をご存じですか?」
史子と顔を見合わせて、首を傾げる。
財政状況と言われても、金銭を扱ったことがないので分からない。公爵家の財産を管理するのは執事の仕事だ。安珠は買い物をするときも財布を持たないので、銅銭は触ったことすらない。
鴇は呆けるふたりに、きつい眼差しで訴えた。
「非常に切迫しています。借金の内容は旦那さまが保証人に連名した上で返済不能に陥った案件、土地絡みの負債、名義貸しからの倒産など。莫大な金額ですよ」
負債や倒産など、聞き慣れない単語が羅列される。そんなに借金があったとは知らなかった。父からは何も聞いていない。
「ふうん……。でも、お父さまがいた頃は借金取りなんて来なかったじゃないか」
「来ていたんでしょう。ですが旦那さまが亡くなられたので回収できなくなると焦った借金取りたちが、一斉に押し寄せてきたわけです」
いつの間にか鴇は『旦那さま』と以前の呼び方に戻っている。公爵に就任したはいいが負の遺産を引き継がされたことに気づき、父への敬意など霧散したのかもしれない。
どうせそんなものだ。
安珠は優雅に組んだ足を組み替えて、首元を撫でるレースシャツを指先で払い除けた。
「返してやればいいだろう。椿小路公爵の初仕事に相応しいじゃないか」
「もちろん返済しますが、それには現金を確保する必要があります。帳簿を拝見しましたが、無益な支出が多すぎる。これを見てください」
鴇は黒紐で括られた分厚い帳簿の束を書棚から取り出し、机に重ねた。
こういったものに金のことを記載しておくらしい。安珠は初めて見る公爵家の帳簿を興味深げに眺めた。
「へえ。水代なんてあるんだな」
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