また、恋をする

沖田弥子

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盲点

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 私はその晩、眠りに就けなかった。目は冴え渡っている。
 いつものように那岐と布団を並べて体を横たえ、互いの手はつながれている。もらった逆鱗は水色の小さな香り袋に入れて、盆の上に置いていた。
 もう、この手を握るのも最後なのだろうか。
 最後という言葉が、重く胸に伸し掛かる。
 冷たくて、大きな手のひら。
 那岐の手を、離したくない。
 彼と共に、どこか遠い地へ行けないだろうか。
 けれど村人との問題を解決しない限り、那岐が村を離れることはできない。彼は五百年という歳月を過ごしたこの村を放り出せないだろう。それに蛟という眷属もいる。竜の那岐がいなくなれば、眷属は分散してしまうかもしれない。
 身を縛るものから、逃れられない。
 私たちが、結ばれるわけがない。
でも……那岐は約束してくれた。神をやめてから、私がどこにいても迎えに行くと、真摯な目をして告げてくれた。
 私はその言葉を信じるしかない。
 那岐の想いを無駄にしてはいけない。わがままを言ってはいけない。
 このまま別れたほうが、お互いのためなのだ。
 切なくて苦しくて、また涙が零れ落ちそうになる。
 私の手が、震えだす。
 那岐はそっと身を起こした。

「……眠れないのか」
「ごめん……大丈夫だから」

 つないだ手に、より力が込められる。
 那岐の体温、そして息遣いをすぐ傍に感じるだけで、心は凪いでいく。
 虫の声が密やかに鳴る。私は那岐に寄り添いながら、一晩中彼の存在を心身に刻みつけていた。



 翌日、晴れ渡る空の下、那岐と私は川へ向かった。雨が降らないので川の水位は減り、わずかに残った水が乾いた川石の狭間を流れている。
 私は心を決めていた。
 夢から醒めよう。
 那岐の想いを無駄にしないために。
 彼は自らの逆鱗を引き抜いてくれた。その痛みを無下に扱ってはならない。
 いつか、また会えると言ってくれた那岐を信じる。私の言葉を那岐が信じてくれたように、私もまた那岐を信じたいから。
 社から村を通り、川へ向かう道すがら、ほとんど言葉を交わさなかった。
 私の手の中には、那岐の逆鱗が入った香り袋がある。

「この辺りだったな。そなたが溺れかけていたのは」

 那岐と共に川縁に立ち、そこから見える景色を眺める。
 子どもたちに囃され、川で溺れそうになった私が、那岐に初めて会ったところだ。
 緑に囲まれた川は、なんの変哲もない山の風景だけれど、私にとっては大切な思い出の場所になった。

「そうだね……ここだったよね」

 言葉少なに那岐を見上げれば、彼はどこか硬い表情を浮かべていた。
 さよなら、とは言いたくない。さよならは永遠の別れのような気がするから。
 けれど、また明日、とも言えない。
 私が足を踏み出して、川石を跨ごうとしたとき、ふいに力強い腕に引き寄せられた。

「あ……」

 逞しい胸に、情熱的に抱きしめられる。
私の胸を甘くて酸っぱいものが湧き上がる。
 那岐は何も言わず、ただ黙したまま、私の体を抱きしめていた。
 けれど腕の力強さから、伝わる胸の鼓動から、那岐が別れに耐えているということが如実に伝わる。
 これが、最後かもしれない。
 私はありったけの想いを込めて、回した腕で那岐の背を抱きしめる。
 那岐の体温を、腕の力強さを、息遣いまで、忘れないように。 
 小さな川のせせらぎだけが響き、そよぐ風が葉枝をわずかに揺らす。
 自然の囁きが織り成す中、しばらくそうして抱き合っていた。 
 那岐の低い声音が、鼓膜を撫でる。

「いずれ、俺の花嫁として迎えに行く。それを忘れないでくれ」
「うん……待ってる。私、ずっと那岐を待ってるね」

 那岐の精悍な面差しが傾けられる。
 とくりと鼓動がひとつ打たれた。
 私は瞼を閉じて、頤を上げる。
 柔らかなくちづけと共に、誓いは交わされた。
 名残惜しげに互いの絡めた腕を離す。私の指先には、那岐の体温が仄かに残った。
 川の中央に赴いて、香り袋から逆鱗を取り出す。
 逆鱗を掲げた私は、那岐のいる川辺をちらりと窺った。
 那岐は、深く頷いた。
 もう、迷いは断ち切らなければ。
 迎えに行くと、那岐は約束してくれたのだから。

「逆鱗……私を、夢から醒めさせて」

 七色に光り輝く逆鱗を手にして、私は瞼を閉じる。
 川の水の流れだけが、時が過ぎたことを伝えた。

「……あれ?」

 何も起こらない。
 手の中の逆鱗を見るが、変化は見られなかった。逆鱗は凜然と輝きを放っている。
 私のやり方がよくなかったのだろうか。
 川に屈んでみたり、向いている方角を変えてみたりと色々なことを試みたけれど、やはり逆鱗は沈黙を続けている。幾度瞬きを繰り返しても、そこにあるのは変わらない川の風景。
 夢から、醒めない。

「どういうこと……?」

 訝しんだ那岐が川へ下りてきた。逆鱗の様子を窺い、私の手を握りしめる。

「力が発揮される兆候は見られないな……」

 那岐も不思議そうに首を捻っている。
 そもそも、竜の鱗があれば夢から醒めるという説は、私が立てた仮説に過ぎない。
 けれど、ここへやってきた原因で思い当たることといえば、西河くんの竜の鱗を手にしたことしかない。
 西河くんと瓜二つの、竜神の那岐。
 西河くんの鱗が、那岐のもとへ導いたのだとしか思えなかった。

「それとも、西河くんの鱗じゃないと帰れないってことなのかな?」

 結局、西河くんの竜の鱗が入った巾着袋は見つかっていない。
 あの鱗だけは特別な力があったということなのだろうか。
 話は振り出しに戻ってしまった。
 首を傾げた那岐は、思いもかけなかった盲点を突いた。

「あれほど捜したのに、見つからなかったからな……。巾着袋は、手に持っていたものを川に流されたのだな? 烏が銜えていったということはなかったか?」
「えっ……」

 当時の状況を確認されて、あのときの光景が脳裏に蘇る。
 川で溺れかけたときには、すでに赤い着物を着ていた。
 巾着袋は、制服のポケットに入れていた。
 つまり、西河くんの竜の鱗が入った巾着袋は、制服のポケットの中にある。
 おそらく、今も眠り続けている私が着ている制服にきちんと仕舞われているはずなのだ。
 川に流されたいうのは完全な思い込みだった。
 どうして今まで気がつかなかったのだろう。いくら捜しても見つからないわけだ。
 己の愚かさに、逆鱗を握りしめた手が震える。
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