氷剣の皇子は紫水晶と謳われる最強の精霊族を愛でる

梶原たかや

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3話◆アスモダイの尖鋭

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 屯所での執務を終えて自邸へと戻ると、カイは自身の馬の手綱を使用人に任せて部屋に向かった。団服の襟元を軽く寛げながらそっと扉を押し開けて中を窺うと、思った通りソファに長々と寝そべっているブランケットの塊が有る。テーブルの上には水差しとデザート皿の乗ったトレイが朝のまま置かれているが、水差しの水が減っている様子が無い一方で、カイが部屋を出たときには後少し残っていた筈のベリーが一つも無くなっていた。
(無いってことは、イルが食べた……んだよな)
 敵意が無いことを分かっているとはいえ、カイ以外のアシュフォード邸の人間にイルはまだ気を張るところがある。彼が落ち着いて過ごせるよう、カイが不在のときはマルクにもハウスキーパーにも部屋に入らないように伝えてあるので、ベリーを口に出来る者が居るとすれば必然的に彼しかいないということになる。朝の遣り取りを思い出してカイは胸が温かくなるのを感じた。こちらを気遣ったというのも有るだろうが、同じ空間で同じ食べ物を共有してくれたことで、彼の強い拒絶からほんの少し許されたような気持ちになったのだ。カイはソファに近付いて、ブランケットの端から覗く頭を一撫でしてワードローブへと向かう。着替えて戻ってくると、イルが何とか自力で上体を起こしたものの、起ききれずにソファの背凭れに体を預けて目を閉じている姿が映った。
「イル、ただいま」
 彼の隣に腰を下ろし、カイはまだぼんやりとして眠そうなイルに微笑む。目を瞑り殆ど寝ているような状態に見えるが、それでも動物さながらに耳は聞こえていて、色々なものを把握していることは知っている。何となく片手を差し出してみると、ゆっくりと目を開けて暫くそれを見下ろした後、イルも自らの手を伸べてカイの片手を取る。少しひんやりした手のひらが自分の手を挟むのを、カイは好きにさせながらイルを窺った。
「……今日一日眠っていたのか」
 問うでもなく呟くと、カイの手を取った際に一度眠気で閉じた双眸が少し開かれ、美しい薄紫が再び現れる。伏し目がちの貌にカイはにこりと目を細めた。長く生きる種族がどれほどの睡眠時間を一日に要するのかは分からないが、彼がここで安心して穏やかに眠っていられたのなら嬉しく思う。
「でも、まだ眠そうだな……」
 カイはイルに捕まっていない方の手を彼へと伸べて、指の背で頬に触れる。石膏めいた膚は少し冷たいが、触れてくる手のひらと同じく、必要最低限の人肌の温もりを持っている。触れたままの指の背でゆっくりと頬を撫でると、視線を落としたままのイルが目を閉じて、頬に触れる手に軽く擦り寄ってくる。
(……寝惚けてるのかな……?)
 房事の際にこんな風に擦り寄られたことは有る。本人は無意識のものらしかったが、あまり彼らしい仕草には思えなかった。人間全般に対してそれほど好意的ではない印象が有るから、長年の演技が自然に出てくるレベルで染み付いたのかもしれないと勝手に思っていた。実際、閨での彼にはそんなところが有るだろう。だが今はそんな行為の最中ではないし、食欲の有無はともかく彼自身も明確に行為を避けている。その上でこんな風に触れ合いを求めてくる様子が、何とも意外に思えた。
「……イル、そんなに眠たいならソファじゃなくて俺のベッドを使っても良いんだよ」
 彼本人は、どこで寝ても一緒だと言う。実際、精霊族で古の一族ともなれば、その身体の造りは人間や新しい世代の同族よりも遥かに頑強だろう。だが、いくら頑丈だとしても、寝床の寝心地は少しでも良いに越したことはない。それが人間側の思い込みだと言われてしまえばそれまでだが、どうせなら柔らかいところで眠った方が心身共に癒されるのではないか。そんな気持ちで一応提案はしてみるが、案の定イルがベッドに移動する気配は無い。それを気にするでもなく、目を閉じてうとうととしているイルの頭をよしよしと優しく撫でて、カイは夕食に向かうべくソファから立とうとする。だがそれは叶わなかった。取られた手を軽く引く形で動きを制され、戸惑ううちにカイの肩口にイルの頭が寄せられる。引かれた片手はそのままイルの腕の中に収まり、軽く体を凭れかかられてカイはその場から動けなくなった。
「……イル……?」
 すり、と肩口に尚も擦り寄ってくる。あまりそういうことをするタイプでは無さそうだといっても、猫っぽいところが有るから、偶にはこういう甘え方もするのだろうか、とカイは考えながら相手の好きにさせる。片腕は彼の腕に抱えられており、もう片方の腕はイルとソファの間に挟まれて、どちらも動けない。夕食の用意を待たせてしまっているな、と少し思いつつも、こんな風に彼が甘える仕草を見せてくれるのが嬉しくて、振りほどこうと思えば容易に抜け出せる戒めを、そのままにしている。
「――――……っ……」
 ふと、密着しているイルの身体がぴくりと一瞬強張り、耳元で微かに息を詰める様子が感じられた。かといって顔を上げたり離れたりするでもなく、すぐに体の力も抜けて、それまでと同じようにイルはカイに少し凭れる形で大人しくソファの上にいる。反応が有る前と後で、イルに態度の違いは何も無いが、カイは暫く黙した後に、そっと投げ掛けてみた。
「イル、目が覚めてるだろ」
「…………寝てる」
「覚めてるな」
 大方、省エネモードで冷たい体が、無意識にカイの体温を求め、寝惚けてくっついてきたのだろうが、状況から見てどうやら自分から密着した状態で意識が覚醒し、気まずくなったのだろう。それを悟られたくないならそのまま黙って寝た振りでもしていればいいものを、変なところで律儀だとカイは口端を持ち上げた。そんなイルに触れようとして、そういえば両手が塞がっているのだとカイは思い出す。
「イル、ちょっと……腕を抜きたいから少し離れてくれないか」
「……嫌だ」
 カイがお願いすれば些細なことなら大体素直に聞いてくれるイルが、渋ってそのままくっついている。これはもしや、と思って少し身を捩って自ら腕を引き抜くと、カイはイルの肩に手を置いて互いの体を少し離そうと試みる。口では拒絶したものの、それ以上の抵抗の意志は無いようで、イルの体は密着状態からすんなりと離れた。だがそれと同時に当人がそっと視線を逸らす。
「…………」
 ばつの悪そうな表情の横で、髪から覗く尖った耳先と頬が少し染まっている。やはり自分でもらしくないことをしたという気持ちが有るのだろう。そんな様子の相手を呆けたように暫く見つめていたカイは、彼の肩に添えていた手で、真顔のまま何となく頭を撫でてやった。やはり抵抗は無く、されるがままに撫でられている。満足したカイは、未だ片腕に絡んでいる相手の腕をやんわりと外しにかかった。
「食事をしてくるよ」
「……行ってこい」
 カイの方を見ずに返事をするイルに小さく笑って、カイはソファから立ち上がり部屋を後にする。扉の方にすら顔を向けなかったイルだが、カイの足音がイルの聴覚でも完全に捉えられなくなった頃に、片手で顔を覆って盛大に溜息をついた。やらかした自覚は大いに有った。
(……こんなこと、今まで無かった……)
 故意に媚びるわけでもないのに自ら人間に触れに行ったのもそうだし、飼い主の命令に拒絶の言葉を吐いたのもそうだった。今の場合はカイもイルの言葉に場の雰囲気以上の強い気持ちなど無いと判っているだろうが、例え冗句でも飼い主に拒絶の言葉を向けることのリスクを、イルは経験上痛いくらいに理解しており、実際に今までの飼い主の全てに対して、曖昧な言葉も口にしないように慎重に接していた。それがカイ相手だと、思ったことをついそのまま言いがちな気がする。以前湯浴みを一緒にすることを拒んだのもそうだ。カイならイルが冗談の範疇で反抗的だったところで別に咎めもしないだろうが、イル自身はそこに危機感にも似た懸念が有った。カイに対してではない。それ以外の要素に対してである。
(あいつは俺が我儘や暴言を吐いたところで、それが周囲に迷惑が掛かるような内容じゃなければ気にしないだろうが、他の奴はそうじゃない)
 幼い頃に、気持ちが抑えられずについ言葉が口をついて出たことも有るし、同じ主人に隷属している同胞が感情的になったところも目にしたことが有る。いずれも躾と称した飼い主からの仕置きは凄惨なものだった。中には歯向かった言葉一つで不興を買い、命を落とした同族も居る。そんな有様を数多く見てきて、反抗的な態度はどんなに些細なものでも危ないことを思い知っているのに、カイが相手の時は何故か一歩引いた態度を徹底出来ない。
(あいつと二人のときはまだいい。……問題は、あいつに対する態度を他の貴族階級に見られたとき……)
 流石に他人が所持する精霊族に手を出すような輩は殆ど居ない。ましてやイルの現在の立場は、王太子の覚えめでたい侯爵家当主の所有物である。物申すことが出来る人物はそうそう居ない。だがイルの気安い言葉をカイが容認する様を目撃されるのは、いろんな意味でカイの印象が悪くなる。ただでさえ年若いカイが侯爵家の当主であることを良く思わない者も居るだろうに、更に自分が諍いの種を蒔くようなことはしたくない。
 それに、とイルは片手で顔を覆ったまま俯いて目を閉じる。
(……あいつに慣れてしまったら、後が辛くなる)
 今はまだ、これまで経験してきた人間達に毒されたせいで、自分に対するカイの言動には戸惑いの方が大きい。しかし触れてくる手の温かさに、掛けられる声の優しさに、向けられる敬愛に染まってしまえば、それが普通になる。カイの寿命は、永遠に近い時間を生きる自分に比べれば遥かに短い。長い人生に対して、たった数日の幸福な休日みたいな時間は、儚く終わってしまうに違いない。
(――――カイを、……失くす)
 ふと心を過ぎった想像にイルは目を開ける。しんと静まり返った広いカイの部屋で、自らの想像にイルは言葉を失くした。寿命差が有る飼い主と死に別れることなど数え切れないくらい経験してきたし、それを喪失だと捉えたことすら無かった。それが、相手がカイだというだけでどうしてこんなに心の奥が冷えて、ざわりと総毛立つ感覚が有るのだろう。

 ――――それだけカイに情が有るのよ

 いつかのセレナの言葉が耳の奥に響く。例えばカイを失うことでアシュフォード家に居られなくなり、身を置く環境が今と比べて劣悪なものになるというのは、正直慣れる。寧ろ元々そちらの方が普通だったから、慣れるのも割合早いかもしれない。だがカイの居なくなった世界を、元の環境に戻っただけだと心がすんなり受け入れられる気がしなかった。何故、とイルは眉根を寄せる。
(……大した日数を過ごしてもいないのに)
 長年苦楽を共にした相手だというならまだ理解出来る。だがカイは知り合ってからそれほど経ってもいない。これまでに出会った誰よりも、心身共に受け入れやすい相手だというのは確かだが、だからといってこれだけ存在に重みが宿るほどの何かが有っただろうか。
「………………」
 考えても仕方ないと、イルは息をついてかぶりを振る。悩むのを無理矢理中断してしまえば、あれだけ眠ったにも関わらず再び強い睡魔が訪れる。理由は分かっていた。半月ほど糧を得ていないことに加え、精神的な疲弊や消耗が激しく、体が勝手に心身をシャットダウンして、体力温存の為に少しでも動かすまいとするのだ。カイが気にして心配してくれているのは理解しているし申し訳ない気持ちも有る。別に断食しようという気は無いのだが、どうしても糧を得る気になれない。セレナの件が引っ掛かっているというのは分かっているが、これまで同族の心身の崩壊や死を見たことが無かったわけでもないのに、何故か冷静ではいられなかった。このままでは身体の防衛本能を、感情が上回ってしまう。
(…………生きなければ)
 頭では分かっている。焦燥とは裏腹に、緩やかな死に向かっている現状を、何らかのタイミングで払拭しなければならない。
(……そうでなければ、……俺は、何のために今まで)
 死んだ方がましなくらいの屈辱を堪えて何とか生きてきたのに、ここで身勝手に命を終えてしまうわけにはいかない。糧と共に何故か快楽が約束されているカイとの情事は、自分にとって随分楽な食事になる筈なのに、何故こうも心身が抗うのか。
「………………」
 思い悩むことすらエネルギーの消費だとばかりに瞼が重い。録に考えることも出来ずにイルはソファに身を預け、気を失うようにして意識を手放した。
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