氷剣の皇子は紫水晶と謳われる最強の精霊族を愛でる

梶原たかや

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3話◆アスモダイの尖鋭

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 片方の耳先をぱたりと動かして、イルがその場で止まる。彼が動かなくなれば必然的にカイもダンスを中断して彼を注視する。
「どうした。……ゴルディニア公の御身に何か?」
「いや……」
 探るような視線を二階廊下に向けていたイルだが、何でもないとかぶりを振る。
「公爵は四人目と踊っている最中だ。そろそろ疲れ始めているようだな。……それはさておき、今の俺達を見ていた奴がいるが、気にしなくても良いかもしれない」
「えっ、見られてた?」
 ぎょっとしてカイはイルが視線を向けていた方を見遣る。話を聞けと言いたくなるような反応に、呼気で小さく笑いつつイルはカイから手を離し、自身の耳と口元を覆うヴェールを付け直した。
「気にしなくても良いと言ったろ。……さっきお前が絡まれていたのを助けた女だ」
「……リィ?」
「全幅の信頼を寄せる相手なのだろ。話しているお前の声からそう判断した」
 そうだな、とカイは相槌を打つ。誰かに見られていた、と知った時こそ慌てたが、相手があの幼馴染だと知って一気に冷静になる。確かに、彼女なら自分が任務中にある程度サボっていたところで黙って見逃してくれそうである。冗談としてお茶の一杯、焼き菓子の一箱でも要求されるかもしれないが。二年振りに目にした幼馴染の怜悧な美貌を思い浮かべ、カイは眉尻を下げて笑む。
「リィには情けない姿を見られてばかりだな。今度会おうとは言ってあるけど、盛大におもてなししなければ」
 カイの表情を見る限り、良い友人なのだろうとイルは思う。二人の会話を聞いた時も、今のカイの反応を見ても、お互いに異性として意識しているようには思えない。ここまでの容姿を持ち仲も悪くない男女二人が、友情以上の気持ちを僅かも抱かない筈がない、というのが経験上の定石だが、この二人に関して言えば、それは当て嵌まらないように思える。仲は良いが盲目的に求め合い依存し合う間柄ではない。どこか同性の友人のようなある種の一線が有り、落ち着いた視線で互いを正確に認識し合えている。ただ、それはカイとあのリーリアという女性の間だけのことであって。
(……俺に向ける視線は、見覚えの有り過ぎるものだった)
 嫌厭を隠しもせずに自分を射貫いてくる目。貴族がイルに向ける視線は大概、嫌悪感を剥き出しにしたものか、好色なものかに二分される。リーリアが自分に向けるのは紛れもなく前者だった。カイと仲が良いということなら、さしずめ真面目で優しい幼馴染を誑かす淫魔を毛嫌いして、といったところか。ただ、それをカイに告げる心算はイルには無かった。自分をどんなに憎悪の対象として見る人物だったとしても、それを理由にカイとリーリアを仲違いさせたいわけではない。おそらくカイのことだから、招いたリーリアに自分を紹介しようとするだろうが、自分が出ていくことで火に油を注ぐ気も無い。イルは故意に彼女の話題に言葉を繋げることもせず、バルコニーの扉へ向けて踵を返した。
「そろそろ行くぞ。踊り疲れて公爵が倒れる前に」
「ああ、流石にもう戻らないと」
 意外と時間が経過していた、とカイも後に続く。バルコニーの扉を音も無く少し開けると、二人はカイがイルに引っ張り込まれた辺りからそろりとカーテンの外に顔を出す。サロンは人も疎らで、独りぼっちの者もおらず、ダンスも参加せずに残っているとなれば、誰もが互いに愛を囁くことに夢中になっている。薄暗い端の辺りということもあって、暗がりにふっと沸いて出たカイとイルを気に留める者も居ない。二人は部屋の端をそっと進むと、静かに扉を開いて屋敷の廊下に出た。エントランスホールに続く中央の大階段を下りて曲がり、そのまま真っ直ぐに一階の廊下を進むと、奥から伴奏の音色や談笑の声が賑やかに聞こえてくる。広間の手前に佇む伯爵邸の警護に扉を開けてもらい、カイはイルを伴ってダンスホールへと足を踏み入れた。先程サロンに集まっていた面々が、ワルツを嗜みつつ歓談している。社交界というものを経験し始めた少年少女は緊張でどこかぎこちなくも、課せられた使命を全うすると共に、精一杯あらゆる物事を吸収しようと躍起になっている。親世代のお歴々は優雅に会話を楽しみながらも、端々から打算的な思惑を誤魔化しきれていない。
(……独特の空気だよな)
 カイ自身、社交場自体はこの歳までに数え切れないほど参加してはいるものの、こうして独り身になってからは殆ど出向いていない。当人同士の品定めも、世故に長けた親世代の視線も、エルネスティーネが傍に居てくれることで免れてきたのだと痛感する。この雰囲気が嫌いとまでは言わないが、あまり長居したいとは思わない。意中の相手でも居ればまた違うのかもしれないが。そう考えて、先程のイルとの戯れは楽しかったな、とカイが思い出していたその時。
「い……いた」
 ちょうど流れていた曲がキリ良く途切れたタイミングで、奥の方からよろよろとゴルディニア公がこちらに向かってくる。疲れ切った姿を、眉尻を下げてカイは迎え入れた。
「お疲れですね、閣下……」
「気が付いたら二人とも居ないんだもの。私が一体どれだけのご令嬢方にもみくちゃにされたか……」
「はは……」
 足ががくがくになるほどに、代わるがわる少女たちに応えていたのだろう。カイは苦笑するが、こうして誰の誘いも断らずに受け入れるから、この公爵は偶にしか社交場に顔を見せないのに皆に慕われるのだ。ふと視線を巡らせると、踊る相手の居ない令嬢の何人かがほんのりと頬を染めてこちらをじっと見つめている。その視線の先がゴルディニア公爵なのかカイなのかは分からないが、ひとまずカイはそそくさと二人を伴って広間を後にした。
「少し休憩しましょう。せめて閣下の足が笑わなくなるまで」
「そうしてもらえると有難い……」
 長々と溜息をつく生まれたての子羊のような公爵の手を引いて、カイはイルを伴い廊下を歩む。伯爵邸の部屋の幾つかは休憩用に解放されており、開け放たれた扉の向こうで数人がソファに腰掛け、のんびりと歓談している様子が廊下からも窺える。カイと公爵は廊下を進みながら部屋の一つ一つに視線を向けていたが、とある一室の前で公爵が小さく声を上げた。
「あっ、コリンズ」
 カイがそちらを見遣ると、ゲイラー子爵の姿が有る。部屋に一人、ソファに掛けて飲み物のグラスを傾けながらのんびりと寛いでいる三十代の紳士は、ゴルディニア公とは顔馴染みの一人である。他の部屋は人が多く、そこでの会話も弾んでいるようで少し入りにくい。ゲイラー子爵が居る部屋を相部屋にさせてもらうべく、公爵はいそいそと部屋へと入っていった。どうやら快諾してもらえたようで、手招きされたカイとイルも続く。ゲイラー子爵コリンズはゴルディニア公とカイに丁寧な一礼をした。
「改めまして……お久し振りでございます、ゴルディニア公、アシュフォード侯」
「うん、君も元気そうで何よりだよ」
 優雅に微笑む公爵は、カイがよく社交場で見かける余裕の有るもの。実際はその足は小鹿のように心許無いとは、カイとイルしか知り得ない。今まで目にしていたにこやかな笑顔の裏にもこのような疲弊が有ったのだろうかと、カイは心の中で苦笑する。立ち上がって二人掛けのソファを公爵に勧めたゲイラー子爵は、部屋の入口へと歩み寄り、観音開きの扉の片方を少しだけ開ける形で閉めようとする。
「閉め切った方が静かで落ち着くかとは思いますが、部屋を解放している趣旨からは外れますし、このくらいで……」
「有難う、コリンズ」
 廊下や他の部屋からの音を完全に遮断出来るわけではないが、それでも扉が殆ど閉まっているという視覚的な理由で、この部屋にもうこれ以上人が増えてほしくないという牽制になるだろう。ソファまで戻ってくるとゲイラー子爵はカイにもソファを勧めたが、カイは緩と首を振った。
「今宵はゴルディニア公の護衛としてこの場に居るので。……ああそうだ、閣下に飲み物を貰ってきましょう」
「それでしたら私が……」
 再び立ち上がりかけたゲイラー子爵をにこやかに制すると、カイは部屋の隅に控える相棒に目配せをして、少し開けられた扉の隙間から部屋の外に出る。依然として続く軽やかなワルツの音色が、賑やかな話声と共に廊下の奥の広間から聞こえてくる。舞踏会は、一番盛り上がる頃合いも少し過ぎていた。品定めの視線は一段落して、そこに様々な思惑は有れど、各々が思うままに過ごしている。これだけ落ち着いた雰囲気になれば、適当にふらついても場を楽しむことも出来そうだ。招待客としての参加は立場的に億劫なところが有るものの、カイ自身こうした賑やかな催しは嫌いではない。エルネスティーネと夜会を訪れた想い出を懐かしみながら、カイは給仕を探してアルコールを含まない飲み物のグラスを受け取った。
(……ゲイラー卿ももう一杯飲むだろうか)
 ふとそう思うものの、却って恐縮させるか、とひとまず一つだけを携えて踵を返す。ざわめきを背後にカイは廊下を歩み、三人が待つ一室の前まで戻ってくる。観音開きの扉をノックしようとして、カイはぎくりとその場で足を止めた。
(……このにおい)
 開いている隙間からほんのりと漏れてくる独特の香り。肌が粟立つ感覚を覚えながら、カイは努めて冷静に扉をノックして押し開ける。そこには思った通りの光景が有った。ゆうらりと上がる紫煙の動きが目に入る。ゲイラー子爵の手元のシガーに因る、独特の香辛料めいた甘さを感じる煙が、ゆっくりと部屋に満ちかけている。カイは視線で壁際に佇むイルを窺った。一見、カイが飲み物を取りに部屋を出たときと特に変わり無いように見える。だが僅かに顔色が悪いようにも見受けられて、カイは飲み物を手にしたままにこりとゴルディニア公爵に会釈すると、それを相手に渡すのではなく、まずはイルの傍へと歩み寄った。
「部屋の前の警護を頼めるか」
 極自然な声音で任せる旨を告げると、イルは薄紫の視線を伏せてからそっと部屋から出て行った。カイは小さく息をついて、ゴルディニア公の傍へと歩み寄る。
「お待たせいたしました。どうぞ」
 有難う、とグラスを受け取る公爵の隣で、ゲイラー子爵はシンプルだが上質な造りの小箱を開けて、カイに軽く掲げてみせる。その中には丁寧な作りのシガーが整然と並んでいた。
「アシュフォード侯も如何ですか。……もしかして苦手でしたか」
「私は嗜みませんが平気ですよ。そのままごゆっくり」
 表面上穏やかに返事をするカイの内で、様々な感情が渦巻く。恐らくゲイラー子爵は同じ気遣いと言葉をゴルディニア公爵には掛けただろう。そしてイルには掛けなかった。それを個人的に恨めしく思いはすれど、決して彼を責めることは出来ない。貴族階級の者、それも当主が、他所の者も含めて従者相手に心を砕いたり言葉を掛けることは無い。ゲイラー子爵の言動は極めて普通のものだ。カイ自身、アシュフォード邸の使用人に対する自分の態度が稀有なものであることは自覚が有る。使用人を空気のように扱う祖父の姿を知っているので、そちらが世間一般の貴族の振る舞いであることも理解している。
(……解ってはいる、けど)
 よりによって、という気持ちと、イルが苦手なものを知っていながらこの場を離れたことへの後悔と、こうした場での喫煙の可能性を失念していた自分への怒りと。カイ同様吸いはしないが嫌がりもしないゴルディニア公が、楽しげにゲイラー子爵と歓談する様子を、カイは気もそぞろに眺めていた。
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