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大須賀伯爵家

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 初夏の眩い朝日が広大な庭園に照りつける。
 朽ちた薔薇の花弁を摘み取り終えたみおは、額に流れる汗を手の甲で拭った。

「ふう。結構きれいになったかな」

 大須賀おおすが伯爵家の本宅がある敷地内は様々な樹木や花々が植えられている。季節ごとに来客の目を楽しませてくれるそれらを管理するのは、庭師である澪の仕事だ。今は薔薇が盛りなので、朝夕と薔薇の手入れを行っている。庭園を彩る大輪の薔薇は美しく咲き誇っていた。

「そうだ。お屋敷に新しい薔薇を届けてあげよう」

 幾重にも花弁を重ねた真紅の薔薇はとても見事で、あの人にふさわしい。
 澪は憧れの人の顔を思い浮かべて頬を綻ばせた。
 鋏で手頃な箇所を切り、花束にしてまとめる。お屋敷に花を飾るのは本来は女中の仕事なのだが、朝は食事の支度や掃除で忙しいだろう。一刻も早く綺麗な薔薇をあの人に見てほしかった。今の時間なら、まだ会社に出勤する前のはずだ。
 
 澪は庭園を横切ると、そっと裏口から屋敷へ入る。西洋の建築家が設計したという華族の屋敷は趣があり、壮麗な佇まいだ。吹き抜けの広いホールを抜けて、水を入れた花瓶を用意すると、薔薇を挿して廊下の隅に飾った。
 白亜の壁に真紅の薔薇は映えている。
 誇らしい薔薇の姿に感嘆の息を漏らすと、背後から低い声音が響いた。

「綺麗だな」

 澪は驚いて振り返り、慌てて礼をする。

「おはようございます、若さま」

 いつの間に来ていたのか全く気づかなかった。
 大須賀家の御曹司である晃久あきひさは鷹揚に頷く。
 涼しげに切れ上がった眦に、直線を描いた太い眉、すっと通った鼻筋、男らしい精悍な頬は雄々しい印象を与える。やや薄い唇は酷薄さが湛えられているが、晃久の怜悧な美貌を匂わせた。六尺を超える体躯を三つ揃えのダークスーツに包み、薔薇と同じ真紅のネクタイを締めて威風堂々と佇む姿はまるで王のようだ。

「もっとよく見せてくれ」
「はい。どうぞ」

 澪は花弁が目立つように少々茎を整えてから、邪魔にならないよう体を脇に退けた。
 途端に薄い唇から冷笑が漏れる。

「薔薇じゃない。俺が見たいと言ったのは、こちらの花弁だ」
「え?」

 真っ直ぐに澪の前に立った晃久は、頤に手をかける。
 ついと上向けられ、親指が唇をそっとなぞる。
 熱くも柔らかな感触に、どきりと鼓動が跳ねた。

「あ、あの……」
「紅く色づいていて弾力も良い。素晴らしい上質の花弁だ。口で味わいたいくらいだな」

 くつくつと喉奥で笑う晃久は陶然として語り、澪の唇を凝視している。
 彼はいつもこのような悪い冗談を言う。
 からかわれているのは分かっているが、澪に抗う術はない。ただ頬を染めて視線を彷徨わせることしかできない。なにしろ晃久は大須賀伯爵家の若君で、いずれ当主となられる御方なのだから。一介の庭師である澪が逆らうなんてことは許されない。

「晃久様。お車の御用意ができております」

 楽しげに笑っていた晃久だが、躊躇いがちにやってきた秘書が出勤を促すのを聞いて眉を寄せる。

「待たせておけ」

 華族である大須賀家だが、晃久は独自に会社を経営している。車や船を貸し出す事業と聞いており、しかもその会社は親から譲り受けたものではなく、晃久が学生時代に自ら興したのだ。趣味のようなものだと本人は飄々と語っているが、事業を支えるのは大変なことだろう。爵位に依ることなく、自立心の旺盛な晃久に澪が心惹かれる理由でもあった。

「若さま。どうかお仕事に行かれてください。花弁にはいつでも触れるようにしておきますから」

 未だ澪の唇から指を離そうとしない晃久にお願いする。
 はやく、はなしてほしい。
 これ以上触れられていたら心臓が破裂してしまいそうだ。
 晃久は眉をひそめたが、手を下ろして澪の唇を解放してくれた。
 だが挑むような目つきをして、鼻先がくっつくほど顔を近づける。

「俺に指図するとは上等だ。帰ったら花弁を啄むから、覚悟しておけよ」

 硬直する澪に軽やかに笑いかけた晃久は身を翻して玄関へ向かった。
 ややあって車寄せから黒塗りの高級車が滑り出す。
 ほう、と息を吐いた。
 安堵の息に、微量の寂しさが混じる。
 もっと触っていてほしかったなんて、傲慢な願いが胸の裡から這い出てきそうになり、澪は無理やり押し込めた。
 今夜はいじわるな若さまに唇が腫れるまで突っつかれるだろう。
 けれどそれすらも澪にとっては、褒美のようなものだった。
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