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西島男爵 2

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「すみません、若さま。でも僕は、娼館の経営が大変なことを知っていますし、娼婦たちがつらい仕事をしているのを見ています。僕だけ充分に食べるわけにはいかなかったんです」
「……この期に及んで他人の心配か。おまえは本当に何も分かっていない」

 ふたりのやり取りを、それまで気配を消したように黙して眺めていた支配人は、纏めた書類を捲りながら言葉をかけた。

「売主の取り分は一割です。三万円ですから、娼館には三千円入りますね」

 主人は気まずそうに、けれど嬉しさを隠しきれないように口元を緩ませながら目線を下げている。

「ご主人。僕の借金はそれで足りますか?」

 澪が確認すると、主人は弾かれたように顔を上げた。

「えっ、ええ。もちろんです、澪さん。ありがとうございます、これで税金も支払えます」

 澪に対する態度が急に変わる。晃久は澪の手首を引きずりながら、通りすがりに主人を一瞥した。

「元々ありもしない借金のおかげで、娼館がもう一軒建つな」
「は、はい。すべて大須賀様と澪さんのおかげでございます」
「二度と伯爵夫人の命令を聞くな。貴様を牢獄に送ることくらい、いつでもできる」

 主人は慌てて土下座して晃久を見送った。
 同時に支配人とアシスタントも慇懃に礼をする。

「お買い上げ、ありがとうございました」



 劇場を出ると、夏の夕暮れが織り成す温い風が頬を撫でる。
 怒りの収まらないらしい晃久は無言で澪を引きずり、黒塗りの車の後部座席を開ける。放り込まれると、細い肢体は簡単に白い革張りの座席に転がった。音高くドアが閉められる。
 自分で運転するらしく、晃久は運転席に乗り込んだ。瑪瑙で作られたギアを乱暴に入れて、車が発進する直前、窓硝子がこつこつと叩かれる。

 浩一郎だ。
 先ほどの会話では大須賀家の絡みで晃久を見張っていたということだが、浩一郎は晃久に対して好意的に見える。
 晃久は浩一郎の存在を鬱陶しく感じているのか、苛々した口調で問いかけた。

「まだ何かあるんですか、叔父さん。まさか叔父さんまで損失を払えなんて言わないでしょうね」
「金の話じゃない。澪君、ちょっと」

 にこやかな笑みで手招かれ、澪は慌てて窓を開ける。浩一郎は少し開いた窓に顔を寄せて、内緒話をするように声をひそめた。

「居心地が悪くなったら、いつでも私を訪ねてくるといい。西島家には君の居場所があるよ」

 甘い声音で囁かれ、澪は困惑する。
 浩一郎は澪を西島家で引き取れば良いといった趣旨の話を晃久に相談していたが、大須賀家の親戚とはいえ、澪が厄介になる理由はないように思える。
 何より、晃久がそのことに否定的な見解を示した。
 鋭い双眸で後部座席を睨み据えていた晃久は早々に促す。

「もういいでしょう、叔父さん」
「じゃあな、晃久。婚約者の恵子さんによろしく」

 盛大な舌打ちをした晃久に、浩一郎は笑顔で手を振っていた。
 走り出した車は劇場の敷地を抜けて坂を下りていく。夕陽が海面に反射して、凪いだ海は眩く光り輝いていた。
 けれどそんな美しい景色も憤慨する晃久の目には映らない。

「まったく、どいつもこいつも虫酸が走る!」

 吐き捨てられて、澪は座席で身を丸めるしかなかった。
 澪のせいで、晃久に大金を使わせてしまった。どうやって償えばいいのか分からない。
 来たときと同じ路を辿り、車は別荘地の並び立つ区画に入る。路を逸れて並木道を通り抜けると、林に囲まれた一軒の豪邸が現れた。

 門が開かれて、車は鬱蒼とした木々の間を進む。ほどなくして玄関の車寄せに辿り着いた。
 おそらくここが大須賀家の別荘なのだろう。瀟洒な邸宅は年代を感じさせるが趣がある。
 晃久は車を停めると無造作に後部座席を開けた。澪の腰を鷲掴みにして車から降ろすと、荷物を運ぶようにして肩に担ぎ上げる。

「若さま、歩けますから」
「黙ってろ」

 憮然とした晃久に担がれたまま邸宅に入る。ホールは薄暗く、人の気配がしない。別荘は長い間、使われていないようだった。

「お帰りなさいませ、若旦那様」

 低い呟きが発せられて、びくりと身が竦む。
 いつの間にかホールに控えていた男は、晃久と澪を直接見ないよう目線を落としていた。

「食事の用意をしろ」
「かしこまりました」

 晃久が命じると、背をむけた男は厨房に入る。どうやら別荘を管理している下男のようだ。
 晃久は厨房を通り過ぎ、廊下の最奥へ向かう。重厚な扉を開いて入室した部屋は、しんと静まり返っていた。
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