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西島男爵 1
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小切手を丁寧な所作でアシスタントに渡した支配人は書類を差し出す。
晃久は本当に三万円の代金を支払ってしまった。大須賀晃久の名が刻まれた小切手は重厚な鞄に入れられて鍵を掛けられる。
ペンを取り書類にサインをする晃久は、澪が入室してきたことは分かっているはずなのに、こちらをちらりとも見ようとしない。怒りに満ちていることが彼の背中から伝わる。
晃久に合わせる顔がない。
あんなに会いたいと願っていたはずなのに。
どうして彼は、ここに来たのだろう。
そしてどうして手放したはずの澪を高額で買い戻してくれたのか。
元々は大須賀家の使用人だった澪を金を払って買い戻すなんて、晃久にも大須賀家にも何の得もない。
突然扉が開き、先ほど澪を競り落としそうだった晃久に似た紳士が声をかけてきた。
「なんだ、晃久。もう払ったのか。相変わらず、せっかちだな」
「浩一郎叔父さん」
なんと、ふたりは知り合いらしい。しかも叔父さんということは、大須賀家の親戚だ。
浩一郎と呼ばれた紳士は晃久と話しながらも、眸を眇めて澪を見た。
そんな眼差しも晃久に似ている。会場は薄暗かったので他人の空似かと思ったが、こうして明るい場所で改めて見ると、骨格といい、髪質といい、細かいところまで似通っていた。晃久が年を重ねて丸くなれば、現在の浩一郎と瓜二つになるのだろうと予測できた。逆に浩一郎の若かりし頃は、今の晃久に生き写しだったに違いない。
「正気か? 三万だぞ。元々澪君は大須賀家の人間なんだ。買い戻すにしても、もう少し安く済ませられただろう」
「叔父さんこそ大須賀家の指示で俺を見張ってたくせに、今度は金の指図ですか。会社から出すので問題ありません」
「私が澪君を落札すれば三千円で済んだじゃないか。彼は西島家で預かって、そこに晃久が会いに来ればいい。まったくおまえは勢いだけでねじ伏せようとするからいけない」
西島家とは、大須賀伯爵家と遠い親戚にあたる男爵だ。言われてみれば伸介の葬式で浩一郎の姿を見かけた気もする。あのときは顔立ちまで着目していなかったが、そういえば晃久にお悔やみを述べていた西島男爵だ。
険しい顔つきのまま晃久は、浩一郎の提案を一蹴した。
「冗談じゃないですよ。澪を愛人にするつもりでしょう。叔父さんの手の早さは知ってます」
「信用がないな。まあ、今回は譲ってやる」
「どうぞご自由に大須賀家に報告してください。澪、いくぞ」
名を呼ばれて、びくりと肩が跳ねる。晃久は全く澪を見ない。きっと、大金を払わせたことを怒っているのだろう。娼館に借金もあるのに、三万円なんていう大金を晃久に返せるだろうか。
澪が項垂れて晃久の後に従おうとすると、事務所から事態を見守っていたであろう娼館の主人が顔を出した。晃久にへりくだるように身を屈めている。
「これはこれは、大須賀伯爵家の若旦那様。お初にお目にかかります。わたくしは澪の面倒を伯爵夫人に頼まれて見ていたのですが、このたびはこういったことになりまして、何と申しますか……」
晃久は揉み手ですり寄ってくる主人を見下した。
「貴様、まだ何かあるのか。伯爵夫人からは金を受け取ったそうだな。面倒を見ていただと? 澪の体と顔を見ればどんな待遇を受けていたのか一目瞭然だ。娼館を潰されないだけ有り難く思え」
晃久は既に澪の事情を知った上で、劇場を訪れたらしい。主人は体を小さくしながらも、窺うような上目で晃久を見た。
「あのう……お金はいただけますよね?」
晃久の眉が跳ね上がる。もはや虫を見るような目で主人を睥睨した。
「何の金だ」
「あの、若さま。実は僕、ご主人に借金があるんです。そのお金を返せないので、ご主人はこの劇場を紹介してくれたんです」
主人がお金を要求するのは正当な行為に思えた。借金を返せなかったのは事実であるし、結果オークションで澪は落札されたので、晃久の支払った金額の中から主人はお金を受け取ることができて借金も清算されるということになるはずだ。
「借金だと? 何の借金だ」
「ご主人が僕を預かるために、奥様から渡されたお金が少なかったので、足りない分を僕の給料で補っていたのです。そのお金が借金として……残っています……」
説明するうちに、みるみる晃久の形相が憤怒に変わる。元々切れ上がった眦は鬼のように吊り上げられた。
「馬鹿か、おまえは! そんなものはおまえをただで働かせるための屁理屈だ!」
晃久は怒りを爆発させた。激しく叱責されて、澪は首を竦める。ぐい、と手首を取られて、眼前に掲げられる。
「この荒んだ手! 折れそうな細い手首! おまえが見せた体は骨と皮だ。栄養失調寸前だぞ。それで借りてもいない金を返すだと? 笑わせるな!」
澪の手指は凄まじい労働により荒れていた。皮は捲れて湿疹が帯状にあり、赤く腫れている。体も同様だった。晃久に惨めな体を見られてしまったことを、澪は恥じた。
晃久は本当に三万円の代金を支払ってしまった。大須賀晃久の名が刻まれた小切手は重厚な鞄に入れられて鍵を掛けられる。
ペンを取り書類にサインをする晃久は、澪が入室してきたことは分かっているはずなのに、こちらをちらりとも見ようとしない。怒りに満ちていることが彼の背中から伝わる。
晃久に合わせる顔がない。
あんなに会いたいと願っていたはずなのに。
どうして彼は、ここに来たのだろう。
そしてどうして手放したはずの澪を高額で買い戻してくれたのか。
元々は大須賀家の使用人だった澪を金を払って買い戻すなんて、晃久にも大須賀家にも何の得もない。
突然扉が開き、先ほど澪を競り落としそうだった晃久に似た紳士が声をかけてきた。
「なんだ、晃久。もう払ったのか。相変わらず、せっかちだな」
「浩一郎叔父さん」
なんと、ふたりは知り合いらしい。しかも叔父さんということは、大須賀家の親戚だ。
浩一郎と呼ばれた紳士は晃久と話しながらも、眸を眇めて澪を見た。
そんな眼差しも晃久に似ている。会場は薄暗かったので他人の空似かと思ったが、こうして明るい場所で改めて見ると、骨格といい、髪質といい、細かいところまで似通っていた。晃久が年を重ねて丸くなれば、現在の浩一郎と瓜二つになるのだろうと予測できた。逆に浩一郎の若かりし頃は、今の晃久に生き写しだったに違いない。
「正気か? 三万だぞ。元々澪君は大須賀家の人間なんだ。買い戻すにしても、もう少し安く済ませられただろう」
「叔父さんこそ大須賀家の指示で俺を見張ってたくせに、今度は金の指図ですか。会社から出すので問題ありません」
「私が澪君を落札すれば三千円で済んだじゃないか。彼は西島家で預かって、そこに晃久が会いに来ればいい。まったくおまえは勢いだけでねじ伏せようとするからいけない」
西島家とは、大須賀伯爵家と遠い親戚にあたる男爵だ。言われてみれば伸介の葬式で浩一郎の姿を見かけた気もする。あのときは顔立ちまで着目していなかったが、そういえば晃久にお悔やみを述べていた西島男爵だ。
険しい顔つきのまま晃久は、浩一郎の提案を一蹴した。
「冗談じゃないですよ。澪を愛人にするつもりでしょう。叔父さんの手の早さは知ってます」
「信用がないな。まあ、今回は譲ってやる」
「どうぞご自由に大須賀家に報告してください。澪、いくぞ」
名を呼ばれて、びくりと肩が跳ねる。晃久は全く澪を見ない。きっと、大金を払わせたことを怒っているのだろう。娼館に借金もあるのに、三万円なんていう大金を晃久に返せるだろうか。
澪が項垂れて晃久の後に従おうとすると、事務所から事態を見守っていたであろう娼館の主人が顔を出した。晃久にへりくだるように身を屈めている。
「これはこれは、大須賀伯爵家の若旦那様。お初にお目にかかります。わたくしは澪の面倒を伯爵夫人に頼まれて見ていたのですが、このたびはこういったことになりまして、何と申しますか……」
晃久は揉み手ですり寄ってくる主人を見下した。
「貴様、まだ何かあるのか。伯爵夫人からは金を受け取ったそうだな。面倒を見ていただと? 澪の体と顔を見ればどんな待遇を受けていたのか一目瞭然だ。娼館を潰されないだけ有り難く思え」
晃久は既に澪の事情を知った上で、劇場を訪れたらしい。主人は体を小さくしながらも、窺うような上目で晃久を見た。
「あのう……お金はいただけますよね?」
晃久の眉が跳ね上がる。もはや虫を見るような目で主人を睥睨した。
「何の金だ」
「あの、若さま。実は僕、ご主人に借金があるんです。そのお金を返せないので、ご主人はこの劇場を紹介してくれたんです」
主人がお金を要求するのは正当な行為に思えた。借金を返せなかったのは事実であるし、結果オークションで澪は落札されたので、晃久の支払った金額の中から主人はお金を受け取ることができて借金も清算されるということになるはずだ。
「借金だと? 何の借金だ」
「ご主人が僕を預かるために、奥様から渡されたお金が少なかったので、足りない分を僕の給料で補っていたのです。そのお金が借金として……残っています……」
説明するうちに、みるみる晃久の形相が憤怒に変わる。元々切れ上がった眦は鬼のように吊り上げられた。
「馬鹿か、おまえは! そんなものはおまえをただで働かせるための屁理屈だ!」
晃久は怒りを爆発させた。激しく叱責されて、澪は首を竦める。ぐい、と手首を取られて、眼前に掲げられる。
「この荒んだ手! 折れそうな細い手首! おまえが見せた体は骨と皮だ。栄養失調寸前だぞ。それで借りてもいない金を返すだと? 笑わせるな!」
澪の手指は凄まじい労働により荒れていた。皮は捲れて湿疹が帯状にあり、赤く腫れている。体も同様だった。晃久に惨めな体を見られてしまったことを、澪は恥じた。
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