14 / 112
伯爵家の秘密 2
しおりを挟む
二階には廊下の突き当たりに水場もある。手を洗ったり、水を流すための洗面所だ。澪は一輪挿しを手にして洗面所へ赴き、水を入れた。
部屋に戻り、一輪挿しを飾る。琉球硝子の繊細な模様に華麗な薔薇が映えていた。
「それでは……」
失礼します、と言いかけて退出しようとしたら、晃久がすぐ後ろに立っていた。口端を引き上げて薔薇を眺めている。
片方の口端を引き上げるのは、いつも晃久がする癖のようなものだ。御曹司だと思って嫌みだ、と庭師のひとりが呟いていたのを耳にしたことがあるが、澪は子どもの頃から見慣れているためか気にならない。傲慢に見えるその仕草はむしろ、晃久が少なからず喜んでいる現れなので、無表情よりはずっと嬉しい。
「可憐だ。澪の唇と同じ色をしている」
ふわりと背後から抱きしめられて、鼓動が跳ねる。
いつも強引で有無を言わせない晃久だが、今の彼の腕は壊れ物を扱うように澪の体をそっと抱えていた。まるで澪が嫌がれば、解いても良いというように。
澪は、どうして良いのか分からなくなる。
けれど背に密着した晃久の胸が熱くて、すぐ傍に感じる彼の吐息が狂おしいほどに胸をざわめかせる。
「僕の唇はこのような色なんですね……」
「そうだ。紅く、誘うように淫らで、けれど品があり楚々としている。この薔薇の名前は、澪と名づけよう」
薔薇の正式な名はあるのだが、晃久が澪の名を特別なものにしてくれたように思えて、喜びが胸の裡に滲む。
「ありがとうございます」
「それだけか?」
「え」
「名付け親への礼は?」
「お礼……ですか?」
悪戯めいた眸をむけた晃久に腕を引かれて、ソファへ倒れるように身を投げ出す。気づけば澪は、晃久の膝の上に乗り上げて抱きしめられる格好になっていた。
「あ」
いつもの。
近頃はなくなっていた晃久の悪ふざけだ。
とくりと鼓動が鳴り、頬が朱に染まる。
あんな夜を過ごした後でする戯れは、何だかとても恥ずかしくて。
「ほら。顔を見せろ」
俯いていると頤に手をかけられて、上向かせられた。
嬉しそうに微笑んだ晃久が眼前に迫り、耳朶を指先で弄られる。
「柔らかいな。噛んだら欠けてしまいそうだ」
「んっ……若さま……」
甘噛みしようと、晃久が顔を傾けて口を開ける。
首を竦めた澪は衝撃に耐えようと目を瞑った。
突然、無遠慮に部屋の扉が開けられる。
はっとして扉に目をむければ、晃久の母親である藤子が眉根を寄せて立っていた。
「晃久。何をなさっているの」
刺々しい声音は澪を責めるように突き刺さる。
慌てて晃久の膝の上から降りようとしたが、それを許さないかのように強い力で腰を抱かれた。
「ノックくらいしてください。母上」
「あなたがくだらない遊びに耽っているのを見過ごせません。いつまでその使用人を屋敷に入れているの。汚らわしい」
汚物を見るような目で澪を見下した藤子は、ハンカチを口元に宛てて顔を背ける。
澪は居たたまれなくなり、小さく体を丸めた。
藤子は澪の母が健在だった頃からこのような態度で、澪と母を避けていた。それも当然のことだと思う。藤子にとって澪たちは、夫を奪った泥棒猫なのだ。泥棒の分際で屋敷に居座られるのも迷惑なはずだ。
けれど澪は他に行き場がないので、せめて庭師として働いて奉公しようと願っている。
晃久は藤子の言うことを歯牙にもかけず、鼻で嗤い飛ばした。
「俺はもう二六歳です。成人してからも母親に指図を受けるとは、困りましたね」
「お義父さまが知ったらどうします。あなたはこの大須賀伯爵家の当主となる人なのですよ。もっと自覚を持って責任ある行動を取りなさい」
「またその話ですか。やれやれ」
興醒めしたように晃久は腰を上げた。澪は素早く立ち上がり、部屋の隅に控えて頭を下げる。大須賀伯爵家の当主は、伸介が亡くなってからは晃久の祖父である幸之介に戻された。いずれ立派になった晃久に継がせると、幸之介が宣言しているのを澪も聞き及んでいる。
その日が近づいているので、母の藤子も心配なのだ。
若さまは僕と、こんなことをしていてはいけないんだ……。
嘆息した藤子が階下に戻り、靴音が遠ざかる。
晃久は、ぽつりと呟いた。
「責任ある行動か。確かに、責任は取らないといけないな」
これで、澪との戯れも終わりになるのだろうか。永遠に。
寂寥感が込み上げたが、無理やり心の奥に捩じ込む。寂しいなんて思ってはいけない。
「申し訳ありませんでした。僕のせいで奥様に不快な思いをさせてしまいました」
硬い面持ちで謝罪すれば、晃久はなぜか不愉快そうに眉をひそめた。
澪の眼前に歩を進め、立ち塞がるようにして見下ろされる。
そうされると華奢な澪は、晃久の体に隠れるようにすっぽりと収まった。
「澪。おまえの主人は誰なんだ?」
「え……。えっと……大旦那様です」
屋敷の使用人は皆、当主である大須賀幸之介の名で雇われている。あくまでも名義の上での主人ということだが。
澪の返事がたいそう不満だった晃久は、怖い顔をして壁に手を付けた。囲われるように壁に押しつけられ、澪は瞬きをして精悍な面差しを見上げる。
「もう一度聞く。おまえの唇に口づけて、体の奥を濡らしたのは、誰なんだ?」
「そ、それは……!」
「答えろ。誰だ」
「……若さまです。大須賀晃久さまです」
「そうだろう。ならばおまえは俺の言うことを聞いていればいい。澪の主人は、俺だ。他の者の命令など聞く必要はない」
「……はい。分かりました」
そういうわけにもいかないと思うが、ひとまず了承する。
晃久は生まれながらの王のような性質なので、何事も自分の思い通りにならなければ気が済まないのだろう。いずれ晃久が伯爵家を継げば、澪は自動的に晃久の名義で大須賀家の使用人になるのだから、この場で認めさせなくても良いのではと思うのだが。
「中出しの責任は、いずれ取る」
ひとつ言い放ち、晃久は澪を解放した。
咄嗟に何のことを言われたのか分からず茫然とした澪は、直後に顔を赤らめる。
「え、な、なか……」
どうしてその責任を取るという話になるのだ。
恥ずかしい単語を臆面もなく、さらりと口に出す晃久に悪気は見られない。堂々としている彼はむしろ、悪気を突き抜けている。
「し、失礼します!」
また、からかわれている。
澪が困惑するのを見て、晃久は楽しんでいるのだ。本当に意地悪だ。
真っ赤になった顔を隠すように俯いて、澪は書斎を飛び出した。
部屋に戻り、一輪挿しを飾る。琉球硝子の繊細な模様に華麗な薔薇が映えていた。
「それでは……」
失礼します、と言いかけて退出しようとしたら、晃久がすぐ後ろに立っていた。口端を引き上げて薔薇を眺めている。
片方の口端を引き上げるのは、いつも晃久がする癖のようなものだ。御曹司だと思って嫌みだ、と庭師のひとりが呟いていたのを耳にしたことがあるが、澪は子どもの頃から見慣れているためか気にならない。傲慢に見えるその仕草はむしろ、晃久が少なからず喜んでいる現れなので、無表情よりはずっと嬉しい。
「可憐だ。澪の唇と同じ色をしている」
ふわりと背後から抱きしめられて、鼓動が跳ねる。
いつも強引で有無を言わせない晃久だが、今の彼の腕は壊れ物を扱うように澪の体をそっと抱えていた。まるで澪が嫌がれば、解いても良いというように。
澪は、どうして良いのか分からなくなる。
けれど背に密着した晃久の胸が熱くて、すぐ傍に感じる彼の吐息が狂おしいほどに胸をざわめかせる。
「僕の唇はこのような色なんですね……」
「そうだ。紅く、誘うように淫らで、けれど品があり楚々としている。この薔薇の名前は、澪と名づけよう」
薔薇の正式な名はあるのだが、晃久が澪の名を特別なものにしてくれたように思えて、喜びが胸の裡に滲む。
「ありがとうございます」
「それだけか?」
「え」
「名付け親への礼は?」
「お礼……ですか?」
悪戯めいた眸をむけた晃久に腕を引かれて、ソファへ倒れるように身を投げ出す。気づけば澪は、晃久の膝の上に乗り上げて抱きしめられる格好になっていた。
「あ」
いつもの。
近頃はなくなっていた晃久の悪ふざけだ。
とくりと鼓動が鳴り、頬が朱に染まる。
あんな夜を過ごした後でする戯れは、何だかとても恥ずかしくて。
「ほら。顔を見せろ」
俯いていると頤に手をかけられて、上向かせられた。
嬉しそうに微笑んだ晃久が眼前に迫り、耳朶を指先で弄られる。
「柔らかいな。噛んだら欠けてしまいそうだ」
「んっ……若さま……」
甘噛みしようと、晃久が顔を傾けて口を開ける。
首を竦めた澪は衝撃に耐えようと目を瞑った。
突然、無遠慮に部屋の扉が開けられる。
はっとして扉に目をむければ、晃久の母親である藤子が眉根を寄せて立っていた。
「晃久。何をなさっているの」
刺々しい声音は澪を責めるように突き刺さる。
慌てて晃久の膝の上から降りようとしたが、それを許さないかのように強い力で腰を抱かれた。
「ノックくらいしてください。母上」
「あなたがくだらない遊びに耽っているのを見過ごせません。いつまでその使用人を屋敷に入れているの。汚らわしい」
汚物を見るような目で澪を見下した藤子は、ハンカチを口元に宛てて顔を背ける。
澪は居たたまれなくなり、小さく体を丸めた。
藤子は澪の母が健在だった頃からこのような態度で、澪と母を避けていた。それも当然のことだと思う。藤子にとって澪たちは、夫を奪った泥棒猫なのだ。泥棒の分際で屋敷に居座られるのも迷惑なはずだ。
けれど澪は他に行き場がないので、せめて庭師として働いて奉公しようと願っている。
晃久は藤子の言うことを歯牙にもかけず、鼻で嗤い飛ばした。
「俺はもう二六歳です。成人してからも母親に指図を受けるとは、困りましたね」
「お義父さまが知ったらどうします。あなたはこの大須賀伯爵家の当主となる人なのですよ。もっと自覚を持って責任ある行動を取りなさい」
「またその話ですか。やれやれ」
興醒めしたように晃久は腰を上げた。澪は素早く立ち上がり、部屋の隅に控えて頭を下げる。大須賀伯爵家の当主は、伸介が亡くなってからは晃久の祖父である幸之介に戻された。いずれ立派になった晃久に継がせると、幸之介が宣言しているのを澪も聞き及んでいる。
その日が近づいているので、母の藤子も心配なのだ。
若さまは僕と、こんなことをしていてはいけないんだ……。
嘆息した藤子が階下に戻り、靴音が遠ざかる。
晃久は、ぽつりと呟いた。
「責任ある行動か。確かに、責任は取らないといけないな」
これで、澪との戯れも終わりになるのだろうか。永遠に。
寂寥感が込み上げたが、無理やり心の奥に捩じ込む。寂しいなんて思ってはいけない。
「申し訳ありませんでした。僕のせいで奥様に不快な思いをさせてしまいました」
硬い面持ちで謝罪すれば、晃久はなぜか不愉快そうに眉をひそめた。
澪の眼前に歩を進め、立ち塞がるようにして見下ろされる。
そうされると華奢な澪は、晃久の体に隠れるようにすっぽりと収まった。
「澪。おまえの主人は誰なんだ?」
「え……。えっと……大旦那様です」
屋敷の使用人は皆、当主である大須賀幸之介の名で雇われている。あくまでも名義の上での主人ということだが。
澪の返事がたいそう不満だった晃久は、怖い顔をして壁に手を付けた。囲われるように壁に押しつけられ、澪は瞬きをして精悍な面差しを見上げる。
「もう一度聞く。おまえの唇に口づけて、体の奥を濡らしたのは、誰なんだ?」
「そ、それは……!」
「答えろ。誰だ」
「……若さまです。大須賀晃久さまです」
「そうだろう。ならばおまえは俺の言うことを聞いていればいい。澪の主人は、俺だ。他の者の命令など聞く必要はない」
「……はい。分かりました」
そういうわけにもいかないと思うが、ひとまず了承する。
晃久は生まれながらの王のような性質なので、何事も自分の思い通りにならなければ気が済まないのだろう。いずれ晃久が伯爵家を継げば、澪は自動的に晃久の名義で大須賀家の使用人になるのだから、この場で認めさせなくても良いのではと思うのだが。
「中出しの責任は、いずれ取る」
ひとつ言い放ち、晃久は澪を解放した。
咄嗟に何のことを言われたのか分からず茫然とした澪は、直後に顔を赤らめる。
「え、な、なか……」
どうしてその責任を取るという話になるのだ。
恥ずかしい単語を臆面もなく、さらりと口に出す晃久に悪気は見られない。堂々としている彼はむしろ、悪気を突き抜けている。
「し、失礼します!」
また、からかわれている。
澪が困惑するのを見て、晃久は楽しんでいるのだ。本当に意地悪だ。
真っ赤になった顔を隠すように俯いて、澪は書斎を飛び出した。
1
お気に入りに追加
1,134
あなたにおすすめの小説



僕の番
結城れい
BL
白石湊(しらいし みなと)は、大学生のΩだ。αの番がいて同棲までしている。最近湊は、番である森颯真(もり そうま)の衣服を集めることがやめられない。気づかれないように少しずつ集めていくが――
※他サイトにも掲載

孕めないオメガでもいいですか?
月夜野レオン
BL
病院で子供を孕めない体といきなり診断された俺は、どうして良いのか判らず大好きな幼馴染の前から消える選択をした。不完全なオメガはお前に相応しくないから……
オメガバース作品です。

上手に啼いて
紺色橙
BL
■聡は10歳の初めての発情期の際、大輝に噛まれ番となった。それ以来関係を継続しているが、愛ではなく都合と情で続いている現状はそろそろ終わりが見えていた。
■注意*独自オメガバース設定。■『それは愛か本能か』と同じ世界設定です。関係は一切なし。


春を拒む【完結】
璃々丸
BL
日本有数の財閥三男でΩの北條院環(ほうじょういん たまき)の目の前には見るからに可憐で儚げなΩの女子大生、桜雛子(さくら ひなこ)が座っていた。
「ケイト君を解放してあげてください!」
大きなおめめをうるうるさせながらそう訴えかけてきた。
ケイト君────諏訪恵都(すわ けいと)は環の婚約者であるαだった。
環とはひとまわり歳の差がある。この女はそんな環の負い目を突いてきたつもりだろうが、『こちとらお前等より人生経験それなりに積んどんねん────!』
そう簡単に譲って堪るか、と大人げない反撃を開始するのであった。
オメガバな設定ですが設定は緩めで独自設定があります、ご注意。
不定期更新になります。

欠陥αは運命を追う
豆ちよこ
BL
「宗次さんから番の匂いがします」
従兄弟の番からそう言われたアルファの宝条宗次は、全く心当たりの無いその言葉に微かな期待を抱く。忘れ去られた記憶の中に、自分の求める運命の人がいるかもしれないーー。
けれどその匂いは日に日に薄れていく。早く探し出さないと二度と会えなくなってしまう。匂いが消える時…それは、番の命が尽きる時。
※自己解釈・自己設定有り
※R指定はほぼ無し
※アルファ(攻め)視点
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる