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3話◆アスモダイの尖鋭
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ちりちりと首元に痛みが生じるほどの冷気を纏い、カイは怒りを隠しもせずに騎士団の裏切り者を睥睨した。その一方で、後方に庇う公爵に向けてそっと声を掛ける。
「……大丈夫ですか、閣下。決してご無理はなさらず……」
一度は経験の有るカイにとっても、周囲を占める独特の臭気は総毛立つほどである。耐性どころか前知識すら無い一般人のゴルディニア公は、恐らく立っているだけでも辛い筈。様々な危険に晒す恐れが有るため、本当は連れてくる心算は無かった。だが、公爵自身が無理を押してでも同行を望んだのだ。
「有難う、平気だ。……何としてでもあの子を……クレフトを連れて帰りたいんだ」
「分かりました。……ここは隙間が多い。足場にしっかり掴まっていてください」
カイの背後で公爵は小さく頷くと、通路から生えた頑丈な金属の柵に腕を絡めて捕まり、その場に膝をついて小さくなる。平気だとは言ったものの、昏倒までには至らなくてもずっと気分が悪い。急な眩暈でも起こして足を踏み外してはいけないと思った。
「頼む、アシュフォード。あの子を助けてあげてくれ。……みんなで帰ろう!」
「――――はい」
緩やかに歩み始めるカイの歩幅が次第に大きくなり、走り込むベイレスと互いに剣を振り上げる。激突する鋭い音が響いたかと思うと、矢継ぎ早に剣戟が繰り出される。片や経験豊富な師団長補佐、片や第一師団でも王太子の右腕にと望まれる異名の持ち主。トリッキー且つ殺傷力の高い一撃を誇るベイレスの太刀筋に対して、愚直なほどに正統派の型を操るカイは一見不利に思えるものの、型通りと侮る相手の反応を遥かに超える速度と重量で翻弄する。
「おおおおおッ!!」
吠える二人の剣戟に互いの魔力が乗る。彼らを中心として小さな火花が生まれては消える。カイは飛んで離れると紺青の宝剣を構え直した。
「……気付きましたか。貴方の魔力はここと非常に相性が悪いのですよ」
「…………」
ベイレスもまた、間合いを取った向こうで緩やかに剣先をこちらに向ける。薄笑いを浮かべる相手に、カイは矢車菊の視線をひたと定めた。あちこちで黄色い光を生み出している高温の炉が齎す熱気は、カイが無意識に近い感覚で操る冷気と良くない反応を起こしやすい。ベイレスが扱う魔力はカイの天賦の才には遠く及ばないものの、場に満ちる力に沿う形での支援に長けている。この辺りはやはり実戦経験の差か。カイは相手の挑発を静かにいなす。
「使わなければ良いだけだ」
「出来ますかな。……息をするように冷気を纏う貴方に」
ゆらりと上体を傾いだベイレスが一気に間合いを詰めてくる。カイもまた、剣を下段に構えて迎え撃つ。ベイレスの剣を次々と受け止めては弾き、横薙ぎに逸らし、隙あらば袈裟切りに撃ち込まんとする。ベイレスが指摘した通り、カイはほぼ無意識に自身の魔力を薄く放出し、攻撃の補助としているところが有る。意識的にそれを抑え込もうとすれば逆に集中力を要するが、独特の異臭が有り、尚且つ背後に護るべき公爵を抱えているにしては、注意散漫になる様子が微塵も無い。ベイレスは小さく舌打ちする。
「……なかなか器用だ」
「一晩中全力で心を保つ必要が、つい先日有ったばかりでね」
それに比べれば易いものだとばかりにカイは宝剣を薙ぐ。常ならば、薄く纏わせた氷属性の魔力で刃に更なる硬度と切れ味を付与し、金属をも紙のように断つ。それが叶わずとも、完全に純粋な剣術だけでカイは少しずつベイレスを追い詰めていく。険しい表情を隠せなくなってくる師団長補佐の歯噛みを目にして、クレフトを戒めている数人を含む無頼漢が不安そうに後ずさる。
「……おい、大将が圧されてる」
「嘘だろ。あいつそんなに強いのかよ……」
彼らは自分たちのリーダーが、どのような力を持っていてどれくらいの地位に有るのかを何となく理解している。中には衰え始めた中年と侮り金品目的で襲い掛かって、返り討ちに遭った者も居る。自分達では力も立場も太刀打ち出来ないと思っているからこそ服従している相手が、見た目だけで言えばお飾りの人形のような若い優男に力負けしている様を目にして、明らかに動揺していた。次第に息の上がるベイレスに、勝ち目が無いと早々に判断したのかごろつきの一人が踵を返して走り出す。それを皮切りに次々と背を向けて走り出し、地上へ通じる階段に我先にと群がっていく。どさくさに紛れて取引相手の貴族の使いもそれに混ざり、やがてクレフトを戒めている二人ばかりが残される。彼らもまた、押し付けられた精霊族を放って逃げるべきか迷っている様子だった。
先に走り出した数人が階段に到達しようとしたその時、金属が擦れる破壊音が響いたと思うと、階段上部の床が一瞬にして四角く切り込みが入り、轟音と共に崩落していく。
「うわあああっ!」
階段まであともう少しだった者は巻き込まれて足を瓦礫に挟まれ、走り出すのが遅れた者も、巻き上がる粉塵から急に現れた複数の人影に飛び掛かられて、その全てが拘束されていく。ベイレスが指揮を執ることで漸く形になっていた一味は、頭を失い烏合の衆と化してしまえば、いとも容易く瓦解する。騒乱の中で、灼熱の炉が一つ、また一つと動きを止めていき、絶えず薬物が運ばれていたレーンも少しずつ動かなくなっていく。
「下敷きになった輩も全て拘束せよ。生死は問わん」
迷いなく迅速にごろつき共を捕縛していく者達を、的確に指揮する硬質な声が、轟音の只中でもはっきりと響く。聞き覚えの有り過ぎるその声に、ベイレスは米神をひくつかせた。
「ランカスター……ッ!!」
「投降しろ、ベイレス!今なら同期のよしみで足一本くらいで妥協してやる……!」
沈着冷静と評される第四師団長は、自ら率いる精鋭小数部隊に指示を出しつつも、憤怒の形相でかつての友人を睨めつけた。矢継ぎ早に繰り出されるカイの猛攻を寸でのところで躱しきったベイレスが、肩で息をしながら視線だけでランカスターを見遣る。
「……何故私を悪と断定する。領地の隅でかような施設を秘密裏に運営していた公爵を断罪していたところだ!」
「この期に及んで見苦しいぞ、ベイレス!貴様と公爵閣下との会話は、アシュフォード卿が全て我々に共有済みだ」
「何も形に残らん会話ごときでここまでするとは。師団長補佐の立場に在る者を拘束する証拠にしては弱いな!」
「証拠なら有るさ」
ランカスターが、部下から受け取った数十枚の書類をベイレスに向けて掲げてみせる。それを目にして今度こそベイレスは青褪めた。今までに行われた取り引きの見積もり、覚書、納品の書類等々。その全てに、一見分からないように崩してはあるものの、ベイレスの署名がはっきりと記されている。その部分を改竄して公爵邸に残してこいと指示した筈の書類だった。
「貴様もよく知る通り、我々はずっと悪魔の薬物の跋扈に悩まされてきた。近くに居ながら無能な奴らだと、さぞやほくそ笑んだことだろうな。取り締まる側に害虫が紛れていることは見当が付いていたが、踏み込む決め手が無かったのだ。しかし今朝、勇気有る者が告訴に現れた。……貴様の言い方をするなら、安物で大した能力も無いが、そこそこ使える忠義者、のお手柄だ」
「……クレフトぉぉぉっ!!」
憎悪の怒声にクレフトは反射的に身を竦め震えるが、浅い呼吸の隙間から、微かに口角を持ち上げる。クレフトを戒めるごろつき二人はあっという間にランカスターの配下に取り押さえられ、クレフトはへたりとその場に膝をついた。自由の身になったとはいえ、長年自分を暴力で縛り付けてきた男を裏切ることへの不安、怒号への恐怖に咄嗟に力が入らなかった。予想以上に早く取り引きが始まってしまったことで、騎士団による検挙が果たして間に合うのか、話をした師団長は信用に足るのか、そもそも精霊族である自分の言葉と持ち込んだ書類を信じてくれたのか、ずっと気が気ではなかった。
「クレフト……!」
涙声にはっとしてクレフトは顔を上げる。頑丈な金属製の柵に腕を絡ませしっかりとしがみついているゴルディニア公爵が、くしゃくしゃの顔で目を細めながら二度三度と頷いている。今だ震えが止まらないながらも、クレフトは公爵を眩しく仰ぎ見た。嗚呼、漸く何の芝居も必要無しに、この人と向き合えるのだ。
「くそおおおっっッ!!」
突然、ベイレスが剣を持つのとは逆の腕を振り上げる。灼熱の炉が有るために自重していた魔力による衝撃を、やけくそのように宙へと放った。恐らくはもう逃れられないと踏んでの自棄。せめて失脚を目論んだ公爵を道連れにしようとしたのだろうが、衝撃波は弧を描いて什器の立ち並ぶ通路へと激突する。何にもならず外したかに思われたが、什器が衝撃波によってひしゃげ、金属製の通路ごと半分折れる形で凄まじい音を立てながら下方へと斜めに落ち込んでいく。
「ひっ……!」
「閣下!」
公爵が掴まっている足場もまた、あおりを食って斜めに揺らめいた。金属が擦れる耳障りな音を連れて、ゆっくりと傾いでいく。先程から次々とイルが施設を停止させているが、一度上限まで温度の上がった炉はそう簡単には冷めてくれない。よりにもよって、公爵が掴まっている足場だったものは、ゆっくりと炉の真上まで斜めに傾いでいく。位置的に第四師団が一味の捕縛に従事している辺りからは距離が有る。自分が一番近いと判断してカイは駆け出そうとしたが、突如切り込んできた剣先を紺青の刀身で受け止める。
「くそっ……」
こんな場合ではないのに、と焦る気持ちが太刀筋を乱す。そこにつけ入り眼光鋭く踏み出したベイレスの一突きを、カイの剣ではなく別の物が割り込んできて受け止めた。硬質な紫水晶の瞳が的確に相手の剣戟を看破する。涼やかな立ち姿からは凡そ想像つかない腕力が、顔色一つ変えず現役の師団長補佐に思念を編んだ刃で鍔迫り合いを強いる。
「行け、カイ」
「……頼む!」
端的なイルの呼び掛けに、躊躇いも振り返りもせずカイは駆け出す。一方でベイレスは突然現れた黒髪の男に瞠目した。人間とも誤魔化せない、横向きの尖り耳。人非ざる美貌。その正体は明らかだが、圧倒的な存在感と、限りなく人間に近い容姿、そして息一つ乱さずにこちらの全力を封じてくる物理的な力。それはこれまでに使い捨てたどの精霊族とも異なった。この、一目で判る別格の精霊族が、公爵の護衛であるカイを援護しているということは、つまり。
「……馬鹿にしおって……ッ!!」
また一つ、使えない性奴と見下していた下僕に騙されていたと知る。しつこいくらいに確認した筈だった。クレフトは確かに、公爵の護衛が連れている精霊族は古の世代ではないと言い切った。ベイレス自身は最古の世代の精霊族を目にしたことは無かったが、噂通りであれば戦闘能力に長け、たった一人で一個連隊に匹敵する武力を持つという。分かっていれば、廃墟には目立つとしても、リスクを冒してでも人数を揃えて備えたものを。ベイレスは歯噛みする。騎士団の介入が有ろうが無かろうが、古の一族が相手方に居るという事実そのものが、計画が潰える可能性を高くする。だからこそ、あれだけクレフトに確認したというのに。
「うぐっ……」
見たことの無い太刀筋に翻弄され、ベイレスは踏鞴を踏む。カイの剣術は正統派の型で、極めた動きは速度を伴えば厄介だったが、心が乱れて集中が欠けば容易く攪乱できた。だが目前の精霊族が操る型は、我流とも正道とも言い難く、寧ろどちらも融合されている気さえする。型通りかと裏を読めば逆に踏み込まれ、防御に徹すれば予想外の一撃を真正面から食らう。現役の軍人をかくも弄ぶ手腕に、実戦への経験値の差を垣間見てベイレスの背筋が冷える。この精霊族は、一体自分の何倍もの戦を経験しているのだろう。
「閣下、頑張って……!今行きます!」
一方でカイは、先程の攻撃で崩れて足場にならない箇所を目視で判断しながら迂回し、斜め上方で必死に金属柵に掴まっている公爵を見上げながら全力で走る。しっかりと掴まっていることを徹底していたお陰で、ゴルディニア公爵の体は先の攻撃でも吹っ飛ばされずに何とか柵に捕まることが出来ている。だが足元は不安定で、殆ど腕の力だけで自重に耐え、柵にしがみついているに過ぎない。体力を削る異臭と熱気、場の緊張感に心身共に大分疲弊している筈で、救出は一刻を争った。カイは手早く階段を駆け上り、止まったレーンの上を疾走して、金属枠に手を掛けて一飛びに抜け、迂回ルートながらも最短距離を詰めていく。
「ア、アシュフォード……!」
耳障りな金属音を連れて足場は少しずつ炉の方へと斜めに落ちていく。灼熱の炉の真上でも、恐怖や焦燥から泣き叫ぶことも無く、公爵は気丈に柵に捕まっている。そればかりか、絶望的な角度に少しずつ傾いていく格子の上の方へ、震えながらもじりじりとにじり寄って、柵に殆ど跨る形で体力温存の姿勢に努めると、片腕を精一杯伸ばした。
「これ以上……は……っ」
「十分です!」
ゆっくりと下がる足場が一番近付くレーンの端。そこを目的地にしてカイはひた走る。公爵が少しでも移動し、腕を伸ばしてくれるお陰で、レーンにタイミングよく辿り着けば救出は十分可能だ。カイは最後の坂状になった通路を駆け上がり、良い具合に差し出された公爵の腕を掴もうと手を伸ばす。その瞬間、公爵が乗っている柵のひしゃげた根本に第二波の衝撃が直撃し、棒のように折れると共に大きく公爵の体が宙に投げ出された。
「ひぃっ……」
「ぎあぁぁっ!!」
同じタイミングで下方に血華と両の上腕が舞う。二度目の衝撃を生む予兆を感じ取ったイルが剣先をその腕に向けるも、ベイレスは別の腕を捨て身の緩衝材にして妨害を阻止する。結果的に緩衝となった腕諸共イルは相手の腕を切り落とすが、寸でのところで衝撃波を止めることは叶わなかった。両腕を根元近くから失い、もんどりうって床に転倒するベイレスの横で、イルは斜め上のカイを見上げる。
「カイ!」
「くっ……!」
レーンの端に飛び掛かる勢いでカイは腕を伸ばす。公爵の指が確かに指先に触れた。だがそれは掴むに至らず、ただ掠めるだけで砂のように手元から離れていく。自重に揺れるレーンの先で、真っ逆さまに落ちていくゴルディニア公爵を見つめるカイの遥か後方から、金属を打つかのような鋭い音が響いたかと思うと、弾丸の如く真横を黒い何かが駆け抜けた。
「…………っ」
息を飲むカイの目の前で、クレフトは宙で公爵の体を摑まえるとその胸にぎゅっと搔き抱く。そんな場合ではないのに、以前にもこんなことが有ったな、と二人揃って逆さに落ちていきながらゴルディニア公爵は思い出した。
(賊に邸を襲われたとき……夜会から戻る途中で襲撃に遭ったとき……)
腕に傷を負いながらも自分を庇ってくれた。馬車の中で蹲って怯えていた自分を抱き締めてくれた。いつだって彼はこちらを案じ、護ろうとしてくれた。優しくて臆病で、悪戯好きで心配性で。確かに、自分を貶めるために彼は差し向けられたのかもしれない。けれども、そこに自分を騙るための演技など、果たして有っただろうか。
走馬灯のように思い馳せる公爵を抱えて、クレフトは遥か上のカイ目掛けて腕の中の相手を渾身の力を籠め放り投げようとするが、寸前で微かな音を聞いた。その音が何であるかを理解するよりも先に、咄嗟にクレフトは宙で体を反転させる。轟音を立てて真下目掛けて突っ込んできたのは、長大な金属板の通路だったもの。激突する間際にそれを蹴って跳躍する。クレフトが与えた衝撃の威力で炉に叩き込まれる形となった金属板は、その表面に触れるか触れないかで見る間に赤い液体と化していく。ゴルディニア公爵を抱えたクレフトの体は、腕の中の相手を庇う形で炉から離れた通路の端に落下し、その表面を暫く滑ってから止まった。
「うっ……」
長時間危険に晒された緊張感、燃えそうなほどの熱に炙られ疲弊した体は既に限界間近で、公爵はあちこちに痛みを感じて呻いた。強く抱き締めていた腕が解放されたかと思うと、心配そうに覗き込んでくる顔が有る。
「アンバー様……!ご無事ですか」
その頬も柔らかな毛に覆われた耳先も擦り剝いて血が滲んでおり、コートの端も履いている靴もぼろぼろで、思わずゴルディニア公はくしゃりと眉根を寄せて相手の肩をぐっと捕らえる。
「ご無事じゃ無いだろ、君が……!こんなに震えて……怖がりな君が……」
恐らく本人には自覚が無い。小刻みに震えるクレフトを真正面から抱き締めて、公爵はさめざめと泣いた。
「帰ろう、クレフト……一緒に帰ろう」
ほろりとクレフトの頬を涙が零れ落ちる。一度は離した腕を回して、クレフトもまた、相手をぎゅっと抱き締めた。
「――――はい」
公爵を掴み損ねたレーンの上では、彼らの姿を確認してほっと息をついたカイが、第四師団によって拘束されたベイレスに視線を投げたところだった。
「ぐ、う……ッ」
両腕を失い多量に失血しているベイレスを、数人がかりで応急処置の治癒魔法を掛けながらきつく止血する。青褪めた男が転がる傍に、硬質な靴音が響く。浅い息の中、霞む視界の中に浮かぶのは嘗ての友であり同僚であり、好敵手だった男。
「……死なせはしない。洗いざらい吐くまではな」
冷たい視線は、もうランカスターにとって自分はそのどれでもないことを思い知らせてくる。自ら手放した絆に、ベイレスは僅かに口端を持ち上げて意識を失った。
「カイ」
はっとして声の方に視線を投げる。自分が今居る斜めになったレーンの先は、世辞にも安全な場所とは言えない。目的のために必死だったとはいえ、よくも全速力でこんなところまで足元を見ずに駆け上れたものだと他人事のように感心しながら、足を踏み外さないようにカイは下方のイルのところまで下りて行く。
「有難う、イル。……色々動いてくれたな」
「……任務だからな」
素っ気ない返事ではあるが、視線は向こうを向きながらも、カイからの謝辞に微かに耳先が揺れていることにカイは小さく笑う。
「……それにしても、あれは何だったんだ?クレフトの足場になった通路、あんなものぶん投げられる怪力の持ち主なんて……」
ここには居ないよな、とカイは周りを見遣る。
「もしかしてイルが?……でも突っ込んできた角度的に違うよな」
「俺ではない。……現れたかと思うと投げ込んできて消えた」
「……へぇ……?」
間の抜けた返事をしてしまうが、イルの耳でもそれくらいしか分からなかったのか、と益々謎が大きくなる。
「でもきっと、味方なんだろうな。助けてくれた訳だろう」
「…………」
爽やかな顔付きでそう宣うカイに、イルは何とも言えない視線を向けたが、すっと片腕を持ち上げるときゅっと相手の鼻を摘まむ。
「んッ……!?」
「お前はもう少し周りを疑うとか、慎重になるとかを意識した方が良い」
短く息をついて歩き出すイルの進行方向には、おいおいと泣くゴルディニア公爵と、それを苦笑で宥めるクレフトの姿。摘ままれた鼻に手を当てて渋い面をしていたカイもまた、イルに続いて彼らの方へと歩き出した。
「……大丈夫ですか、閣下。決してご無理はなさらず……」
一度は経験の有るカイにとっても、周囲を占める独特の臭気は総毛立つほどである。耐性どころか前知識すら無い一般人のゴルディニア公は、恐らく立っているだけでも辛い筈。様々な危険に晒す恐れが有るため、本当は連れてくる心算は無かった。だが、公爵自身が無理を押してでも同行を望んだのだ。
「有難う、平気だ。……何としてでもあの子を……クレフトを連れて帰りたいんだ」
「分かりました。……ここは隙間が多い。足場にしっかり掴まっていてください」
カイの背後で公爵は小さく頷くと、通路から生えた頑丈な金属の柵に腕を絡めて捕まり、その場に膝をついて小さくなる。平気だとは言ったものの、昏倒までには至らなくてもずっと気分が悪い。急な眩暈でも起こして足を踏み外してはいけないと思った。
「頼む、アシュフォード。あの子を助けてあげてくれ。……みんなで帰ろう!」
「――――はい」
緩やかに歩み始めるカイの歩幅が次第に大きくなり、走り込むベイレスと互いに剣を振り上げる。激突する鋭い音が響いたかと思うと、矢継ぎ早に剣戟が繰り出される。片や経験豊富な師団長補佐、片や第一師団でも王太子の右腕にと望まれる異名の持ち主。トリッキー且つ殺傷力の高い一撃を誇るベイレスの太刀筋に対して、愚直なほどに正統派の型を操るカイは一見不利に思えるものの、型通りと侮る相手の反応を遥かに超える速度と重量で翻弄する。
「おおおおおッ!!」
吠える二人の剣戟に互いの魔力が乗る。彼らを中心として小さな火花が生まれては消える。カイは飛んで離れると紺青の宝剣を構え直した。
「……気付きましたか。貴方の魔力はここと非常に相性が悪いのですよ」
「…………」
ベイレスもまた、間合いを取った向こうで緩やかに剣先をこちらに向ける。薄笑いを浮かべる相手に、カイは矢車菊の視線をひたと定めた。あちこちで黄色い光を生み出している高温の炉が齎す熱気は、カイが無意識に近い感覚で操る冷気と良くない反応を起こしやすい。ベイレスが扱う魔力はカイの天賦の才には遠く及ばないものの、場に満ちる力に沿う形での支援に長けている。この辺りはやはり実戦経験の差か。カイは相手の挑発を静かにいなす。
「使わなければ良いだけだ」
「出来ますかな。……息をするように冷気を纏う貴方に」
ゆらりと上体を傾いだベイレスが一気に間合いを詰めてくる。カイもまた、剣を下段に構えて迎え撃つ。ベイレスの剣を次々と受け止めては弾き、横薙ぎに逸らし、隙あらば袈裟切りに撃ち込まんとする。ベイレスが指摘した通り、カイはほぼ無意識に自身の魔力を薄く放出し、攻撃の補助としているところが有る。意識的にそれを抑え込もうとすれば逆に集中力を要するが、独特の異臭が有り、尚且つ背後に護るべき公爵を抱えているにしては、注意散漫になる様子が微塵も無い。ベイレスは小さく舌打ちする。
「……なかなか器用だ」
「一晩中全力で心を保つ必要が、つい先日有ったばかりでね」
それに比べれば易いものだとばかりにカイは宝剣を薙ぐ。常ならば、薄く纏わせた氷属性の魔力で刃に更なる硬度と切れ味を付与し、金属をも紙のように断つ。それが叶わずとも、完全に純粋な剣術だけでカイは少しずつベイレスを追い詰めていく。険しい表情を隠せなくなってくる師団長補佐の歯噛みを目にして、クレフトを戒めている数人を含む無頼漢が不安そうに後ずさる。
「……おい、大将が圧されてる」
「嘘だろ。あいつそんなに強いのかよ……」
彼らは自分たちのリーダーが、どのような力を持っていてどれくらいの地位に有るのかを何となく理解している。中には衰え始めた中年と侮り金品目的で襲い掛かって、返り討ちに遭った者も居る。自分達では力も立場も太刀打ち出来ないと思っているからこそ服従している相手が、見た目だけで言えばお飾りの人形のような若い優男に力負けしている様を目にして、明らかに動揺していた。次第に息の上がるベイレスに、勝ち目が無いと早々に判断したのかごろつきの一人が踵を返して走り出す。それを皮切りに次々と背を向けて走り出し、地上へ通じる階段に我先にと群がっていく。どさくさに紛れて取引相手の貴族の使いもそれに混ざり、やがてクレフトを戒めている二人ばかりが残される。彼らもまた、押し付けられた精霊族を放って逃げるべきか迷っている様子だった。
先に走り出した数人が階段に到達しようとしたその時、金属が擦れる破壊音が響いたと思うと、階段上部の床が一瞬にして四角く切り込みが入り、轟音と共に崩落していく。
「うわあああっ!」
階段まであともう少しだった者は巻き込まれて足を瓦礫に挟まれ、走り出すのが遅れた者も、巻き上がる粉塵から急に現れた複数の人影に飛び掛かられて、その全てが拘束されていく。ベイレスが指揮を執ることで漸く形になっていた一味は、頭を失い烏合の衆と化してしまえば、いとも容易く瓦解する。騒乱の中で、灼熱の炉が一つ、また一つと動きを止めていき、絶えず薬物が運ばれていたレーンも少しずつ動かなくなっていく。
「下敷きになった輩も全て拘束せよ。生死は問わん」
迷いなく迅速にごろつき共を捕縛していく者達を、的確に指揮する硬質な声が、轟音の只中でもはっきりと響く。聞き覚えの有り過ぎるその声に、ベイレスは米神をひくつかせた。
「ランカスター……ッ!!」
「投降しろ、ベイレス!今なら同期のよしみで足一本くらいで妥協してやる……!」
沈着冷静と評される第四師団長は、自ら率いる精鋭小数部隊に指示を出しつつも、憤怒の形相でかつての友人を睨めつけた。矢継ぎ早に繰り出されるカイの猛攻を寸でのところで躱しきったベイレスが、肩で息をしながら視線だけでランカスターを見遣る。
「……何故私を悪と断定する。領地の隅でかような施設を秘密裏に運営していた公爵を断罪していたところだ!」
「この期に及んで見苦しいぞ、ベイレス!貴様と公爵閣下との会話は、アシュフォード卿が全て我々に共有済みだ」
「何も形に残らん会話ごときでここまでするとは。師団長補佐の立場に在る者を拘束する証拠にしては弱いな!」
「証拠なら有るさ」
ランカスターが、部下から受け取った数十枚の書類をベイレスに向けて掲げてみせる。それを目にして今度こそベイレスは青褪めた。今までに行われた取り引きの見積もり、覚書、納品の書類等々。その全てに、一見分からないように崩してはあるものの、ベイレスの署名がはっきりと記されている。その部分を改竄して公爵邸に残してこいと指示した筈の書類だった。
「貴様もよく知る通り、我々はずっと悪魔の薬物の跋扈に悩まされてきた。近くに居ながら無能な奴らだと、さぞやほくそ笑んだことだろうな。取り締まる側に害虫が紛れていることは見当が付いていたが、踏み込む決め手が無かったのだ。しかし今朝、勇気有る者が告訴に現れた。……貴様の言い方をするなら、安物で大した能力も無いが、そこそこ使える忠義者、のお手柄だ」
「……クレフトぉぉぉっ!!」
憎悪の怒声にクレフトは反射的に身を竦め震えるが、浅い呼吸の隙間から、微かに口角を持ち上げる。クレフトを戒めるごろつき二人はあっという間にランカスターの配下に取り押さえられ、クレフトはへたりとその場に膝をついた。自由の身になったとはいえ、長年自分を暴力で縛り付けてきた男を裏切ることへの不安、怒号への恐怖に咄嗟に力が入らなかった。予想以上に早く取り引きが始まってしまったことで、騎士団による検挙が果たして間に合うのか、話をした師団長は信用に足るのか、そもそも精霊族である自分の言葉と持ち込んだ書類を信じてくれたのか、ずっと気が気ではなかった。
「クレフト……!」
涙声にはっとしてクレフトは顔を上げる。頑丈な金属製の柵に腕を絡ませしっかりとしがみついているゴルディニア公爵が、くしゃくしゃの顔で目を細めながら二度三度と頷いている。今だ震えが止まらないながらも、クレフトは公爵を眩しく仰ぎ見た。嗚呼、漸く何の芝居も必要無しに、この人と向き合えるのだ。
「くそおおおっっッ!!」
突然、ベイレスが剣を持つのとは逆の腕を振り上げる。灼熱の炉が有るために自重していた魔力による衝撃を、やけくそのように宙へと放った。恐らくはもう逃れられないと踏んでの自棄。せめて失脚を目論んだ公爵を道連れにしようとしたのだろうが、衝撃波は弧を描いて什器の立ち並ぶ通路へと激突する。何にもならず外したかに思われたが、什器が衝撃波によってひしゃげ、金属製の通路ごと半分折れる形で凄まじい音を立てながら下方へと斜めに落ち込んでいく。
「ひっ……!」
「閣下!」
公爵が掴まっている足場もまた、あおりを食って斜めに揺らめいた。金属が擦れる耳障りな音を連れて、ゆっくりと傾いでいく。先程から次々とイルが施設を停止させているが、一度上限まで温度の上がった炉はそう簡単には冷めてくれない。よりにもよって、公爵が掴まっている足場だったものは、ゆっくりと炉の真上まで斜めに傾いでいく。位置的に第四師団が一味の捕縛に従事している辺りからは距離が有る。自分が一番近いと判断してカイは駆け出そうとしたが、突如切り込んできた剣先を紺青の刀身で受け止める。
「くそっ……」
こんな場合ではないのに、と焦る気持ちが太刀筋を乱す。そこにつけ入り眼光鋭く踏み出したベイレスの一突きを、カイの剣ではなく別の物が割り込んできて受け止めた。硬質な紫水晶の瞳が的確に相手の剣戟を看破する。涼やかな立ち姿からは凡そ想像つかない腕力が、顔色一つ変えず現役の師団長補佐に思念を編んだ刃で鍔迫り合いを強いる。
「行け、カイ」
「……頼む!」
端的なイルの呼び掛けに、躊躇いも振り返りもせずカイは駆け出す。一方でベイレスは突然現れた黒髪の男に瞠目した。人間とも誤魔化せない、横向きの尖り耳。人非ざる美貌。その正体は明らかだが、圧倒的な存在感と、限りなく人間に近い容姿、そして息一つ乱さずにこちらの全力を封じてくる物理的な力。それはこれまでに使い捨てたどの精霊族とも異なった。この、一目で判る別格の精霊族が、公爵の護衛であるカイを援護しているということは、つまり。
「……馬鹿にしおって……ッ!!」
また一つ、使えない性奴と見下していた下僕に騙されていたと知る。しつこいくらいに確認した筈だった。クレフトは確かに、公爵の護衛が連れている精霊族は古の世代ではないと言い切った。ベイレス自身は最古の世代の精霊族を目にしたことは無かったが、噂通りであれば戦闘能力に長け、たった一人で一個連隊に匹敵する武力を持つという。分かっていれば、廃墟には目立つとしても、リスクを冒してでも人数を揃えて備えたものを。ベイレスは歯噛みする。騎士団の介入が有ろうが無かろうが、古の一族が相手方に居るという事実そのものが、計画が潰える可能性を高くする。だからこそ、あれだけクレフトに確認したというのに。
「うぐっ……」
見たことの無い太刀筋に翻弄され、ベイレスは踏鞴を踏む。カイの剣術は正統派の型で、極めた動きは速度を伴えば厄介だったが、心が乱れて集中が欠けば容易く攪乱できた。だが目前の精霊族が操る型は、我流とも正道とも言い難く、寧ろどちらも融合されている気さえする。型通りかと裏を読めば逆に踏み込まれ、防御に徹すれば予想外の一撃を真正面から食らう。現役の軍人をかくも弄ぶ手腕に、実戦への経験値の差を垣間見てベイレスの背筋が冷える。この精霊族は、一体自分の何倍もの戦を経験しているのだろう。
「閣下、頑張って……!今行きます!」
一方でカイは、先程の攻撃で崩れて足場にならない箇所を目視で判断しながら迂回し、斜め上方で必死に金属柵に掴まっている公爵を見上げながら全力で走る。しっかりと掴まっていることを徹底していたお陰で、ゴルディニア公爵の体は先の攻撃でも吹っ飛ばされずに何とか柵に捕まることが出来ている。だが足元は不安定で、殆ど腕の力だけで自重に耐え、柵にしがみついているに過ぎない。体力を削る異臭と熱気、場の緊張感に心身共に大分疲弊している筈で、救出は一刻を争った。カイは手早く階段を駆け上り、止まったレーンの上を疾走して、金属枠に手を掛けて一飛びに抜け、迂回ルートながらも最短距離を詰めていく。
「ア、アシュフォード……!」
耳障りな金属音を連れて足場は少しずつ炉の方へと斜めに落ちていく。灼熱の炉の真上でも、恐怖や焦燥から泣き叫ぶことも無く、公爵は気丈に柵に捕まっている。そればかりか、絶望的な角度に少しずつ傾いていく格子の上の方へ、震えながらもじりじりとにじり寄って、柵に殆ど跨る形で体力温存の姿勢に努めると、片腕を精一杯伸ばした。
「これ以上……は……っ」
「十分です!」
ゆっくりと下がる足場が一番近付くレーンの端。そこを目的地にしてカイはひた走る。公爵が少しでも移動し、腕を伸ばしてくれるお陰で、レーンにタイミングよく辿り着けば救出は十分可能だ。カイは最後の坂状になった通路を駆け上がり、良い具合に差し出された公爵の腕を掴もうと手を伸ばす。その瞬間、公爵が乗っている柵のひしゃげた根本に第二波の衝撃が直撃し、棒のように折れると共に大きく公爵の体が宙に投げ出された。
「ひぃっ……」
「ぎあぁぁっ!!」
同じタイミングで下方に血華と両の上腕が舞う。二度目の衝撃を生む予兆を感じ取ったイルが剣先をその腕に向けるも、ベイレスは別の腕を捨て身の緩衝材にして妨害を阻止する。結果的に緩衝となった腕諸共イルは相手の腕を切り落とすが、寸でのところで衝撃波を止めることは叶わなかった。両腕を根元近くから失い、もんどりうって床に転倒するベイレスの横で、イルは斜め上のカイを見上げる。
「カイ!」
「くっ……!」
レーンの端に飛び掛かる勢いでカイは腕を伸ばす。公爵の指が確かに指先に触れた。だがそれは掴むに至らず、ただ掠めるだけで砂のように手元から離れていく。自重に揺れるレーンの先で、真っ逆さまに落ちていくゴルディニア公爵を見つめるカイの遥か後方から、金属を打つかのような鋭い音が響いたかと思うと、弾丸の如く真横を黒い何かが駆け抜けた。
「…………っ」
息を飲むカイの目の前で、クレフトは宙で公爵の体を摑まえるとその胸にぎゅっと搔き抱く。そんな場合ではないのに、以前にもこんなことが有ったな、と二人揃って逆さに落ちていきながらゴルディニア公爵は思い出した。
(賊に邸を襲われたとき……夜会から戻る途中で襲撃に遭ったとき……)
腕に傷を負いながらも自分を庇ってくれた。馬車の中で蹲って怯えていた自分を抱き締めてくれた。いつだって彼はこちらを案じ、護ろうとしてくれた。優しくて臆病で、悪戯好きで心配性で。確かに、自分を貶めるために彼は差し向けられたのかもしれない。けれども、そこに自分を騙るための演技など、果たして有っただろうか。
走馬灯のように思い馳せる公爵を抱えて、クレフトは遥か上のカイ目掛けて腕の中の相手を渾身の力を籠め放り投げようとするが、寸前で微かな音を聞いた。その音が何であるかを理解するよりも先に、咄嗟にクレフトは宙で体を反転させる。轟音を立てて真下目掛けて突っ込んできたのは、長大な金属板の通路だったもの。激突する間際にそれを蹴って跳躍する。クレフトが与えた衝撃の威力で炉に叩き込まれる形となった金属板は、その表面に触れるか触れないかで見る間に赤い液体と化していく。ゴルディニア公爵を抱えたクレフトの体は、腕の中の相手を庇う形で炉から離れた通路の端に落下し、その表面を暫く滑ってから止まった。
「うっ……」
長時間危険に晒された緊張感、燃えそうなほどの熱に炙られ疲弊した体は既に限界間近で、公爵はあちこちに痛みを感じて呻いた。強く抱き締めていた腕が解放されたかと思うと、心配そうに覗き込んでくる顔が有る。
「アンバー様……!ご無事ですか」
その頬も柔らかな毛に覆われた耳先も擦り剝いて血が滲んでおり、コートの端も履いている靴もぼろぼろで、思わずゴルディニア公はくしゃりと眉根を寄せて相手の肩をぐっと捕らえる。
「ご無事じゃ無いだろ、君が……!こんなに震えて……怖がりな君が……」
恐らく本人には自覚が無い。小刻みに震えるクレフトを真正面から抱き締めて、公爵はさめざめと泣いた。
「帰ろう、クレフト……一緒に帰ろう」
ほろりとクレフトの頬を涙が零れ落ちる。一度は離した腕を回して、クレフトもまた、相手をぎゅっと抱き締めた。
「――――はい」
公爵を掴み損ねたレーンの上では、彼らの姿を確認してほっと息をついたカイが、第四師団によって拘束されたベイレスに視線を投げたところだった。
「ぐ、う……ッ」
両腕を失い多量に失血しているベイレスを、数人がかりで応急処置の治癒魔法を掛けながらきつく止血する。青褪めた男が転がる傍に、硬質な靴音が響く。浅い息の中、霞む視界の中に浮かぶのは嘗ての友であり同僚であり、好敵手だった男。
「……死なせはしない。洗いざらい吐くまではな」
冷たい視線は、もうランカスターにとって自分はそのどれでもないことを思い知らせてくる。自ら手放した絆に、ベイレスは僅かに口端を持ち上げて意識を失った。
「カイ」
はっとして声の方に視線を投げる。自分が今居る斜めになったレーンの先は、世辞にも安全な場所とは言えない。目的のために必死だったとはいえ、よくも全速力でこんなところまで足元を見ずに駆け上れたものだと他人事のように感心しながら、足を踏み外さないようにカイは下方のイルのところまで下りて行く。
「有難う、イル。……色々動いてくれたな」
「……任務だからな」
素っ気ない返事ではあるが、視線は向こうを向きながらも、カイからの謝辞に微かに耳先が揺れていることにカイは小さく笑う。
「……それにしても、あれは何だったんだ?クレフトの足場になった通路、あんなものぶん投げられる怪力の持ち主なんて……」
ここには居ないよな、とカイは周りを見遣る。
「もしかしてイルが?……でも突っ込んできた角度的に違うよな」
「俺ではない。……現れたかと思うと投げ込んできて消えた」
「……へぇ……?」
間の抜けた返事をしてしまうが、イルの耳でもそれくらいしか分からなかったのか、と益々謎が大きくなる。
「でもきっと、味方なんだろうな。助けてくれた訳だろう」
「…………」
爽やかな顔付きでそう宣うカイに、イルは何とも言えない視線を向けたが、すっと片腕を持ち上げるときゅっと相手の鼻を摘まむ。
「んッ……!?」
「お前はもう少し周りを疑うとか、慎重になるとかを意識した方が良い」
短く息をついて歩き出すイルの進行方向には、おいおいと泣くゴルディニア公爵と、それを苦笑で宥めるクレフトの姿。摘ままれた鼻に手を当てて渋い面をしていたカイもまた、イルに続いて彼らの方へと歩き出した。
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