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子犬と懐中時計 3

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「ヒロト君というのは誰なの?」

 誰と問われても困る。先ほど会ったばかりなので、彼のことを何も知らないのだ。
 安珠は始めにヒロトを見つけた雑貨屋の店先を指した。

「あそこの子……だと思う」

 母の目配せにより、すぐにキユが雑貨屋へ向かった。

「あの懐中時計は子息であるあなたのために、お父さまが授けてくださったとても大切な品なのです。椿小路公爵家の跡取りであると証明するものだと、お父さまはいつも仰っているではありませんか。それを、犬と交換だなんてとんでもありません」

 厳しく諭され、安珠は子犬を抱きしめながら俯いて涙を浮かべた。
 勝手に交換などしてはいけなかったのだ。でも、子犬を死なせることはできなかった。
 ややあって戻ってきたキユは困惑顔で母に低頭した。

「あの店に男子はいないそうです。念のため両隣にも伺いましたが、どちらも老夫妻で営んでおり、孫も手伝いもいないとのことです」

 沈黙する一同の元に、粉雪が舞い落ちる。
 跡取りの証である懐中時計が失われてしまったという冷酷な事実と対照的に、子犬は嬉しそうに皆を見回していた。
 犬から顔を背けるようにして、史子は横目で呟いた。

「騙し取られたのじゃなくて? 詐欺師だわ」
「ちがう! ヒロトくんはいつか返してくれるって言った!」
「そういう風に騙されたのよ。貧民は華族から、くすねることしか考えていないのよ」

 厳しい表情をした母は史子に向き直り、ぴしゃりと言い放つ。

「品のないことを言うのは、およしなさい。あなたは公爵令嬢なのですよ。貴婦人らしい物言いをなさい」

 はっとした史子は姿勢を正し、母に謝罪した。

「申し訳ありません、お母さま」

 公爵家の馬車は道端に待機している。母がそちらに目をむけると、心得た御者は恭しく扉を開けた。

「屋敷に戻りましょう。お父さまにすべてお話して、許していただかなくてはなりません」
「ごめんなさい……お母さま」
「怪我がなくて良かったと、きっと言ってくださるわ。懐中時計がなくとも、あなたは椿小路公爵家のたったひとりの跡継ぎです。子犬も飼ってくださるよう、お母さまからお願いしますからね」

 馬車が走り出すと、ヒロトと出会った路地裏が次第に遠ざかる。ぎゅっと子犬を抱きしめた安珠は少年の姿を路傍に捜したが、ヒロトはどこにもいなかった。
 事の次第が報告されると、父は懐中時計を紛失したことに落胆は見せたものの鷹揚に許してくれた。子犬を離そうとしない安珠を見て、飼うことも許可された。ヒロトに会った路地裏周辺を後日捜索した使用人たちは手ぶらで戻ってきた。以来、椿小路公爵家の跡取りの証である懐中時計の行方は知れない。ヒロトが屋敷を訪れることも、一度もなかった。瞬く間に成長するヒロと共に過ごしながら、安珠はいつか彼がふらりと現れるのではないだろうかと、淡い期待を抱いていた。



 流麗なソナタの旋律が室内に響き渡る。
 ピアノの鍵盤に指を滑らせる安珠は、紡ぎ出される音色に心を沈めた。
 第二楽章を終えたとき、傍で蹲っていた犬のヒロが、ついと頭を擡げさせるのに気づく。目をむければ、いつの間にか扉を背にして下男のときが佇んでいた。

「何か用か」
 
 漆黒の双眸が真っ直ぐに安珠を見返す。心の奥底まで見透かすような深みのある、けれど仄かに昏い眸だ。鼻筋はすっと通り、薄い唇は冷酷にも見える。怜悧ながらも雄の匂いが漂う精悍な男前だ。上背のある体躯を簡素なシャツに包み、鴇は無駄のない所作で恭しく礼をした。

「安珠さま、よろしいのですか」

 こちらが聞いているのだが。用があるから部屋に入ったのではないのか。
 安珠は棘を含んだ声音で聞き返した。

「何が」
「まだ曲の途中かと」

 演奏を邪魔されることを、安珠は何よりも嫌う。たとえ執事の山崎であっても、ピアノを弾いている最中の安珠に話しかけることはない。

「第二楽章が終わったところだからいいんだ。早く用件を言え」

 この新参者の下男は、何かにつけて安珠に近寄り、回りくどい話をしていく。
 安珠はこの男が嫌いだった。

「旦那さまがお呼びです」

 始めからそう告げれば良いだけなのに。
 叱責すればまた鴇は何かと会話を引き伸ばそうとするので、安珠は無言で席を立つ。
 伸びやかな白い四肢は華奢で、色素の薄い琥珀の眸と薄茶の髪は西洋の人形のごとく儚げだ。精緻に整った面差しに咲いた紅色の唇が人目を惹く。椿小路安珠は美しい青年に成長した。
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