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伯爵家の事情

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 澪が物心ついたときには、母とふたり暮らしをしていた。
 閑静な郊外の家はこぢんまりとしており、そこには時折男の人が訪ねてきた。
 優しそうな面影の紳士で、いつも上質のスーツを纏い、黒塗りの車に乗ってやってくる。
 澪はいつの間にかその人のことを「お父さん」と呼んでいた。
 いつも澪を可愛がってくれて、珍しいお菓子や玩具をくれる。母とも仲睦まじくしており、三人で食卓を囲んでいた。
 けれど澪は不思議に思う。

「ねえ、お母さん。どうしてお父さんはいっしょにうちに暮らさないの?」

 母の顔が強張る理由が、幼い澪には分からなかった。
 他の子はみんな、お父さんは家に一緒に住んでいる。毎日家に寝泊まりしてそこから仕事へ行くのだ。けれど澪のお父さんは逆なのである。どこかからやってきて少しの間だけ過ごし、どこかへ帰って行く。
 母は屈んで澪と視線を合わせると、言い聞かせるように言葉を紡いだ。

「澪のお父さんはね、とても忙しいのよ。だからたまにしか会えないの。でも伸介さんは、私たちと一緒に暮らしてくれるって仰ってるわ。もうじき大きいお屋敷に引っ越すの」

 きれいな眸とうつくしい声音の母は、美人で優しかった。しかも母からは甘い、良い匂いがする。澪は、これはお母さんの匂いなのだと思っていた。

「お引っ越しするの? お父さんのおうちに?」

 そうよ、と頷く母は複雑な表情をしていた。お父さんと暮らせるなら心から嬉しいはずなのに、なぜだろう。その疑問はやがて解き明かされる。
 ある日、家財を纏めて引っ越しの準備を終えた澪と母の元に、お父さんがやってきた。家財などの荷物はお手伝いの人が運んでくれるらしい。母と共に後部座席に乗り込んだ澪は、お父さんの車に乗せてもらうのは初めてのことで、とても嬉しかった。そこで告げられたお父さんの台詞に言葉を失う。

「澪。これからは、私のことをお父さんと呼んではいけない。旦那様と言いなさい」
「どうして?」
「大人になればわかる。これは澪と母さんのためなんだ。いいね?」

 訳も分からず、うん、と頷く。
 白手袋をした運転手さんの運転する車は街路を走り、やがて大きな門をくぐった。長い路の両側には樹木がそびえたっている。木々の隙間から赤い屋根の大きなお屋敷が見えたけれど、車はそちらには向かわず、路を逸れていく。

「さあ、着いたよ」

 小さな邸宅は真新しいもので、中に入ると木の香りがした。食事をする部屋と寝室、台所に風呂と厠、澪の部屋もあり、ベッドまで用意されていた。

「ありがとうございます、伸介しんすけさん……あ、いえ、旦那様」
「いいんだよ。ここにいるときは名前で呼んでくれ。今後はもっと一緒にいられる。近いからね」

 涙ぐむ母の肩を抱いたお父さん……ではなく、旦那様は、母と色々な相談をしていた。
 どうやらここは三人で住む家ではなく、旦那様が住む家からもっとも近い家ということらしい。自室のベッドでふたりの会話をぼんやりと聞いていた澪は、いつになったら本当の家族になれるんだろうと首を捻っていた。



 新居での生活にも慣れた頃、澪は探検に興じた。
 母からお屋敷に近づいてはいけないときつく言い含められていた。なぜなら先日、お屋敷へ繋がる路で怖そうな女の人に遭遇したからだ。慌てて澪を引き寄せた母は頭を下げていた。

「この売女め」

 高価そうなドレスを着込んで髪を高く結い上げた女の人は、憎々しげに母を睨みつけて侮蔑の言葉を吐いた。
 あの女の人は誰、と後で訊ねると、母は少し哀しそうに微笑む。

「奥様よ。何を言われても、決して逆らっては駄目。いいわね?」

 奥様とは、旦那様と対になる存在である。澪は朧気ながら理解してきた。
 母が愛人で、父に囲われているということに。
 それが正しいとか間違っているとか、澪にはよく分からない。
 ただ母は幸福と不幸せの狭間にいる、まるで覚束ない小舟のように見えて心配だった。そして澪もまた、その揺らぐ小舟に乗っているのだけれど、無邪気でまだ幼い澪は愛人の子であることが己の未来に及ぼす影響など考えたこともなかった。

 お屋敷には言いつけどおり近づかないけれど、庭園なら大丈夫だろう。ここでは様々な種類の草花が見られる。
 草木が好きな澪は広い庭園を散策した。杉に欅、枝振りの立派な松、躑躅に牡丹、薔薇まである。

「うわあ、すごい」

 こんなに素晴らしい薔薇園を見たのは生まれて初めてだ。
 大輪の薔薇が、庭園の端まで続いている。石畳の途中には薔薇の蔓を絡ませたアーチがあり、薔薇を愛でながらくぐれるようになっていた。まるで絵本で見たお城の庭みたいだ。壮麗な景色に目を瞠りながら辺りを見回す。
 薔薇は澪のもっとも好きな花だ。
 澪は朝露をのせた真紅の蕾に、惹かれるようにそっと指先を触れさせようとした。
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