氷剣の皇子は紫水晶と謳われる最強の精霊族を愛でる

梶原たかや

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3話◆アスモダイの尖鋭

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「いやもう……何と言いますか、只々申し訳なく……」
 王太子の執務室で、カイはずぶ濡れの犬のようにしおしおとした空気を纏って項垂れる。執務机の上で両肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せて、王太子エディアルドは苦笑した。
「別にそんなに気を落とすこと無いだろう。首尾は上々だと聞いたぞ。リーリアの危機を救い、ゴルディニアが襲撃されたのも阻止出来たと」
「……リィが狙われていることに気付いたのも、帰りの馬車を守ったのもイルなので……。寧ろ私はお守りするどころか閉会間際に公爵閣下を離脱させることになってしまい……」
 一体何の為に同行したのか……と、どんより肩を落とすしょぼしょぼの部下に眉尻を下げて、王太子は小さく音を立てて椅子の背凭れに背を預け、腕を組んだ。
「珍しくお前の泣き言が聞けたのは、面白いものが見られたと思っておくが、過度に自分を卑下するなよ。お前が居なければ、イルを庇ってやることも、リーリアを守ってやることも出来なかったんだ」
 なぁ、と同意を求めてエディアルドはカイの斜め後ろに視線を投げる。中間報告に随行しカイの傍に控えるイルが小さく肯いた。前知識の有るカイが居なければ、イルはシガーのにおいに中てられて完全に動けなくなっただろうし、リーリアにグラスを差し出した相手を阻止するのもイルの身分では叶わず、かといってゴルディニア公爵が咄嗟に動けたかといえばそれも難しい。そもそもカイが居るからこそイルを同伴することが出来るので、カイ無くしてはイルのファインプレーも見込めない。
「それで、図らずも例の薬を口にすることになったわけだが。……感想は?」
「…………」
 話題が改まるも、軽い気持ちで口には出来ない出来事とその時の気持ちを思い出し、カイの背筋を冷たいものが走る。言葉を選びながらそっと口を開いた。
「……酒を飲むと記憶が飛ぶことも有ると聞きます。人にも飲み方にも依るでしょうが、記憶が飛ぶことが少なからず有ると。酩酊の感覚は似ているかもしれません。……ですが、どんなに意識が朦朧としていても、目の前の出来事は常にはっきりとしていました」
 だから、覚えているのだ。自分がイルにした事全てを。殴り付け、起き上がろうとするのを蹴り付けて、喉に歯を立てながら手加減無しに肌を引っ掻いた。目の前の光景はどこまでもリアルで、その全ての行為にこれまで経験したことが無いほどの強い愉悦を伴った。暴力行為と紐付けられた得も言われぬ悦楽に、文字通り溺れる感覚が有った。これが見知らぬ相手であったなら、悪いことをしていると頭では分かっていても、楽な方へと流されていたかもしれない。けれども、相手はあろうことかイルだったのだ。命の恩人であり、相棒であり、信頼関係を築きたいと思っている彼に、惨い行為を強いる自分が許せず、必死に抗った。暴力に溺れかけていたときはあれほど凄まじい快楽に見舞われたのに、僅かでも抗おうとすれば手のひらを返すように一気に苦痛が襲い掛かってきた。心を持っていかれそうになる感覚は一晩中続いた。大切なものを傷付けたくないという一心で耐え抜いた。
「当人が持つ暴力性は、表への出方こそそれぞれだと思いますが……嗜虐的な行いに性的快楽を結び付けて、無理矢理にでも引き出す薬の危険性を思い知りました。……あの一口で大変だったのだから、もしリィが口にしていたらと思うと肝が冷えます」
 今ならあの悦楽は吐き気がするほど気持ちが悪いものだと思うが、その時は抗い難い衝動として心が搔き乱された。舐める程度の一口で、体格も悪くない成人男性の自分が一晩苦しむことになったのだから、女性で細身なリーリアが飲んでしまったなら、良くて心を失うか、最悪命を落としていたかもしれない。もしも中途半端に効いたとして、公衆の面前で暴れでもしようものなら下手な媚薬などよりも余程質が悪い。大事な幼馴染が、外聞どころかその命すら脅かされたとあって、カイの心中は煮えくり返るどころではない。
「……本当にな。目には目を、というわけにはいかないが、彼らがきちんと裁かれることは約束しよう」
 カイとリーリアの証言で、あの日リーリアにグラスを渡そうとした人物は既に名前も身分も割れている。そればかりか単独での犯行ではないこと、そして黒幕の正体にも辿り着いている。短時間で突き止められたのは、第一師団所属のカイが被害者であるというのは勿論、司法関連を始め騎士団内部にも伝手が多いゴルディニア公爵の尽力が大きい。とある令嬢が、自身の想い人との婚約の噂が有るリーリアに嫉妬し、某男爵家の令息がリーリアに懸想しているのを良いことに、流行りの媚薬だと吹き込んで利用したというのが事の顛末である。一介の貴族令嬢がかように危険な薬物を容易く手に出来るという事実が恐ろしく感じられた。
「有難うございます、殿下。引き続き公爵閣下の護衛に努めます」
「ああ、よろしく頼む」
 丁寧に一礼すると、カイは姿勢を正した。
「……それにしても殿下、媚薬といっても様々なのですね。想像通りのものばかりではないといいますか……。以前殿下にいただいたものに似たものばかりかと思っていました」
「以前エディアルドに貰ったもの?」
 カイの言葉に、間髪入れずに斜め後ろのイルが訝しく眉を寄せて、鸚鵡返しに口にした。エディアルドと傍に控えるオーリエは、表情は変えぬまま『あっ……』という空気で二人を見守る。
「そうだよ。ほら、この間の……」
 後ろを振り返ったカイの視界に入らぬ形で、王太子が待て待てと手振りで制止するが何の効果も有りはしない。カイが懇切丁寧に以前この執務室でエディアルドに聞いたことを話して聞かせれば、怪訝なイルの表情は次第に胡乱なものになっていく。
「……へぇ……」
 カイの説明に明らかに薄い反応を見せて、よく分かったと言わんばかりにカイに頷くと、イルはその面のままエディアルドへと視線を移す。双眸の冷たさは、カイに向けていたものとは雲泥の差が有る。
「一体どんな種類で何て名前の薬が入っていたのか、ぜひ教えていただきたいものだな、王太子様、オーリエ」
 底冷えのする低音で呪詛のように一語一語ゆっくりと言い聞かせる。エディアルドと巻き込まれた憐れな精霊族は、サッと姿勢を正して同時に口を開いた。
「すまないが次の約束が有ってな、話は次の機会に――……」
「かしこまりました、イル様。後ほど真相をお話いたします」
 二人はそこまで言ってからはたと顔を見合わせると、急にこれまでの雰囲気とは一変して大声で応酬する。
「お前、私を裏切る気か!?」
「裏切るも何も、私は始祖の御方に隠し事は出来ません。どうぞお一人で怒られて下さい!」
「何て奴だ!死なば諸共だろうが!」
 普段非常に㤗然自若としており、近寄り難ささえ感じさせる二人が大人げなくぎゃんぎゃんと言い争う様を、ぽかんとしてカイは眺める。面倒臭そうにイルは長い溜息をついてカイを見遣った。
「……というわけで、俺は少し二人に話が有る。お前は第一師団に顔でも見せてこい。後で落ち合うぞ」
「わ、分かった……」
 このまま退室してしまって良いのだろうかと思わなくもないが、イルはひらひらと手を振って早く行けと促してくる。カイはそそくさと王太子の執務室を後にした。部屋の外で扉をそっと閉めてくれるシェドに軽く挨拶をして別れると、長い廊下を歩んで建物の外に出る。
(顔を見せに行くといっても、寝込んで何日も休んだというわけでもないし……)
 今回のゴルディニア公爵護衛任務は、公爵家に滞在することも最初から想定された為、第一師団の任務から暫く離れることは、王太子経由で直属の上司であるロレーヌ公爵マルクティアも承知している。その時点で、何日か第一師団の執務室及び任務地には赴かないことを、同僚の皆にも伝えてあった。任務が終了したわけではないので姿を見せないのは特段おかしなことではないが、夜会で女性を庇って薬物を口にし昏倒したという話は、恐らく組織上騎士団内部に知れ渡っているので、元気な姿を見せておくのは良計か、と第一師団の執務室が有る建物に足を向ける。
 実際に顔を覗かせると、取り囲まれた上に思った以上に褒め称えられた。第一師団は騎士団の中でも花形扱いで、見目や家柄の良さも勿論のことだが、性格面も安定していて素直な者が多い。女性を守って傷を負ったという事実そのものが彼らにとってはヒーローに匹敵するのだろう。特に今回救われたヒロインであるダールベルク公爵令嬢リーリアは、氷の美貌を持ち決して誰にも媚びず靡かない、高嶺の花として大勢に憧れられている。王家の姫君さながらにマドンナ扱いされる彼女を救ったとあって、関係を根掘り葉掘り問われるなど、隠していることでも悪いことをしたわけでもないのに、カイは逆に恥ずかしくて居たたまれなかった。そんなひと時を過ごして、よろよろと第一師団の執務室を後にする。
(……ゴルディニア公が仰るもみくちゃって、こういうことかな……)
 どうでもいいことをしみじみと考えながら、まだイル達の話は終わっていないだろうかと思い馳せる。ふと、足を止めてとある方を見遣った。どの建物にも接していない、騎士団屯所敷地内の片隅にぽつんと佇む施設が有る。手入れされていないというよりは、手つかずの林を模した木々の間に埋もれるようにして建つ建物。カイはそちらへと足を向け、歩き出す。正午の麗らかな日差しが降り注いでいる。騎士団員はこの時間は皆、内勤か訓練、現場での仕事に従事している。案件として事件や事故などを多く扱う為、今し方王太子の執務室や第一師団の課室で雑談したようなのほほんとした空気は、基本的に無い。常にぴりぴりしているわけではないが、緊張感を持って従事していることが屯所全体から感じられる。カイが今向かっている施設は、そんな硬い空気から隔絶された一角だった。やがて金属製の門が見えてくると、カイは自身の肩ほどまでの高さの門の留め金を開けて先へと進む。
「こんにちは」
 草花が繁る小道を進み、建物の入口近くの椅子に腰掛けている少女に声を掛けると、彼女はびくっと身を竦ませてまじまじとカイを見上げる。少女の頭の左右には羊のような巻き角。カイをじっと見つめるその瞳孔は横長で、明らかに人間ではないと知れた。カイは少女の前でゆっくりと腰を落としてしゃがむと、笑みを浮かべて訊ねる。
「アスタリアは居るかな。カイが来たって言ってもらえば判ると思うんだけど……」
 少女は椅子から立ち上がると、手にしていた編みかけの花輪を椅子の上に置いて、建物入り口の扉を開けてくれる。
「……ママはししゃく・・・・様の所にお出かけしていていないの。代わりにトゥーラがいるよ」
「トゥーラ……」
 聞いたことの有る名だと思った。確か王太子の従僕の一人だったか。彼の執務室を離れないオーリエとシェドには仕事柄何度も会っているし言葉も交わして随分経つが、それ以外の王太子の精霊族達には、話には聞いていても会ったことは無い。身の回りの世話に従事している二人以外は、国内の各地で独自の任務に当たっていると聞くが、偶に屯所にいることも有るのか。しかもこの施設に足を運んで。カイは羊の特徴を持つ少女に導かれながら建物のエントランスを進み、その奥の部屋へと踏み入れる。少女は部屋の中に向かい、ぱっと駆け出した。
「トゥーラ!カイが来たよ」
 いや、顔見知りの施設責任者に取り次いでもらうならまだしも、顔も知らない王太子の従僕に自分の名を告げても……と苦笑するも、草花が繁り緑の香りがする広間の中央に座り込む人物の顔を見て、はっと息を飲む。足は意識せずとも止まっていた。室内に小さな森が存在することは、何度も来ているので驚く要素ではない。只々、羊の特徴を持つ少女が駆け寄る相手の容姿に目を瞠る。
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