氷剣の皇子は紫水晶と謳われる最強の精霊族を愛でる

梶原たかや

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3話◆アスモダイの尖鋭

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 夕食と湯浴みを終わらせたカイが部屋に戻ってくると、再びソファに転がって眠るイルの姿が視界に入った。あれからすぐに眠ってしまったのかと思うものの、カイは微かな違和感を覚えてソファの傍に歩み寄る。ベッドを使えと口酸っぱく言わない代わりに、せめてこれで寝てくれとイルにブランケットを与えた。以降はそれに包まって眠るようになったが、今ソファで眠っている彼は健やかに寝ているというよりは力尽きて倒れているような体勢で、先程彼が身を起こしたときに畳まれずに隅に除けられたブランケットは、くしゃくしゃに丸まったまま放置されている。カイは訝って眉を寄せた。
(……これ、本当に大丈夫なのか……?)
 彼がこれまでに身を置いていた環境と、自分の倫理観から、彼が望まぬ行為を強いることはしたくない。だがその遠慮が彼の生命維持の妨げになるなら話は別だ。自分の憶測が正しければ、何か事情が有るらしい彼がこのまま自死に至るとは思い難いが、現状は何とも言えず危うく感じられる。気絶にしか見えない眠り方をしている彼を、憂悚の面持ちで見つめていたカイは、ソファの手前に屈むと相手の身体を自分に凭れ掛けさせ、そのまま抱え上げてベッドへと移動する。柔らかなシーツの上にそっと冷たい身体を寝かせて、自分はベッドの端に腰を下ろし、紙のような色の貌をしげしげと見下ろす。イルの白皙の膚は、今は美しさよりも憔悴が色濃く感じられる。糧を得られない期間が一月半ほどで出会ったときの状態になり、二月も開けば枯れて死ぬと言っていたように思う。彼が実際に糧を得ていない期間は半月ほどの筈なのだが、出会ったとき以上に衰弱しているように見受けられて、カイは不安に駆られた。
 片手を伸べて指の背で相手の頬に触れる。まるで凍えているかのような冷たさに居ても立っても居られなくなる。カイはベッドに乗り上げると彼の頬に手を添えて、躊躇いがちに顔を寄せ、唇を重ねた。舌先を咥内に挿し入れると、ひく、と微かに身体が反応するが、覚醒までには至らないようで目を開ける様子は無い。やはり身体の内側は体温が保たれているようで、肌の冷たさに対して熱さと柔らかさが際立つ。最初は遠慮しつつ舌先で触れていたカイも、久方振りに感じられる相手の温かさが恋しかったようで、じわじわと熱を求めるように口付けを深くしていく。やがて相手の喉がこくりと小さく鳴ったことに気が付いて、カイはゆっくりと唇を離した。薄く銀糸の繋がる向こうで、茫とした薄紫がゆっくりと瞬いている。
「……イル」
 そうっと名を呼ぶと、次第に焦点の定まる双眸が微かに揺れる。カイは安堵の息を小さくついて上体を起こすと、相手の頬に添えていた手でゆっくりと濡れ羽色の髪を梳き撫でる。
「勝手なことをしてごめん。……心配になって」
 結果的に寝込みを襲ったような形になったことに、カイは申し訳なさそうに眉尻を下げる。その表情を暫く眺めていたイルは、緩と片手を持ち上げるとカイの頬に指を触れた。
「……俺が動けないと、お前は案じるよな……」
「……?……それはそうだろう」
 弱っている相手を目の前にして心配しない筈がない。それ以外には何も無いと言わんばかりの真っ直ぐな矢車菊の双眸に、イルは微かに目を細める。好きに抱いて構わないと伝えても、こうして口付け一つですら律儀に相手を慮る男である。心配どころか、衰弱させて思い通りに扱うために故意に糧を断ったり虐待したりする人間の方がこの界隈には多いことなど、彼は理解出来ないだろう。そのままでいて欲しいと思うし、出来ればそんな状況を目にすることが無ければ良いと思う。きっと王太子が課したこの特命に関わる以上は避けられないものだろうけれども。イルはカイの梔子色のふんわりとした髪を一撫でして、その場で上体を起こす。緩慢な仕草に、カイが背を支えてくれる。
「大丈夫なのか」
 不安げに窺うカイに視線を向けて、イルは小さく頷いた。
「お前のお陰で大分楽になった。……でも」
 片手を伸べて、イルはカイの首に腕を回し、引き寄せる。
「……もう少し、欲しい」
 戸惑う相手に構わず、イルはカイに口付ける。ここまでは誰が主人でも冷静に行動出来るいつもの食事行為。イルから強請ることで主人の機嫌を取ることは出来ても、イル自身この行為で食事以外の何かが得られるわけではない。只々淡々と貪欲に糧を摂取するだけである。――――今迄は。
「……っふ、」
 柔い唇も熱い舌先もこれまで自分を貪ってきた人間達と造りはそう変わらない筈なのに、体の芯から火照るような熱が生まれる。裏腹に背筋を何かがぞわりと這い、肩口が戦慄く。零れる吐息が甘い声を伴い、鼻から抜ける。気が付けば顔を固定するようにして首元に添えられているカイの手のひらの熱さに煽られ、耳元が染まる。どんな人間とどんな風に情を交わしても決して得ることの無かった感覚が、この男を相手にすると一気に押し寄せてくる。そのうち下腹に反応が現れそうになって、イルは相手の胸元に手を当てて唇を離した。息を整えるべく視線を落としてゆっくりと呼吸する。
「まだ本調子じゃないんだな」
 イルの身体の反応を不調に因るものと勘違いしたカイが、心配そうに背を撫でてくる。曖昧に返事をして、イルはとんと相手の胸元に頭を凭れた。思った通り、締め付けない程度の力で背中に手を回してカイはイルを包み込んでくる。優しい腕、甘やかな体温、穏やかな声音。自身の身体の反応も相俟って、これまで一度も得たことの無い充足感に包まれる。それと同時に脳裏を過る警鐘。イルはカイの胸に凭れつつも眉根を寄せた。

 ――――このあたたかさに慣れてはいけない。

 ひりつくような危機感に心の奥が冷える。裏腹に甘えたような仕草のまま、イルは静かに目を閉じた。
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