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第五章
潜入
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風に乗り、さらさらと舞う粒子が頬を撫でる。藍に塗られた天の夜明けは遠く、仰げば星が瞬いていた。
東の空が薄らと白む頃、二人は目的地へ辿り着いた。数日を要したが、追われる身なので以前よりは遙かに急いだ。
私兵が巡回している塩湖付近には近づかず、手前の林で黒狼は馬の足を止める。
「夏太守が闇塩の秘密を暴露するわけがない。忍び込んで暴くんだ」
夜中のうちに宿を発つと促した黒狼の真意は、そこにあったらしい。いくらなんでも忍び込むのはいかがなものか。夏太守が闇塩を行っていると決まったわけではない。
「黒狼の命が懸かってるんだから、話せばわかってくれるんじゃないかしら」
「俺の命なんか、奴に関係ない。だから結蘭は甘いんだ」
「そんな言い方ないでしょ」
言い争いを繰り広げていると、子翼はついと馬首を巡らせた。
「子翼? どこへ行くの」
手綱を控えたが言うことをきいてくれない。路を逸れ、急な山の斜面を駆け下りる。結蘭は振り落とされまいと必死に背にしがみついた。
塩湖の畔に佇む夏太守の屋敷を迂回した子翼は、ぐるりと塀に囲まれた製塩所の裏手へまわる。
「ここは……」
門前に兵がいて入れなかった場所だ。夜が明けていないので、辺りはひっそりと静まっている。
「よし。ここから入ろう。塀を登れ」
追ってきた黒狼は、いつの間にか徒歩になっている。馬は林に置いてきたらしい。
ここまで来たら仕方ないけれど、登れと言われても土塀は一三尺ほどもあるのだ。掴めるような取っ手など、どこにもない。
子翼は小刻みに鼻を鳴らした。何か合図を示しているらしい。結蘭に降りろと云わんばかりに鞍を揺らす。
「踏み台にして飛び越えろと言ってるんだ。俺が子翼の上に立って支える」
壁際に寄った子翼の鞍に、黒狼が立ち上がる。支えてもらえれば、丁度越えられる高さだ。
「私が越えたら黒狼はどうするの?」
「俺は自力で跳べる。行くぞ」
引き上げられ、踵を支えられて黒狼の肩を蹴る。棟瓦を掴み、ひらりと舞うように向こう側に降りた。着地するとき足裏に衝撃が響いたが、派手な物音は立っていない。軒が連なる工房に、人の気配はなかった。
何故か黒狼が続いて降りてこない。焦りの滲む囁き声が聴こえたので、塀に耳を付ける。
「おい、座るな。おまえの主を置き去りにしてもいいのか」
子翼と揉めているようだ。いくら黒狼でも子翼の背を蹴らなければ塀は越えられない。早くしないと誰かに見つかってしまう。結蘭は声を潜め、塀越しに懇願する。
「子翼、お願い。あなたの助けが必要なの」
途端に、黒狼は身を翻した。素早く棟瓦を跨いで物音も立てず着地する。
土を踏む微かな馬蹄が遠ざかる。子翼は人気のない林へ戻るようだ。ほっと胸を撫で下ろす。
「ここが製塩所か。厳重な割りには何の変哲もないな」
「そうね。製塩所って、すごく簡素なのね」
ひとつひとつの工房を見て回る。巨大な竈が設えられた房室、薪の保管庫、完成した塩を袋詰めにする房室。
特に不審な点は見られず、闇塩に繋がるような証拠はなさそうだ。結蘭は雑多な道具の保管庫を覗き、無造作に積まれている彫刻刀をふと手に取る。
製塩は、火を焚いた竈で湖水を蒸発させ、結晶化した塩から不純物を取り除くという作業だ。大量生産するには手間が掛かるが、複雑な工程はない。
「これ……何に使うのかな?」
先が丸いものや平たいものなど様々な形の彫刻刀が、箱の中に放り込んである。
結蘭の手元を覗いた黒狼は、双眸を眇めた。
「刃が毀れている。相当、使い込んでるな」
一匹の羽虫が、ふわりと結蘭の傍に降り立つ。
『それは人形を彫るための刀ですよ』
「え。人形?」
「うん? どうした。……虫か」
羽虫は舞い、導くように奥へと移動した。
『毎日人がきて、奥で人形を作っているんです。ほら、あそこで』
羽虫は袋小路の壁で止まる。結蘭は後を追ったが、行き止まりなので何もない。
「どこかしら?」
壁に手を付くと、ぐらりと身体が揺れた。壁に見立てた扉はくるりと回転して、房室が現れる。
東の空が薄らと白む頃、二人は目的地へ辿り着いた。数日を要したが、追われる身なので以前よりは遙かに急いだ。
私兵が巡回している塩湖付近には近づかず、手前の林で黒狼は馬の足を止める。
「夏太守が闇塩の秘密を暴露するわけがない。忍び込んで暴くんだ」
夜中のうちに宿を発つと促した黒狼の真意は、そこにあったらしい。いくらなんでも忍び込むのはいかがなものか。夏太守が闇塩を行っていると決まったわけではない。
「黒狼の命が懸かってるんだから、話せばわかってくれるんじゃないかしら」
「俺の命なんか、奴に関係ない。だから結蘭は甘いんだ」
「そんな言い方ないでしょ」
言い争いを繰り広げていると、子翼はついと馬首を巡らせた。
「子翼? どこへ行くの」
手綱を控えたが言うことをきいてくれない。路を逸れ、急な山の斜面を駆け下りる。結蘭は振り落とされまいと必死に背にしがみついた。
塩湖の畔に佇む夏太守の屋敷を迂回した子翼は、ぐるりと塀に囲まれた製塩所の裏手へまわる。
「ここは……」
門前に兵がいて入れなかった場所だ。夜が明けていないので、辺りはひっそりと静まっている。
「よし。ここから入ろう。塀を登れ」
追ってきた黒狼は、いつの間にか徒歩になっている。馬は林に置いてきたらしい。
ここまで来たら仕方ないけれど、登れと言われても土塀は一三尺ほどもあるのだ。掴めるような取っ手など、どこにもない。
子翼は小刻みに鼻を鳴らした。何か合図を示しているらしい。結蘭に降りろと云わんばかりに鞍を揺らす。
「踏み台にして飛び越えろと言ってるんだ。俺が子翼の上に立って支える」
壁際に寄った子翼の鞍に、黒狼が立ち上がる。支えてもらえれば、丁度越えられる高さだ。
「私が越えたら黒狼はどうするの?」
「俺は自力で跳べる。行くぞ」
引き上げられ、踵を支えられて黒狼の肩を蹴る。棟瓦を掴み、ひらりと舞うように向こう側に降りた。着地するとき足裏に衝撃が響いたが、派手な物音は立っていない。軒が連なる工房に、人の気配はなかった。
何故か黒狼が続いて降りてこない。焦りの滲む囁き声が聴こえたので、塀に耳を付ける。
「おい、座るな。おまえの主を置き去りにしてもいいのか」
子翼と揉めているようだ。いくら黒狼でも子翼の背を蹴らなければ塀は越えられない。早くしないと誰かに見つかってしまう。結蘭は声を潜め、塀越しに懇願する。
「子翼、お願い。あなたの助けが必要なの」
途端に、黒狼は身を翻した。素早く棟瓦を跨いで物音も立てず着地する。
土を踏む微かな馬蹄が遠ざかる。子翼は人気のない林へ戻るようだ。ほっと胸を撫で下ろす。
「ここが製塩所か。厳重な割りには何の変哲もないな」
「そうね。製塩所って、すごく簡素なのね」
ひとつひとつの工房を見て回る。巨大な竈が設えられた房室、薪の保管庫、完成した塩を袋詰めにする房室。
特に不審な点は見られず、闇塩に繋がるような証拠はなさそうだ。結蘭は雑多な道具の保管庫を覗き、無造作に積まれている彫刻刀をふと手に取る。
製塩は、火を焚いた竈で湖水を蒸発させ、結晶化した塩から不純物を取り除くという作業だ。大量生産するには手間が掛かるが、複雑な工程はない。
「これ……何に使うのかな?」
先が丸いものや平たいものなど様々な形の彫刻刀が、箱の中に放り込んである。
結蘭の手元を覗いた黒狼は、双眸を眇めた。
「刃が毀れている。相当、使い込んでるな」
一匹の羽虫が、ふわりと結蘭の傍に降り立つ。
『それは人形を彫るための刀ですよ』
「え。人形?」
「うん? どうした。……虫か」
羽虫は舞い、導くように奥へと移動した。
『毎日人がきて、奥で人形を作っているんです。ほら、あそこで』
羽虫は袋小路の壁で止まる。結蘭は後を追ったが、行き止まりなので何もない。
「どこかしら?」
壁に手を付くと、ぐらりと身体が揺れた。壁に見立てた扉はくるりと回転して、房室が現れる。
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