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鴇
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ヒロも俊敏な動作で立ち上がり、安珠の後に従う。少年から預かり一五年が経過したヒロは、忠実に主人である安珠に付き従ってくれる。
だが、鴇は穏やかな笑みを浮かべてヒロを諭した。
「ヒロ。安珠さまは旦那さまとお話があるから、俺と待っていよう。おいで」
ヒロは鴇に目をむけると、するりと寄り添う。これまで安珠以外の誰の命令も訊かなかった老犬は、なぜか鴇にだけは懐いている。動物嫌いの姉の史子はもちろん、女中頭のキユが散歩に連れていこうとしても前足を突っ張り、決して従おうとしなかったのに。
「まるで、鴇が主人のようだな」
犬は人間の言葉を理解している。そして人間に対する序列も己の裡で順序づけている。つまりヒロは長年過ごした安珠よりも、新参者の鴇のほうを主人と認めているらしい。甚だ面白くない。
鴇は廊下で安珠の一歩後ろを歩きながら、口端に笑みを刻んだ。慇懃なはずの下男は、ふとしたときに色濃く不遜を滲ませる。
「犬が好きなので、ヒロも察してくれるんだと思います。昔、飼っていたことがあるんですよ」
鴇は色々と胡散臭い男だった。
出自も明確でないのに、大須賀伯爵の紹介ということで屋敷の下男として雇ったのが一年前。あの日のことは今も不審に思う。
新しい下男を山崎から紹介された父は、鴇の名を聞いた途端に激しく動揺した。
『なに!? 君の名は鴇というのか。本当か。年はいくつだね』
『数えで二五になります。旦那さま』
『なんと……。母親は? もしかして母の名は、カヨというのではないか?』
『そうですが……母は俺が子どもの頃に亡くなりました』
呆然としていた父は、山崎と安珠が首を捻っているのに気づき表情を改めた。何でもないと濁していたが、父の態度はまるで隠し事があるかのようだった。
以来、椿小路公爵家の下男として鴇は黙々と勤めた。小金を騙し取ったり女中を手籠めにするようなこともなく、下男でも嫌がる汚物を処理する仕事も率先して引き受けた。
真面目で忠実に職務をこなしていく姿勢が評価され、父は鴇を自分の側近にすると言い放ち、周囲を驚かせたものだ。
いくら仕事ができても、所詮は下男である。
由緒ある椿小路公爵家には執事長の山崎を始めとして、父の片腕となる優秀な使用人が幾人もいる。高等教育を受けた執事たちを追い越して、下男が公爵の側近とはいかがなものかと山崎に穏便に諭された父はそれでも折れず、鴇を安珠の側近につけた。事実上、次期公爵の執事候補というわけである。
遊び相手が欲しい年頃でもないのに、ただでさえ気に入らない鴇に側近などという理由で自由に部屋に出入りされ、話しかけられては甚だ迷惑だ。安珠が公爵に就任する際には暇を出そうと考えている。
尻尾を振るヒロを見下ろし、さりげなく目線を上げた安珠はちらりと鴇の横顔を窺った。
目鼻立ちの整った端正な面立ちだ。落ち着きのある佇まいは頼もしさを感じさせるのに、どこか危うさを孕んでいる。
そのアンバランスが、安珠の心をざわめかせる。
「ちなみに飼っていた犬の名前は、何というんだ?」
「何だと思います?」
「……僕が訊いているんだ」
主は安珠なのに、掌で転がされているようで気分が悪い。ねじ曲げた唇はぽってりとして艶めいているため、接吻をねだっているかのように可愛らしく突き出されている。
鴇は双眸を眇めてそんな安珠を漆黒の眸に映した。どこか獰猛な気配が漂い、その欠片を感じ取った安珠はぶるりと身を震わせる。
「寒いですか。上着をお持ちしましょう」
執務室の扉前で向かい合う。震えたことを見透かされてしまい、きまりが悪い。安珠は華奢な体つきで男としては背も低いので、見下ろされるような格好になることも居心地を悪くさせた。
絡みついてくる漆黒の眸から逃れるように顔を背けて扉をノックする。室内から入室を許可する父のくぐもった声が届いた。
「もういい。ついてくるな」
「犬の名前は、ヒロというんです。偶然ですね」
鴇をじろりと睨みつけてから入室する。
何が偶然だ、嘘くさい。だからこの男は嫌いなんだ。
礼儀正しく頭を下げた鴇が、音もなく扉を閉める。直前に目にした薄い唇は弧を描いていた。
「お父さま、お待たせしました。御用ですか」
父である椿小路公爵は革張りの椅子に体を凭せかけていた。顔は土気色で、体は痩せ細っている。病に冒された父は虚ろな眼を安珠にむけた。
「結果はまだ出ないのか。私はもう長くない。おまえがアルファであることさえ確認すれば、安心して椿小路公爵の座を譲れるのだ」
幾度も繰り返された父の要求を、安珠は苦い思いで噛み殺した。
この世には、男と女の他に三種の性が存在する。能力の優れたアルファ、凡庸なベータ、そして下劣なオメガ。三種の性は階級社会に反映され、華族はすべてアルファであると暗黙の了解で認識されていた。だが稀にアルファ同士の子であってもオメガが産まれることもあり、またオメガは男でも妊娠可能だという。上流階級を乱す下等なオメガ。父は安珠がそのオメガではないかと危惧しているのだ。
だが、鴇は穏やかな笑みを浮かべてヒロを諭した。
「ヒロ。安珠さまは旦那さまとお話があるから、俺と待っていよう。おいで」
ヒロは鴇に目をむけると、するりと寄り添う。これまで安珠以外の誰の命令も訊かなかった老犬は、なぜか鴇にだけは懐いている。動物嫌いの姉の史子はもちろん、女中頭のキユが散歩に連れていこうとしても前足を突っ張り、決して従おうとしなかったのに。
「まるで、鴇が主人のようだな」
犬は人間の言葉を理解している。そして人間に対する序列も己の裡で順序づけている。つまりヒロは長年過ごした安珠よりも、新参者の鴇のほうを主人と認めているらしい。甚だ面白くない。
鴇は廊下で安珠の一歩後ろを歩きながら、口端に笑みを刻んだ。慇懃なはずの下男は、ふとしたときに色濃く不遜を滲ませる。
「犬が好きなので、ヒロも察してくれるんだと思います。昔、飼っていたことがあるんですよ」
鴇は色々と胡散臭い男だった。
出自も明確でないのに、大須賀伯爵の紹介ということで屋敷の下男として雇ったのが一年前。あの日のことは今も不審に思う。
新しい下男を山崎から紹介された父は、鴇の名を聞いた途端に激しく動揺した。
『なに!? 君の名は鴇というのか。本当か。年はいくつだね』
『数えで二五になります。旦那さま』
『なんと……。母親は? もしかして母の名は、カヨというのではないか?』
『そうですが……母は俺が子どもの頃に亡くなりました』
呆然としていた父は、山崎と安珠が首を捻っているのに気づき表情を改めた。何でもないと濁していたが、父の態度はまるで隠し事があるかのようだった。
以来、椿小路公爵家の下男として鴇は黙々と勤めた。小金を騙し取ったり女中を手籠めにするようなこともなく、下男でも嫌がる汚物を処理する仕事も率先して引き受けた。
真面目で忠実に職務をこなしていく姿勢が評価され、父は鴇を自分の側近にすると言い放ち、周囲を驚かせたものだ。
いくら仕事ができても、所詮は下男である。
由緒ある椿小路公爵家には執事長の山崎を始めとして、父の片腕となる優秀な使用人が幾人もいる。高等教育を受けた執事たちを追い越して、下男が公爵の側近とはいかがなものかと山崎に穏便に諭された父はそれでも折れず、鴇を安珠の側近につけた。事実上、次期公爵の執事候補というわけである。
遊び相手が欲しい年頃でもないのに、ただでさえ気に入らない鴇に側近などという理由で自由に部屋に出入りされ、話しかけられては甚だ迷惑だ。安珠が公爵に就任する際には暇を出そうと考えている。
尻尾を振るヒロを見下ろし、さりげなく目線を上げた安珠はちらりと鴇の横顔を窺った。
目鼻立ちの整った端正な面立ちだ。落ち着きのある佇まいは頼もしさを感じさせるのに、どこか危うさを孕んでいる。
そのアンバランスが、安珠の心をざわめかせる。
「ちなみに飼っていた犬の名前は、何というんだ?」
「何だと思います?」
「……僕が訊いているんだ」
主は安珠なのに、掌で転がされているようで気分が悪い。ねじ曲げた唇はぽってりとして艶めいているため、接吻をねだっているかのように可愛らしく突き出されている。
鴇は双眸を眇めてそんな安珠を漆黒の眸に映した。どこか獰猛な気配が漂い、その欠片を感じ取った安珠はぶるりと身を震わせる。
「寒いですか。上着をお持ちしましょう」
執務室の扉前で向かい合う。震えたことを見透かされてしまい、きまりが悪い。安珠は華奢な体つきで男としては背も低いので、見下ろされるような格好になることも居心地を悪くさせた。
絡みついてくる漆黒の眸から逃れるように顔を背けて扉をノックする。室内から入室を許可する父のくぐもった声が届いた。
「もういい。ついてくるな」
「犬の名前は、ヒロというんです。偶然ですね」
鴇をじろりと睨みつけてから入室する。
何が偶然だ、嘘くさい。だからこの男は嫌いなんだ。
礼儀正しく頭を下げた鴇が、音もなく扉を閉める。直前に目にした薄い唇は弧を描いていた。
「お父さま、お待たせしました。御用ですか」
父である椿小路公爵は革張りの椅子に体を凭せかけていた。顔は土気色で、体は痩せ細っている。病に冒された父は虚ろな眼を安珠にむけた。
「結果はまだ出ないのか。私はもう長くない。おまえがアルファであることさえ確認すれば、安心して椿小路公爵の座を譲れるのだ」
幾度も繰り返された父の要求を、安珠は苦い思いで噛み殺した。
この世には、男と女の他に三種の性が存在する。能力の優れたアルファ、凡庸なベータ、そして下劣なオメガ。三種の性は階級社会に反映され、華族はすべてアルファであると暗黙の了解で認識されていた。だが稀にアルファ同士の子であってもオメガが産まれることもあり、またオメガは男でも妊娠可能だという。上流階級を乱す下等なオメガ。父は安珠がそのオメガではないかと危惧しているのだ。
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