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結婚の誓い

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「接吻したから、澪は俺の花嫁になるんだぞ」
「はなよめ?」
「そう。大人になったら結婚するんだ」

 あ、と澪は晃久が思い違いをしていることに気づいた。
 彼は澪を女の子だと思ったのだ。
 だから接吻したり、花嫁にするなんて言うのだ。

「僕は男なんだよ。だから坊ちゃんの花嫁にはなれないよ」

 衝撃の事実だったはずだが、晃久は驚くどころか、いっそう笑みを深くする。

「俺は世間の常識になんか従わないからいいんだよ。澪が俺の花嫁になるのは、俺の常識だから」

 彼が何を言っているのか、難しくて理解できない。
 晃久はとても頭が良いのだろう。そして澪とは違う種類の人間で、雲の上の人なのだ。

「俺以外の誰にも接吻を許すんじゃないぞ。俺も澪としかしない。ふたりだけの秘密だからな」
「うん。だれにも言わない」

 ふたりだけのひみつ。
 その響きは薔薇の芳香のごとく、とてつもなく甘美だった。
 晃久は約束を縫いつけるかのように、固く澪の手を握りしめた。彼の力強い眼差しを、憧憬を込めて見返す。
 晃久は生まれながらの王なのだ。
 僕はいずれ、この人の花嫁になるんだ。
 純真な子ども心に、澪はそう刻みつけた。



 庭園には夜の帳が降りている。
 一日の仕事を終えた澪は自宅に戻ってきた。幼い頃は母とふたりで暮らしていた小さな家屋は、今は澪ひとりで住んでいる。母は数年前に病気で亡くなった。その後を追うようにして旦那様も病に倒れてしまい、まもなく鬼籍に入られた。旦那様のお葬式のときには奥様が澪の参列を拒絶したが、晃久が奥様を説得してくれた。しかも使用人なのに次期当主となる晃久の隣に座らせてもらい、澪は恐縮するばかりだった。

「今日はお仕事で忙しいのかな……」

 朝は、帰ったら花弁を啄むなんて戯れ言を言っていたが、晃久は会社を経営しているのでとても忙しい身だ。それなのに、澪に度々構っては悪戯のようなことをするのだから困ってしまう。
 けれど、晃久がいないと思うと安堵よりも心細さが募った。
 ひとりで夕飯の支度をして卓で食べながら、つい時計を見上げる。

 遅く帰宅したときでも晃久は澪を呼び出すことがある。お屋敷は敷地内なので歩いてすぐだ。
 呼び出す理由は仕事を言いつけるわけでもなく、実にくだらないことばかり。食事をしている晃久の食べかけのものを口に入れろだとか、シャワーを浴びている姿をそこで見ていろだとか。要するに、からかわれている。困る澪の顔を見て、晃久は楽しんでいるらしい。
 いくら幼なじみとはいえ大須賀伯爵家の御曹司と使用人なのだから、澪を自室はおろか浴室にまで招き入れるのはどうかと思う。晃久の祖父である幸之介こうのすけや、母の藤子ふじこは良い顔をしないだろう。それが目下の困りごとだ。
 
 しばらく待ってみたが、何だか体調が悪いことに気がついた。
 熱っぽくて、体が疼くような感じがする。風邪だろうか。昼間は仕事をこなせたので、たいしたことはないだろう。
 今夜は早めに寝てしまおうと風呂に入って寝間着にしている浴衣に着替えたとき、車のエンジン音が窓の外から聞こえてきた。
 晃久だ。帰ってきたらしい。
 車は屋敷に向かうはずが、なぜか突然停車する。ドアが開閉する音が響いた。
 あれ、と首を捻っていると、玄関の扉がノックされる。

「澪。帰ったぞ。開けてくれ」

 何と晃久が直接訪ねてきてしまった。使用人の住居に次期当主が顔を出すなんて有り得ない。ふつうは誰かを使いにやらせるものだ。まさか酔っているのだろうか。
 澪は慌てて玄関に走り、扉を開けた。

「若さま! どうして……」
「お。風呂に入ったのか。髪が濡れているな」

 黒羽のように濡れている澪の髪を一房だけ摘まむ。
 大きな眸に縁取られた睫毛は長く、ぽってりとした唇は薔薇のように紅い。華奢な体を白練の浴衣に包んだ澪は儚げで、憐憫を誘う姿をしていた。
 満足げに笑んで澪を覗き込む晃久の顔色は常と変わらない。酒宴の帰りではないようだ。

「ここに訪ねて来ないでください。大旦那様や奥様に叱られます」

 晃久の目に剣呑な光が走った。大旦那様や奥様の名を出せば彼が不機嫌になるのは分かっているが、言わずにはいられない。澪とは友人ではないのだから、自身の立場を考えてほしいのだ。
 晃久が背筋を伸ばせば、背の高い彼に見下ろされるような格好になる。澪とは頭ひとつ身の丈が違う。立派な体躯の晃久と華奢な澪では体格も桁違いだ。

「おまえに会うのに、なぜ文句を言われなければならない。澪は俺のものなんだ。どこで会おうが俺の勝手だ」
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