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スピンオフ「椿小路公爵家の秘めごと」 子犬と懐中時計 1

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 路傍は冷たい霧に覆われている。
 馬の蹄鉄が路を叩く音と車輪の回る規則的な音色が、幼い安珠あんじゅの耳に届く。空色の外套は襟元と袖口に暖かな貂の毛皮が付いている。安珠が指先を躍らせれば、袖口の毛皮もふわりと揺れた。

「ド、ミ、ソ、ド、ミ、ソ、レ、ファ、ラ……」

 ピアノのレッスンで覚えたばかりの和音を車輪の音に合わせてそらんじる。
 さらさらと絹糸のように零れ落ちる薄茶の髪と、長い睫毛に縁取られた大きな琥珀の眸。滑らかな白い肌に花咲いた薔薇色の頬が艶やかだ。唇は桜の花弁のように淡く色づき、ぽってりとしている。
 椿小路つばきこうじ公爵家の跡取り息子である安珠は五歳になったばかり。天使のような容貌で、その愛らしさは見る者の目を優しく眇めさせた。
 母と姉、それにお付きの女中の四人で乗っている公爵家の馬車は内装に朱の天鵞絨が施されている。公爵夫人である母は細い指をついと伸ばし、安珠の襟元を直した。襟元からは首に提げた懐中時計の金の鎖がきらりと覗く。

「寒いですからね。お風邪を召さないよう気をつけないと」

 襟は乱れてはいないのだが、母は常に安珠の体調に細心の注意を払う。椿小路公爵家は長らく男子が産まれず、安珠はようやく誕生した大切な息子だ。向かいの座席に腰掛けている七つ年の離れた姉の史子ふみこは、わざとらしく唇を尖らせた。

「お母さまったら、いつも安珠の心配ばかり。今日は私の発表会で着るお衣装を選びに来たのでしょ?」
「そうですよ。紅い振り袖にしましょうね。簪も美しいものを合わせましょう。安珠の発表会のときも、素敵なお衣装を仕立てさせますからね。楽しみにしていてちょうだい」
「はい、お母さま」

 利発に返事をする安珠を、母は目元を緩ませながら眼の中に収める。それが面白くないらしい史子はいつものように安珠をからかった。

「安珠はピアノがお上手ですものね。将来はピアノの先生になったら良いわ」
「うん、僕、おおきくなったらピアノの先生になる!」

 ピアノは大好きだ。
 楽譜に躍る音符を紐解いて鍵盤をなぞれば、みんなが褒めてくれる。麗しい音楽を奏でるのはとても楽しい。
 子どもの率直さで追従すれば、母は口元に手を添えて上品に笑った。淑やかな被布の袂が仄かに揺れる。

「まあ、ご冗談をお言いなさい。安珠はお父さまの後を継いで椿小路公爵になるのですよ」

 安珠は母の口から幾度も繰り返された台詞を不思議な思いで耳に刻む。
 ピアニストは音楽を奏でる。靴職人は靴を作る。でも公爵って、何を作り出す人なんだろう。父はとても偉い人でいつも沢山の人に囲まれているけれど、憧れは抱かなかった。
 僕は公爵より、ピアノの先生になりたい。
 口を開きかけた安珠は母の顔を窺い、言葉を呑み込む。
 きっと僕は、お母さまの言うとおり公爵になるんだろうな。
 自らの未来を薄らと思い描きながら、安珠は曇りのない眸に街の様子を映した。
 やがて馬車は大店の呉服屋に辿り着く。数々の色鮮やかな反物が所狭しと広げられて、店の者が笑顔で寄り添いながら史子に反物を宛がった。紅い着物にすると言ったはずだった母と史子は楽しそうに鏡を眺めながら、延々と悩んでいる。
 すっかり飽きてしまった安珠は出入口へ向かった。母と史子は反物を選ぶのに夢中だ。女中のキユは店の奥へ行って席を外している。
 安珠はこっそり呉服屋を出た。ほんの少し遊んでくるだけだから平気だ。
 街路は雑然としていた。冬の凍った路傍を忙しげに行き交う荷馬車や、新しく馬車の代わりに登場したという自動車が通り過ぎる。大通りの向かいにある雑貨屋から出てきた客が、最新の自動車に乗り込んでいた。
 ふと、その店先と車の狭間を、黒い影が横切る。
 目を凝らして見れば、それは黒い服を着た少年だった。俯きながら歩いて、腕には真っ黒の物体を抱えている。
 あれは何だろう。
 興味を抱いた安珠は少年を追いかけた。
 彼は狭い路地裏に入っていく。袋小路の壁に辿り着くと、腕に抱いていたものを下ろした。辺りには使い古しの空き箱が積み重ねられている。
くうん、と甘えた声を出す黒いものは尻尾を振っていた。子犬だ。

「ごめんな……。おまえを飼えないんだ。ここに食べ物を運んでくる。寒いけど死ぬなよ」

 子犬に話しかける声音は落ち着きのある響きで、とても大人びていた。彼は家の事情で犬を飼えないらしい。

「ここにいたら死んじゃうの?」

 突然話しかけてきた安珠に、少年は驚いて振り返る。漆黒の髪と、深淵のような深みのある双眸。眦はきつくて意地悪な印象を受けたが、子犬を助けようとしているのだから、きっと良い人だ。

「……まだ子犬だから、寒さに耐えられなくて死ぬかもしれない」

 小さな黒い犬は無垢な笑顔でふたりを見上げている。子犬は外で飼っていたためか、薄汚れていた。少年も寒空なのに外套を纏っておらず、衣服は生地が傷んでいる。どうして新しい服を着ないのだろうと、安珠は首を傾げた。
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