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耽溺の別荘 11

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 逆に、表情がないので何を考えているのか分からなくもあるが。
 シルクのネクタイは上質な衣擦れの音を奏でる。
 トキは手こずっているらしく、ネクタイのノットは中々完成しない。

「申し訳ありません。もう一度」

 手順を忘れてしまったらしい。ネクタイは解かれて、再び始めから結び直される。
 夢中になっているのか、トキは真剣な眼差しをしてネクタイに顔を近づける。そうすると唇が近づいてしまい、呼気までも感じられた。妙に息苦しさを感じた澪はネクタイに手をかける。

「あの、自分でやりますから」

 邪魔するつもりはなかったのだが、ふいにぎゅっと手を握られる。その力が思いのほか強かったので、驚いた澪は顔を上げた。
 トキの昏い双眸に獣めいた情欲が宿っている。
 晃久によく似た雄の眸を間近にして、澪はぶるりと背を震わせた。
 突如、横合いから伸びた手がトキの腕を掴む。引き剥がすようにされて、トキは澪の手を放した。藍色のネクタイが、はらりと床に舞い落ちる。

「もういい。俺がやる」

 部屋に置かれた椅子に腰掛けて着替えを眺めていた晃久は、有無を言わせずトキに命じる。
 トキは黙したまま、落ちたネクタイを拾い上げて慇懃に差し出した。無言で受け取った晃久は、慣れた手つきで澪の首元にネクタイを締める。
 上品にノットが出来上がり、澪はほっと息を吐いた。
 背後から紺色のジャケットを手にしたトキが、着せかけようとしてくれる。
 袖に腕を交互に通してジャケットを纏うと、襟元を整えるために節くれ立った手が背後から触れた。そして両肩をゆっくりと撫で下ろしていく。
 肩の埃を払うためなのだが、素肌に触れたいという欲望の片鱗を手つきに感じたのは澪の勘違いだろうか。
 眼前の晃久は支度が完成すると、すうと双眸を細めた。

「大胆な男だな。主人を前にして堂々と薔薇を手折ろうというのか?」

 トキに向けられた台詞らしく、彼は深々と礼をした。

「棘のない薔薇には誰でも触れてしまいます」

 謝罪するかと思われたトキは、まるで肯定するようなことを告げる。

「上手いことを言うじゃないか。おまえが子爵夫人を寝取った罪で殺されそうになったとき、引き取ってやった恩を忘れたのか」
「忘れたことなどございません。若旦那様には感謝しています」
「ならば弁えろ。澪に手を出したら、俺がおまえを殺す」
「御意にございます」

 物騒なことを吐く晃久とトキのやり取りを萎縮しながら見守る。
 晃久はトキが、澪に邪な思いを抱いているというのだろうか。
 そんなわけはない。彼は忠実であるし、何より澪は男なのだから。



 大須賀家に戻る日程を調整する晃久は忙しそうだった。近日中に移動するということだが、会社の商談や契約も重なったようで、彼はここ数日は別荘内に設えられた書斎の電話にかかりきりだった。
 商談相手らしい人物と通話を終えて、受話器を置いた晃久は戸口を振り返る。

「澪。出てくるなと言ったろう」

 以前は朝晩構わず抱き合っていたので主寝室から出られなかったが、晃久が忙しくなったので澪は身が空いた。晃久からは寝室から出るなと言いつけられているが、自分にできることなら手伝いたいし、外の空気も吸いたい。

「僕にお手伝いできることはありませんか?」
「おまえに出来ることは俺の言いつけを守ることだ。今から仕事で出かけることになった。どうしても現場に顔を出さなければならないんだ。なるべく早く戻ってくるが、俺が戻るまで一歩も寝室から出るんじゃないぞ。いいな」
「分かりました」

 何も危険なことはないのに、晃久は過保護すぎるのではないかと思う。けれど晃久には安心して仕事をしてもらわなければならない。澪は素直に頷いた。
 主寝室まで腰を抱かれて連れていかれる。ベッドに澪を座らせて書斎の本をいくつか置いた晃久は、額に軽く口づけをして部屋を出て行った。
 途端に寂しさが募る。
 今、別れたばかりなのに、もう晃久に会いたくてたまらなくなる。晃久がいないベッドは、こんなに広かったのだろうか。
 澪はシーツを掴んで寂寥感に耐えていたが、思い返して置いていってもらった本を捲った。

「経済の本質……若さまが好きそうな題名だな」

 経済について書かれた本の内容は難しくてよく分からないのだが、晃久の興味のあるものを澪も知りたかった。午前中はびっしりと文字が詰め込まれた本を読んで過ごす。
 ふと空腹を覚えて、置き時計を見遣る。とうに昼を過ぎていた。
 いつも十二時頃にトキは昼食を運んでくれるのだが、今日の昼食はないのだろうか。厨房にパンでもあれば自分で焼ける。寝室を出ようとドアノブに手をかけた澪は、晃久との約束を思い出して踏み止まった。
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