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序章
嵐の夜
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嵐が吹き荒れる。
冷たい雨が槍のように、少年の頬を容赦なく叩きつけた。
身体の芯から凍えていた。繫いだ手の感覚がなくなる。
「もう少しでございます。どこか雨宿りできるところを捜しましょう」
ずぶ濡れの女の手も、同じように凍えている。庇うように、襤褸と化した衣を着せようとしてきた。少年は渾身の力を込めて振り払う。
気遣いなどいらない。
自分が、もう誰にも必要とされないことは知っている。
死を選ばなかったのは、己を追い落とした奴らにいずれ復讐するためだ。
ぎり、と奥歯を食い締める。
心の中には憤怒と憎しみしかない。
山奥の村は嵐の到来に、どこの家も固く木戸を閉ざしている。やがて、村外れにある屋敷の前に辿り着いた。
「厩があります。ここで休ませてもらいましょう」
干し草の匂いが漂う厩に足を踏み入れると、純白の馬が首を巡らせた。訝しげに闖入者を見遣り、主に告げようと高く嘶きを轟かせる。ほどなくして屋敷から人がやってくる気配がした。
追い出されるのだろうか。
女は少年を背後に隠した。
「まあ……。どうしました?」
傘を差して現れたのは、たおやかな女人だった。洗練された仕草と身につけた上等な衣は貴人のものだ。
女は平伏した。
「勝手に立ち入り申し訳ございません。旅の途中でして……ここで雨宿りをさせていただいてもよろしいでしょうか、奥様」
「このようなところでは風邪を引きます。屋敷にお入りなさい。息子さんも、こんなに濡れているではありませんか」
品のある優しい物言いは母上を思わせた。少年は刹那、脳裏を過ぎった光景に目の奥を焼かれる。振り下ろされる刃。断末魔の悲鳴。血に染まった白い腕が縋るように伸ばされた。
「お気遣い感謝いたします。ですが、あの……この御方はわたくしの息子ではありません」
「何か事情がおありのようですね。我が家にも、事情があるのですよ。まずは濡れた身体を拭きましょう」
貴人に促されて屋敷へ入る。中は質素だが清潔な房室だった。身体を拭く布を手渡され、貴人は茶の支度を始めた。
このような山奥に、ひとりで住んでいるのだろうか。似つかわしくない。何か罠でもあるのかと疑心に満ちた瞳で辺りを窺う。
ふと、隣の房室から、小さな女の子の声が聞こえてきた。誰かと会話しているようだ。
少年は立ち上がり、隣室を覗き込んだ。
「そうなの、たいへんね。でも、言ってあげたほうがいいの。すき、って言ってあげてほしいの」
女の子は窓に向かって話している。外は暴風雨だ。誰もいるはずがない。
独り言か。
この年頃の女の子は、架空の友人と会話するのが楽しいのだろう。少年は黒髪を結い上げた女の子に近づいた。彼女は熱心に喋り続けている。
よく見れば、窓枠に小さな青虫が付いていた。
女の子は青虫に顔を寄せて頷いている。
話し相手は青虫だ。
無邪気だな、としばらく様子を眺めていると、妙なことに気がつく。
女の子は一方的に喋るわけではなく、一定の間隔で黙している。彼女がうんうんと頷いている間、青虫は身をくねらせているのだ。まるで何かを訴えるように。そして女の子が話すと、青虫は動くのをやめる。
まるで、本当に会話しているみたいだ。
「うん、わかった。じゃあうまくいったらおしえてね。ばいばーい」
手を振ると、青虫は窓枠から移動して壁の隙間に入り込み、姿を消した。
「……何を話していたんだ?」
女の子は初めて少年の存在に気づいたらしく、驚いて振り返る。けれど次の瞬間には、安堵の笑みを浮かべた。
「あのね、青虫さんは恋をしてるの。でも、あいてはもうケッコンしてるんだって。奥さんが、たくさんいるんだって。だからどうやってあきらめたらいいか、あきらめないでうばえばいいのかっていう、ながいおはなししてた」
「………………へえ」
小さな女の子の口から飛び出した深すぎる大人の話に怯む。まさか虫が人のような会話をするとは思えないが、先ほどの青虫の動きを見ていると空想とも思えない。
「虫を操れるのか?」
「ううん。わたしは虫さんとおはなしできるの。でもみんなしんじてくれないんだぁ。お母さまもね、あらそうよかったわねっていうの。ホントなのよ?」
駄々っ子のように唇を尖らせて椅子に腰掛け、足をぶらぶらとさせる。
貴人の話していた『事情』とは、この娘のことらしい。先ほどの青虫の動きを注視していなければ、夢想としか思えないだろう。
「俺は信じるよ」
女の子はぽかんと口を開けて、それから喜びを滲ませた。
「ほんと? しんじてくれるの?」
「ああ。信じる」
「わあーい。ありがとう、人さん!」
「人さん……」
嬉しくてたまらないという風に、両手を天に掲げている。
どうやら青虫さん、人さん、と彼女の中では同列の扱いらしい。
隣室からは女と貴人の囁き声が聞こえてくる。女は自らの窮状を訴えているようだ。こちらを窺っている様子はない。
「俺の名は、趙瑛だ」
「わたしは結蘭だよ、人さん」
「いや、あのな」
「人さんに、わたしのとっておきの夢をおしえてあげるね!」
まあ、いいか。
人さんとして彼女の会話に付き合うのも悪くない。趙瑛は女の子の隣に腰を下ろした。
「夢とはなんだ?」
「あのね、あのね」
内緒話のように、耳元に唇を近づけられる。温かな、小さな呼気が耳朶をくすぐった。
「金色蝶と、おはなしすること」
お伽話に登場する金色蝶は、助けたお礼に願いを叶えてくれるという。全体が金色に光る蝶は想像の産物で、まして願いを叶えるだなんて物語の中だけの話だ。
けれど、本当のことを言えば彼女の夢を壊してしまう。
『本当のこと』だから、何でも言っていいわけではないということを、聡い趙瑛は知っていた。
「いつか、叶うといいな」
「うん! わたし、大きくなったら金色蝶をさがす旅にでるんだ。人さんもいっしょにいこうね」
「あ、ああ……。そうだな、行ってもいい」
「人さんの夢はなあに? わたしにおしえて?」
夢。そんなもの、持ったことがなかった。願望なら、ここに辿り着くまでの凄惨な体験を通して湧いた。
あいつらに、復讐すること――。
女の子は無垢な瞳で覗き込むように顔を近づけている。己の復讐心を見透かされるようで、そのどす黒い心が彼女を穢してしまいそうで、趙瑛は滾る腹の底を諫めた。
「俺も……金色蝶を見つけたい」
「ほんと⁉」
「ああ。今、決めた」
「わあい。うれしい、うれしい」
兎のように飛び跳ねる女の子は結蘭と名乗ったか。
愛らしい娘を見ていると、ささくれた心も凪ぐようだった。
――不思議な娘だ。
趙瑛は瞳を眇めて、いつまでも歓喜の声を上げている結蘭を眺めていた。
冷たい雨が槍のように、少年の頬を容赦なく叩きつけた。
身体の芯から凍えていた。繫いだ手の感覚がなくなる。
「もう少しでございます。どこか雨宿りできるところを捜しましょう」
ずぶ濡れの女の手も、同じように凍えている。庇うように、襤褸と化した衣を着せようとしてきた。少年は渾身の力を込めて振り払う。
気遣いなどいらない。
自分が、もう誰にも必要とされないことは知っている。
死を選ばなかったのは、己を追い落とした奴らにいずれ復讐するためだ。
ぎり、と奥歯を食い締める。
心の中には憤怒と憎しみしかない。
山奥の村は嵐の到来に、どこの家も固く木戸を閉ざしている。やがて、村外れにある屋敷の前に辿り着いた。
「厩があります。ここで休ませてもらいましょう」
干し草の匂いが漂う厩に足を踏み入れると、純白の馬が首を巡らせた。訝しげに闖入者を見遣り、主に告げようと高く嘶きを轟かせる。ほどなくして屋敷から人がやってくる気配がした。
追い出されるのだろうか。
女は少年を背後に隠した。
「まあ……。どうしました?」
傘を差して現れたのは、たおやかな女人だった。洗練された仕草と身につけた上等な衣は貴人のものだ。
女は平伏した。
「勝手に立ち入り申し訳ございません。旅の途中でして……ここで雨宿りをさせていただいてもよろしいでしょうか、奥様」
「このようなところでは風邪を引きます。屋敷にお入りなさい。息子さんも、こんなに濡れているではありませんか」
品のある優しい物言いは母上を思わせた。少年は刹那、脳裏を過ぎった光景に目の奥を焼かれる。振り下ろされる刃。断末魔の悲鳴。血に染まった白い腕が縋るように伸ばされた。
「お気遣い感謝いたします。ですが、あの……この御方はわたくしの息子ではありません」
「何か事情がおありのようですね。我が家にも、事情があるのですよ。まずは濡れた身体を拭きましょう」
貴人に促されて屋敷へ入る。中は質素だが清潔な房室だった。身体を拭く布を手渡され、貴人は茶の支度を始めた。
このような山奥に、ひとりで住んでいるのだろうか。似つかわしくない。何か罠でもあるのかと疑心に満ちた瞳で辺りを窺う。
ふと、隣の房室から、小さな女の子の声が聞こえてきた。誰かと会話しているようだ。
少年は立ち上がり、隣室を覗き込んだ。
「そうなの、たいへんね。でも、言ってあげたほうがいいの。すき、って言ってあげてほしいの」
女の子は窓に向かって話している。外は暴風雨だ。誰もいるはずがない。
独り言か。
この年頃の女の子は、架空の友人と会話するのが楽しいのだろう。少年は黒髪を結い上げた女の子に近づいた。彼女は熱心に喋り続けている。
よく見れば、窓枠に小さな青虫が付いていた。
女の子は青虫に顔を寄せて頷いている。
話し相手は青虫だ。
無邪気だな、としばらく様子を眺めていると、妙なことに気がつく。
女の子は一方的に喋るわけではなく、一定の間隔で黙している。彼女がうんうんと頷いている間、青虫は身をくねらせているのだ。まるで何かを訴えるように。そして女の子が話すと、青虫は動くのをやめる。
まるで、本当に会話しているみたいだ。
「うん、わかった。じゃあうまくいったらおしえてね。ばいばーい」
手を振ると、青虫は窓枠から移動して壁の隙間に入り込み、姿を消した。
「……何を話していたんだ?」
女の子は初めて少年の存在に気づいたらしく、驚いて振り返る。けれど次の瞬間には、安堵の笑みを浮かべた。
「あのね、青虫さんは恋をしてるの。でも、あいてはもうケッコンしてるんだって。奥さんが、たくさんいるんだって。だからどうやってあきらめたらいいか、あきらめないでうばえばいいのかっていう、ながいおはなししてた」
「………………へえ」
小さな女の子の口から飛び出した深すぎる大人の話に怯む。まさか虫が人のような会話をするとは思えないが、先ほどの青虫の動きを見ていると空想とも思えない。
「虫を操れるのか?」
「ううん。わたしは虫さんとおはなしできるの。でもみんなしんじてくれないんだぁ。お母さまもね、あらそうよかったわねっていうの。ホントなのよ?」
駄々っ子のように唇を尖らせて椅子に腰掛け、足をぶらぶらとさせる。
貴人の話していた『事情』とは、この娘のことらしい。先ほどの青虫の動きを注視していなければ、夢想としか思えないだろう。
「俺は信じるよ」
女の子はぽかんと口を開けて、それから喜びを滲ませた。
「ほんと? しんじてくれるの?」
「ああ。信じる」
「わあーい。ありがとう、人さん!」
「人さん……」
嬉しくてたまらないという風に、両手を天に掲げている。
どうやら青虫さん、人さん、と彼女の中では同列の扱いらしい。
隣室からは女と貴人の囁き声が聞こえてくる。女は自らの窮状を訴えているようだ。こちらを窺っている様子はない。
「俺の名は、趙瑛だ」
「わたしは結蘭だよ、人さん」
「いや、あのな」
「人さんに、わたしのとっておきの夢をおしえてあげるね!」
まあ、いいか。
人さんとして彼女の会話に付き合うのも悪くない。趙瑛は女の子の隣に腰を下ろした。
「夢とはなんだ?」
「あのね、あのね」
内緒話のように、耳元に唇を近づけられる。温かな、小さな呼気が耳朶をくすぐった。
「金色蝶と、おはなしすること」
お伽話に登場する金色蝶は、助けたお礼に願いを叶えてくれるという。全体が金色に光る蝶は想像の産物で、まして願いを叶えるだなんて物語の中だけの話だ。
けれど、本当のことを言えば彼女の夢を壊してしまう。
『本当のこと』だから、何でも言っていいわけではないということを、聡い趙瑛は知っていた。
「いつか、叶うといいな」
「うん! わたし、大きくなったら金色蝶をさがす旅にでるんだ。人さんもいっしょにいこうね」
「あ、ああ……。そうだな、行ってもいい」
「人さんの夢はなあに? わたしにおしえて?」
夢。そんなもの、持ったことがなかった。願望なら、ここに辿り着くまでの凄惨な体験を通して湧いた。
あいつらに、復讐すること――。
女の子は無垢な瞳で覗き込むように顔を近づけている。己の復讐心を見透かされるようで、そのどす黒い心が彼女を穢してしまいそうで、趙瑛は滾る腹の底を諫めた。
「俺も……金色蝶を見つけたい」
「ほんと⁉」
「ああ。今、決めた」
「わあい。うれしい、うれしい」
兎のように飛び跳ねる女の子は結蘭と名乗ったか。
愛らしい娘を見ていると、ささくれた心も凪ぐようだった。
――不思議な娘だ。
趙瑛は瞳を眇めて、いつまでも歓喜の声を上げている結蘭を眺めていた。
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