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世界に、ふたりきり

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 数日後、澪は緊張した面持ちで黒塗りの高級車に乗っていた。隣には優雅な笑みを浮かべた晃久が座り、澪の手を握っている。
 事の発端は、晃久が屋敷で行われるパーティーに澪も出席するのだと告げたことだ。
 華族は家同士の親睦を深める目的で、度々屋敷でパーティーが開催されている。大須賀伯爵家も例に漏れず、高名な侯爵や伯爵などを招いて豪華な料理をふるまい、音楽隊による生演奏を披露していた。パーティーが予定されれば澪たち使用人は大がかりな準備に追われる。澪も広間に飾る花の調達や飾りつけに大忙しだ。

 ところが今回は、大須賀家の一員として参加しろという。
 そんなことは許されないと断ったが、なんと晃久は藤子や幸之介は既に説き伏せたと豪語した。
 藤子は特に澪が公の場に出ることを好ましく思っていないはずなのに、どうやって説得したのか不思議だ。伸介の葬式のときには、最後まで晃久から澪を引き離そうと睨んでいたのに。
 でもあのときも、晃久が最後のお別れだからと言って、澪を参列させてくれたのだ。もう「お父さん」と呼ぶことはないけれど、穏やかな死に顔を見届けることができた。晃久には本当に感謝している。だからこそ彼が行うことは、決して澪に悪いようにはならないという信頼があった。パーティーに参加させる晃久の意図は分からないけれど、澪は承諾した。

「着いたぞ。さあ、澪」

 上機嫌の晃久に誘われて、車が到着した店舗へ入る。
 パーティーに着ていく服がないので、晃久が仕立屋に連れてきてくれたのだ。
 町の仕立屋はとても華やかで洒落た店だった。棚には上質の生地が燦然と並べられている。
 澪は仕立屋を訪れたのも初めてなので胸を躍らせた。

「お待ちしておりました、晃久様」

 首にメジャーを巻き付けた人の良さそうな紳士が晃久に挨拶する。彼には見覚えがある。時々屋敷に出入りしている仕立屋の主人だ。ここは彼の経営する店らしい。

「今日は澪のスーツを頼む。もっとも上質な生地で作ってくれ」
「かしこまりました。澪様、どうぞこちらへ」

 澪様、なんて呼ばれて恐縮してしまう。ここでは澪はお客様のひとりなのだ。晃久に恥を掻かせないよう、堂々としていなくては。
 店舗の奥の部屋に通される。そこには他のお客はおらず、専用に使えるようだった。
 踏み台に上がり、体の各部をメジャーで丁寧に測られる。晃久は部屋に用意されていた猫足の椅子に長い足を組んで座り、採寸されている澪を満足げに眺めていた。

 やがて採寸が終わり、一息つく。
 晃久が向かいの椅子に座れと指し示すので、腰を落ち着ける。
 仕立屋の主人は分厚い冊子を持参してきた。

「お色はいかがいたしましょう」

 冊子を開けば、数々の生地が小さく切り取られて貼り付けられていた。生地の見本帳のようだ。

「そうだな。基本は黒だが、澪は細身だから明るい色がいいな。白なんかどうだ。若草色も捨てがたいな」

 普段は迷うことなどない晃久だが、冊子を捲ってはあれこれと目移りして悩んでいる。女中が運んできてくれた紅茶をふうふうと吹き冷まして飲んだ澪は、腕組みをして真剣に選んでいる晃久を微笑ましく見ていた。
 僕のために、若さまは悩んでくださっている。
 晃久の心遣いが嬉しかった。まるで、彼の心を独り占めにしたようで。

「澪はどれがいい? それとも全種類の生地ですべての色をオーダーするか」
「そんな! とんでもありません」

 そんな大金は使わせられない。一着いただければ充分だ。
 主人の意見も聞いて相談した結果、若草色が爽やかで映えるのではないかという意見に纏まった。オーダーメイドのスーツが出来上がるのは数日先だが、それとは別に購入した既製品のスーツは体にぴたりと馴染んでいた。白藤色のスーツに菫色のネクタイが楚々として貴人らしいと褒められて、澪としては面映ゆい限りだ。

「清純な澪にぴったりだな。よし、次は靴だ」

 さらりと恥ずかしい褒め方をした晃久に連れられて、隣接した靴屋に入る。ぴかぴかに光る革靴を履いたかと思えば、次の店では輝くカフスを手元に付けられた。晃久は楽しそうに澪を着飾り、ふたりの買い物は日が暮れるまで続けられた。



 買い物が終われば、ふたりは高級なレストランへ赴いた。晃久の行きつけの店らしく、彼が入店すると店主らしき老紳士が慇懃に挨拶をしてくれる。
 テーブルに着くと、窓からは煌めく夜景が眺望できた。けれど晃久は夜景には目もくれず、双眸を眇めて白藤色のスーツを纏う澪の姿に見入っていた。

「今日はありがとうございました。こんなに沢山買っていただいて……申し訳ないです」
「気にするな。俺がそうしたいんだ」

 ワイングラスを傾けながら、晃久は飽きもせず澪に眼差しを注ぐ。ワインは全く見ていない。美味しそうな料理が運ばれても、晃久はカトラリーに手をつけない。

「どうした、冷めるぞ。食べろ」
「若さまこそ。僕ばかり見ていては食べられないですよ」
「俺は澪を眺めることで忙しいんだ。料理はいつでも食える」

 そんなことを言われると、まるで自分が特別な美術品にでもなったように思えて恥ずかしい。煌めく夜景よりも、極上の料理よりも優先されるなんて。
 澪は微笑んで肩を竦めた。

「そんなに見られたら食べられません」
「この……小悪魔め」

 口端を引き上げた晃久はワイングラスを置くと、ようやくカトラリーを手にする。
 けれど視線は澪から離せないようで、正面の澪を見据えながら器用にナイフとフォークを操っている。
 澪も食事を始めるが、いつ目線を上げても晃久はこちらを凝視しているので恥ずかしくてたまらない。
 綺麗な宝石のように飾りつけられている料理はとても美味しい。
 こんなに素晴らしい料理を食べて、上等な洋服を贈られて、とても幸せだ。
 けれど澪がもっとも嬉しかったのは、晃久が澪だけを眼に入れてくれることだった。

 若さまの眸に僕が映っている。
 その現実が熱く胸を焦がした。
 澪の眸にもまた、晃久だけが映っている。
 煌めく燭台の灯火が見つめ合うふたりを浮かび上がらせている。
 まるで世界に、ふたりきりのよう。
 澪と晃久は和やかに語り合い、微笑みを交わしながら、ふたりの食事を楽しんだ。
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