氷剣の皇子は紫水晶と謳われる最強の精霊族を愛でる

梶原たかや

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3話◆アスモダイの尖鋭

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「……イル」
 人の居ないバルコニーへと相手を引っ張り出すと、イルはそっと静かにバルコニーの扉を閉めた。広間に満ちる菓子や香水の甘い香りが遮断されて、風が夜気を纏い気疲れした体を冷やしてくれる。月明かりの仄明るい青白さの中で、イルは顔半分を覆うヴェールを外す。静かな月光の下、白皙の膚の透明感にその姿は儚げに映る。美しい、という言葉がカイの脳裏に一番に浮かんだ。捜そうか思案していた相手と会えたことにほっとして、カイは口端に笑みを浮かべる。
「外に居たんだな」
「空気が甘ったるく澱んで、あまり中に居たくなかった」
「そっか」
 人間の自分でも独特の空気だとは常々思っているが、やはり森で産まれた彼にとっては苦手なものなのかもしれない。カイは苦笑する。自分も好きか嫌いかといえば好きとは決して言えないが、今は好き嫌いを言っている場合ではない。
「でも任務中だからな……。俺は中に戻るけれど、イルはここに居て良いよ。何事も無ければ終わる頃に声を掛けるから」
「あの公爵のことなら大丈夫だ。俺が聴いている」
 聞き慣れない言い方で極自然に返されて、カイはきょとんとする。
「聴いて……?ああ、そうか、君の聴力で今あの方がどこに居るのか判るのか」
 イルはこくりと肯いた。なるほど、と得心がいったカイだが、すぐにある疑問が沸く。
「でも扉を隔てているしこの賑やかさだろう。集中して気疲れするんじゃないか」
「これくらいの距離と障害物なら特に問題は無い。……逆に中に居た方が、においと人混みにやられて俺は無理だな」
 イルは月を眺めでもするようにバルコニーの手摺の方へと向かう。月明かりの逆光に細いシルエットが浮かび上がる。柔らかな銀白の光の中でイルはこちらを振り向く。
「サボるなら今しか無いだろ」
 悪戯っぽく微笑う。珍しい表情と台詞も相俟って、さながらニンフのような妖しさを放つ。その美貌に邪に傾倒するのならたちまち虜になってしまうのだろうが、生憎とカイの双眸は彼を性奴として認識しない。そうだな、と呼気で笑うとカイは少し考えてから丁寧に片手を差し伸べた。
「――――踊っていただけますか」
 今度はイルが不思議そうな顔をする。一つ二つと呼吸する間を置いて、流れに任されるまま相手の手に片手を重ねるが、動き出す様子は無い。
「……俺に女役をしろと?」
「ああ……そうか、流石に難しいか」
 ペアになって踊るということはどちらかがそうならざるを得ない。カイ自身は男性の型でしか動けないので、イルが女性の型で踊れなければその時点で詰んでしまう。颯爽と手を伸べて誘ったにも関わらず、恥ずかしいな、と苦笑するカイに、イルは短く息をついてその肩に片手を触れた。
「出来ないなんて言っていないが」
「……踊れるのか」
「言っただろう、昔それなりに仕込まれたってな」
 人間の文字を始め、馬術にテーブルマナー。酔狂な貴族に教えられたことは多岐に渡り、最早その辺りの貴族のサロンに放り込まれても対等に渡り合えるほどの作法を身に付けているらしい。いつしかカーテンの向こう側の喧噪は一階の広間に移っていたようで、楽器の演奏が微かに聞こえ始めた。三拍子のリズムに合わせてカイはステップを踏み出す。予備歩からのスピンターン、音を拾いながらフォーラウェイリバースを挟み、イルが戸惑わないように丁寧に相手をリードしつつ進めていく。冴え冴えとした月光に照らされた白いバルコニーは、正規の招待を受けていない二人だけのささやかなダンスステージ。
「今宵のアシュフォード侯は、誰とも踊らないんじゃなかったのか?」
 微かに口端を上げて意地悪な問いを投げる相手に、ふふ、とカイは楽しげに目を細める。
「そうだよ。だから今の俺はただのカイだ。任務中の俺達二人、会場でも何でもないここで好きに踊ってサボってるなんて、愉快じゃないか」
「品行方正な侯爵様の台詞じゃないな」
 呼気で笑ってイルはカイの肩から手を離し、相手のリードでその場でくるりと回転する。ワルツの軽やかな音楽に合わせて、やがて二人は特に目配せをせずとも息の合ったターンを踏み込めるようになる。イルが幾らでも即時対応してついてこられることを察したカイが、遠慮しないようになったのもある。音楽は微かに、灯りは冷たい月明かりのみ、纏う衣装はお互い仕事用の飾らないものであるのに、カイはもしかすると今までに経験したどの舞踏会よりも楽しいと思えたかもしれない。
(……綺麗だな)
 陰りを帯びた伏目がちの紫水晶が、時折こちらを見る度に月光を反射する。一つに纏められた濡れ羽色の髪は月白に照らされ、ワルツのステップの度にさらさらと揺れる。体格も背丈も殆ど変わらない筈なのに、こちらの動きを繊細に追うからか嫋やかな印象を抱く。亡くした婚約者のエルネスティーネとも、何度も社交場で踊った。彼女とのパ・ド・ドゥも楽しかったし、いつも温かな気持ちになれた。忘れ得ぬ想い出として決して比べるものではないが、イルとのデュエットは全く異なる性質の充実感を齎してくれる。任務で来ているという意識は確かに有る。勿論忘れてなどいない。けれども、このささやかな時間がいつまでも続けば良いと思ってしまうのだった。


 もう幾人ものダンスの誘いを断って、結局誰の手も取らないまま、リーリアは所在無く一階からの階段を上がる。供の者を付けずに歩くのは褒められたことではないが、何となく今は一人になりたかった。二階のサロンにはまだ幾人か残っていて、ダンスよりも雑談に夢中になっているようだ。その中に入っていくのも憚られて、リーリアは長い廊下を窓の外を見遣りながら進む。ふと、その足が止まる。二階のサロンの奥は大きな観音開きの扉が有り、その向こうはバルコニーになっているが、人の流れを階下の広間に向けるために今は分厚いカーテンで遮られ、人の行き来が出来ないようになっている筈だった。リーリアが今居る廊下のその場所からは、角度的に僅かながらそのバルコニーが見えるのだが、そこに小さな人影が二つ。左右に移動しながら沈んでは浮かび、浮かんでは沈む一定のリズムは、どうやら階下から聞こえるワルツに合わせているのだろう。片方には見覚えが有る。漆黒の団服、梔子色の髪。彼の人物はつい先ほどまで会話していた幼馴染のカイであろう。もう一人の姿をウィスタリアの双眸に捉えてリーリアは窓枠にそっと手を振れる。
(……精霊族……?)
 眉根を寄せてリーリアは尚も目を凝らす。一つに纏めた濡れ羽色の髪、僅かに覗く尖った耳先、遠目にも判る人間離れした透明感の有る美しい姿。晴れているとはいえ昼間とは異なるささやかな月光だけではそれほどはっきりとしないが、特徴的な容姿にリーリアは釘付けとなる。アシュフォード家は清廉な名家で、裏で些細なあれこれは有ったとしても、爛れた性の玩具である精霊族とは無縁だった筈。少なくとも秘密裏に囲ったり、囲っていることを隠蔽したりといったことはこれまでにも無いと認識している。だとしたら今目の前でカイと楽しげに踊っているあの精霊族は、最近飼い始めたのだろうか。流石にエルネスティーネが存命の頃から、とは思いたくないが。
(獣の耳も尾も無い。羽や獣毛、鱗が有るようにも見えない。ただ、耳が尖っているだけの……)
 じっと観察眼を向けるリーリアの、窓枠に触れる手がぐっと握られる。
(黒い髪、寒色の瞳、白い膚……間違いない、――――リカリア)
 踵を返し、リーリアは廊下を歩む。引き結んだ唇は何も語らず、伏せた目は只々冷たい。ぎり、と握り締める拳に爪が食い込み、痛みを感じてもリーリアは黙したまま進み続ける。
 眉間に皺を刻む歪んだ面には、燃えるような憎悪が宿っていた。
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