上 下
29 / 112

西島男爵 1

しおりを挟む
 小切手を丁寧な所作でアシスタントに渡した支配人は書類を差し出す。
 晃久は本当に三万円の代金を支払ってしまった。大須賀晃久の名が刻まれた小切手は重厚な鞄に入れられて鍵を掛けられる。
 ペンを取り書類にサインをする晃久は、澪が入室してきたことは分かっているはずなのに、こちらをちらりとも見ようとしない。怒りに満ちていることが彼の背中から伝わる。

 晃久に合わせる顔がない。
 あんなに会いたいと願っていたはずなのに。
 どうして彼は、ここに来たのだろう。
 そしてどうして手放したはずの澪を高額で買い戻してくれたのか。
 元々は大須賀家の使用人だった澪を金を払って買い戻すなんて、晃久にも大須賀家にも何の得もない。
 突然扉が開き、先ほど澪を競り落としそうだった晃久に似た紳士が声をかけてきた。

「なんだ、晃久。もう払ったのか。相変わらず、せっかちだな」
「浩一郎叔父さん」

 なんと、ふたりは知り合いらしい。しかも叔父さんということは、大須賀家の親戚だ。
 浩一郎と呼ばれた紳士は晃久と話しながらも、眸を眇めて澪を見た。
 そんな眼差しも晃久に似ている。会場は薄暗かったので他人の空似かと思ったが、こうして明るい場所で改めて見ると、骨格といい、髪質といい、細かいところまで似通っていた。晃久が年を重ねて丸くなれば、現在の浩一郎と瓜二つになるのだろうと予測できた。逆に浩一郎の若かりし頃は、今の晃久に生き写しだったに違いない。

「正気か? 三万だぞ。元々澪君は大須賀家の人間なんだ。買い戻すにしても、もう少し安く済ませられただろう」
「叔父さんこそ大須賀家の指示で俺を見張ってたくせに、今度は金の指図ですか。会社から出すので問題ありません」
「私が澪君を落札すれば三千円で済んだじゃないか。彼は西島家で預かって、そこに晃久が会いに来ればいい。まったくおまえは勢いだけでねじ伏せようとするからいけない」

 西島家とは、大須賀伯爵家と遠い親戚にあたる男爵だ。言われてみれば伸介の葬式で浩一郎の姿を見かけた気もする。あのときは顔立ちまで着目していなかったが、そういえば晃久にお悔やみを述べていた西島男爵だ。
 険しい顔つきのまま晃久は、浩一郎の提案を一蹴した。

「冗談じゃないですよ。澪を愛人にするつもりでしょう。叔父さんの手の早さは知ってます」
「信用がないな。まあ、今回は譲ってやる」
「どうぞご自由に大須賀家に報告してください。澪、いくぞ」

 名を呼ばれて、びくりと肩が跳ねる。晃久は全く澪を見ない。きっと、大金を払わせたことを怒っているのだろう。娼館に借金もあるのに、三万円なんていう大金を晃久に返せるだろうか。
 澪が項垂れて晃久の後に従おうとすると、事務所から事態を見守っていたであろう娼館の主人が顔を出した。晃久にへりくだるように身を屈めている。

「これはこれは、大須賀伯爵家の若旦那様。お初にお目にかかります。わたくしは澪の面倒を伯爵夫人に頼まれて見ていたのですが、このたびはこういったことになりまして、何と申しますか……」

 晃久は揉み手ですり寄ってくる主人を見下した。

「貴様、まだ何かあるのか。伯爵夫人からは金を受け取ったそうだな。面倒を見ていただと? 澪の体と顔を見ればどんな待遇を受けていたのか一目瞭然だ。娼館を潰されないだけ有り難く思え」

 晃久は既に澪の事情を知った上で、劇場を訪れたらしい。主人は体を小さくしながらも、窺うような上目で晃久を見た。

「あのう……お金はいただけますよね?」

 晃久の眉が跳ね上がる。もはや虫を見るような目で主人を睥睨した。

「何の金だ」
「あの、若さま。実は僕、ご主人に借金があるんです。そのお金を返せないので、ご主人はこの劇場を紹介してくれたんです」

 主人がお金を要求するのは正当な行為に思えた。借金を返せなかったのは事実であるし、結果オークションで澪は落札されたので、晃久の支払った金額の中から主人はお金を受け取ることができて借金も清算されるということになるはずだ。

「借金だと? 何の借金だ」
「ご主人が僕を預かるために、奥様から渡されたお金が少なかったので、足りない分を僕の給料で補っていたのです。そのお金が借金として……残っています……」

 説明するうちに、みるみる晃久の形相が憤怒に変わる。元々切れ上がった眦は鬼のように吊り上げられた。

「馬鹿か、おまえは! そんなものはおまえをただで働かせるための屁理屈だ!」

 晃久は怒りを爆発させた。激しく叱責されて、澪は首を竦める。ぐい、と手首を取られて、眼前に掲げられる。

「この荒んだ手! 折れそうな細い手首! おまえが見せた体は骨と皮だ。栄養失調寸前だぞ。それで借りてもいない金を返すだと? 笑わせるな!」

 澪の手指は凄まじい労働により荒れていた。皮は捲れて湿疹が帯状にあり、赤く腫れている。体も同様だった。晃久に惨めな体を見られてしまったことを、澪は恥じた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

欠陥αは運命を追う

豆ちよこ
BL
「宗次さんから番の匂いがします」 従兄弟の番からそう言われたアルファの宝条宗次は、全く心当たりの無いその言葉に微かな期待を抱く。忘れ去られた記憶の中に、自分の求める運命の人がいるかもしれないーー。 けれどその匂いは日に日に薄れていく。早く探し出さないと二度と会えなくなってしまう。匂いが消える時…それは、番の命が尽きる時。 ※自己解釈・自己設定有り ※R指定はほぼ無し ※アルファ(攻め)視点

婚約者は愛を見つけたらしいので、不要になった僕は君にあげる

カシナシ
BL
「アシリス、すまない。婚約を解消してくれ」 そう告げられて、僕は固まった。5歳から13年もの間、婚約者であるキール殿下に尽くしてきた努力は一体何だったのか? 殿下の隣には、可愛らしいオメガの男爵令息がいて……。 サクッとエロ&軽めざまぁ。 全10話+番外編(別視点)数話 本編約二万文字、完結しました。 ※HOTランキング最高位6位、頂きました。たくさんの閲覧、ありがとうございます! ※本作の数年後のココルとキールを描いた、 『訳ありオメガは罪の証を愛している』 も公開始めました。読む際は注意書きを良く読んで下さると幸いです!

天の求婚

紅林
BL
太平天帝国では5年ほど前から第一天子と第二天子によって帝位継承争いが勃発していた。 主人公、新田大貴子爵は第二天子派として広く活動していた亡き父の跡を継いで一年前に子爵家を継いだ。しかし、フィラデルフィア合衆国との講和条約を取り付けた第一天子の功績が認められ次期帝位継承者は第一天子となり、派閥争いに負けた第二天子派は継承順位を下げられ、それに付き従った者の中には爵位剥奪のうえ、帝都江流波から追放された華族もいた そして大貴もその例に漏れず、邸宅にて謹慎を申し付けられ現在は華族用の豪華な護送車で大天族の居城へと向かっていた 即位したての政権が安定していない君主と没落寸前の血筋だけは立派な純血華族の複雑な結婚事情を描いた物語

巨根王宮騎士(アルファ)に食べられた僕(オメガ)!

天災
BL
 巨根王宮騎士は恐ろしい!

処女姫Ωと帝の初夜

切羽未依
BL
αの皇子を産むため、男なのに姫として後宮に入れられたΩのぼく。  七年も経っても、未だに帝に番われず、未通(おとめ=処女)のままだった。  幼なじみでもある帝と仲は良かったが、Ωとして求められないことに、ぼくは不安と悲しみを抱えていた・・・  『紫式部~実は、歴史上の人物がΩだった件』の紫式部の就職先・藤原彰子も実はΩで、男の子だった!?というオメガバースな歴史ファンタジー。  歴史や古文が苦手でも、だいじょうぶ。ふりがな満載・カッコ書きの説明大量。  フツーの日本語で書いています。

無臭オメガは静かにしていたかった。

天災
BL
 無臭オメガは静かにしていたかった。

森の中の華 (オメガバース、α✕Ω、完結)

Oj
BL
オメガバースBLです。 受けが妊娠しますので、ご注意下さい。 コンセプトは『受けを妊娠させて吐くほど悩む攻め』です。 ちょっとヤンチャなアルファ攻め✕大人しく不憫なオメガ受けです。 アルファ兄弟のどちらが攻めになるかは作中お楽しみいただけたらと思いますが、第一話でわかってしまうと思います。 ハッピーエンドですが、そこまで受けが辛い目に合い続けます。 菊島 華 (きくしま はな)   受 両親がオメガのという珍しい出生。幼い頃から森之宮家で次期当主の妻となるべく育てられる。囲われています。 森之宮 健司 (もりのみや けんじ) 兄  森之宮家時期当主。品行方正、成績優秀。生徒会長をしていて学校内での信頼も厚いです。 森之宮 裕司 (もりのみや ゆうじ) 弟 森之宮家次期当主。兄ができすぎていたり、他にも色々あって腐っています。 健司と裕司は二卵性の双子です。 オメガバースという第二の性別がある世界でのお話です。 男女の他にアルファ、ベータ、オメガと性別があり、オメガは男性でも妊娠が可能です。 アルファとオメガは数が少なく、ほとんどの人がベータです。アルファは能力が高い人間が多く、オメガは妊娠に特化していて誘惑するためのフェロモンを出すため恐れられ卑下されています。 その地方で有名な企業の子息であるアルファの兄弟と、どちらかの妻となるため育てられたオメガの少年のお話です。 この作品では第二の性別は17歳頃を目安に判定されていきます。それまでは検査しても確定されないことが多い、という設定です。 また、第二の性別は親の性別が反映されます。アルファ同士の親からはアルファが、オメガ同士の親からはオメガが生まれます。 独自解釈している設定があります。 第二部にて息子達とその恋人達です。 長男 咲也 (さくや) 次男 伊吹 (いぶき) 三男 開斗 (かいと) 咲也の恋人 朝陽 (あさひ) 伊吹の恋人 幸四郎 (こうしろう) 開斗の恋人 アイ・ミイ 本編完結しています。 今後は短編を更新する予定です。

この愛のすべて

高嗣水清太
BL
 「妊娠しています」  そう言われた瞬間、冗談だろう?と思った。  俺はどこからどう見ても男だ。そりゃ恋人も男で、俺が受け身で、ヤることやってたけど。いきなり両性具有でした、なんて言われても困る。どうすればいいんだ――。 ※この話は2014年にpixivで連載、2015年に再録発行した二次小説をオリジナルとして少し改稿してリメイクしたものになります。  両性具有や生理、妊娠、中絶等、描写はないもののそういった表現がある地雷が多い話になってます。少し生々しいと感じるかもしれません。加えて私は医学を学んだわけではありませんので、独学で調べはしましたが、両性具有者についての正しい知識は無いに等しいと思います。完全フィクションと捉えて下さいますよう、お願いします。

処理中です...