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3話◆アスモダイの尖鋭
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少々早めの朝食を終えて、カイは自室に向かって廊下を歩む。手元のトレイには水差しとグラス、数種のベリーが乗った小皿が一つ置かれている。調理室でそれを受け取ってから自室に直行する形で進んでいたカイだが、階段を上り切ったところで少し歩調を緩めた。廊下沿いに並ぶ大きな窓からは柔らかな陽光がふんだんに差し込んでくる。暖かな朝陽を浴びながらもカイの心はあまり晴れやかではなかった。
精霊族の少女、セレナの保護から半月程が過ぎていた。騎士団の情報網もさることながら、先祖の悪行に辟易していたオルワーズ伯爵家の当代クロードも情報提供など積極的に協力してくれたことで、案件自体は予定よりも遥かに早く、すんなりと終焉を迎えている。ただ、後味は決して良いとは言えない。初めての任務だからといって安易な事件が回されるなどどは思っていないし、精霊族が不当に囲われているという投書の内容からも、ある程度の理不尽な状況は覚悟していた。それでも、やはり精霊族が絡んだ案件は一筋縄ではいかないのだと思い知るには十分だった。森で怪我をした生き物を保護するようなものとは全く勝手が違う。前提として、女王蜂を失った精霊族には必ず背後に人間が関わっている。精霊族絡みの事件を追うということは、必然的にその背後の人間模様も垣間見ることになる。人間の欲望と暴力性、そして精霊族の悲哀と抵抗。関われば関わるほどそればかりを見るのだろう。そして恐らく近いうちに、セレナが見せなかった精霊族からの怨嗟も耳にするのだ。その時、自分は当事者ではないからと、今まで精霊族とは無縁だったからと冷静に対処することが出来るだろうか。そう考えると、やはりイルは温厚な個体だという言葉が当て嵌まると感じる。今まで人間に囲われてきたという背景が有っても、こちらにあからさまな敵意を向けてくるわけではない。糧を考えれば人間を敵視し過ぎても生きていけないというのはあるだろうが、それも含めて人間に媚びもせず歯向かいもせず、上手く距離を保っているように見える。こちらがおかしな真似でもしない限り、彼は人間に対して、友好的とは言えずとも、協力的な態度を見せるのだろう。
そんなイルが、セレナの件が有ってから少し様子がおかしかった。あれだけずっと読んでいた本を開くでもなく、眠ったり起きたりしていて、目を覚ましている間もソファでぼんやりとしていたり窓から外を眺めたりしている。話し掛けるとこちらを向いてきちんと受け答えはするので、セレナのように心を失くしているわけではないのだが、表情は薄いながらも塞ぎ込んでいるように見受けられる。いつも泰然としている彼だが、彼女の件は流石に堪えたのかもしれない。それだけなら同族が置かれた状況を憂える彼の繊細さにこちらが心を打たれるだけなのだが、それから今までずっと食事に繋がる行為に至っていない。そんな気分になれないのはカイにも解る。食欲が無くて一食や二食抜くくらいならカイにも数えきれないほど経験が有る。だが半月は流石に長いし、かといってこちらから無理にというのも、行為が行為だけに憚られた。
(気紛れで抱いてくれればいい、なんて本人は言っていたけれど、……流石にそれはな……)
カイはトレイを持って部屋まで歩いていきながらほんのりと頬を染める。向こうから近寄ってくるまで放っておく、とまでは言わないが、栄養を摂らせる為とはいえ、そんな気分ではない相手を無理矢理手籠めにするなんてこともカイには出来ない。
そうこうしているうちに自室の前に到着する。カイは片手で扉を開けて部屋に入ると、後ろ手にそっと閉めた。部屋を出るときにソファで眠っていたイルは、まだその時の姿勢のまま寝入っている。イルがカイの部屋に入り浸り、そこで眠るようになってから、カイはイルがいつでも使えるように大き目の厚いブランケットを用意した。精霊族は寒暖の差の影響を受けないので、そういうものが無くても別に困らない、とはイル本人に言われたのだが、何も掛けずにその辺に転がっていられることをカイの方が嫌がった。そんな過程で用意されたブランケットに包まって眠るイルを横目に、カイはテーブルにトレイを置く。ソファとテーブルの間に膝をついて、背凭れの方に顔を向けて横向きに寝ている彼を眺める。相変わらず情事が絡まなければベッドで寝ようとはしないし、マルクが訪れると扉を開ける前から警戒の表情を見せるが、カイが部屋に出入りするくらいならそのまま眠り続けているようになってきた。カイはブランケットの端から顔半分覗かせて寝ている彼の横顔を見つめながらしみじみと思う。
(……拾った野良猫が、少しだけ家というか人馴れしてきたような……)
新しい世代の精霊族には、犬の耳を持つシェドのように、猫の特徴を持つ者も存在する。イルに猫の特徴など一つも無いのは分かっているのだが、身のこなしや性格などからどうにも猫のように思えてならない。
(ボス猫みたいに強いのに、自力で鼠が捕れない黒猫……)
そんな相手に子犬扱いされたことは一旦置いて、カイはふふっと小さく笑うとブランケットから覗く頭にそっと手を置き髪を梳き撫でる。
「…………」
物音だけでは起きなかったのに、流石に身体に触れる刺激は流せなかったようで、寝入っていた姿勢そのままにイルの目がゆっくりと開かれる。髪を撫でる手を動かしつつ、こちらに向けられる視線を受け止めてカイは目を細めた。
「おはよう、イル」
返事は無い。しかし毎回無言なわけではないし、そもそもカイは気にしていない。イルは気怠げな様子で細く息をつくと、その場でもそりと上体を起こした。癖が無いのでさらさらと流れるものの、多少乱れた黒髪をそのままにイルはぼうっとしている。彼の体に引っかかっているブランケットを持ち上げ、手早く折り畳んでソファの背凭れに掛けると、カイは彼の隣に腰を下ろした。
「イル、少しお話しよう」
「……話?」
寝起きの少し掠れた声が鸚鵡返しに呟く。うん、と頷いてカイは彼のこちらに近い方の手を取った。半月糧を得ていないその手は、やはりひんやりとしている。思った通りの冷たさに微かに苦笑すると、カイはイルの顔に視線を向けて口を開く。
「君のことを教えてほしいんだ。……別に訊問とか誰かに報告するとかそういうのじゃなくて、もっと気楽な……俺の個人的な興味というか」
「教えてほしいって何を。リカリアの特徴はもう知っているだろ。他のことを知りたいと言われても俺の人生は殆どが閨事ばかりだ。……今までどんな人間に抱かれたのか知りたいのか」
声音に怒気の類は感じられない。嫌味や恨み言ではなく、ただ純粋にカイの質問の意図が解らないのだろう。取られた手を跳ね除けはしないが、懐疑的に眉を寄せてイルは薄紫の視線を向けてくる。相変わらずのあんまりな物言いにカイは耳先を微かに染めて苦笑しつつ、やんわりと彼の言葉を否定する。
「そういうのは寧ろ、聞きたくない……」
彼が信頼し、心を寄せ合った人間が居るのならば、良くも悪くも興味は有るのだが、彼に心無い行為を強いた人間のことは少しも知りたいと思わない。下手に家名など知れば、今その相手が生きていてもいなくても、衝動的に殴り込みに行きそうな自分が居る。そんなカイの心の内など知る由もなく、じゃあ何だ、とばかりに胡乱な視線を寄越すイルに、カイはずっと考えていた話題を提示した。
「君が住んでいた森……リカリアの集落のことを教えてほしいんだ」
「……集落?」
毒気を抜かれたようなきょとんとした表情を浮かべると、イルは思案するように視線を斜めに投げる。
「俺の住んでいた森の話……?雪深い北の森だとか、冬は湖が凍るとか、丸太を組んだ家が並んでいるとか、そういうことしか話してやれないが……」
「そういうのが聴きたい」
こんなの話して面白いのだろうかと思いながらつらつらとイルが挙げると、食い気味にカイが目を輝かせて、きゅっとイルの掌を取る手に力を籠める。戸惑いつつもイルはぽつりぽつりと話し始めた。今し方イルが告げた北の森の気候、木々の間に連なる家の形、家だけではなく集会所や倉庫など共同の建物もあれこれと有ったこと、短い夏や秋に一族の皆で森の恵みを収穫したこと。
「人が食べるようなものは不要だと思っていたけど、女王蜂が健在だとそういうわけでもないのか」
「……いや、不要だ。ただ、嗜好品として好む者が多かった。果物の蜂蜜漬けを多く作って保存したり……」
「君は食べなかったのか」
「食べていた。嫌いではないからな」
事も無げに言うイルに一瞬言葉を失くすカイだが、イルは何かに思い馳せるように視線を落としてぽつりと告げる。
「……その時の思い出が有るから、人間と一緒に食べたくない」
嗚呼、そうか、とカイは得心がいった。糧にならないから無駄なことをしたくないと以前イルは言っていた。効率を考える彼のことだから、勿論それも有るだろう。だがきっと一番の理由は今彼が口にしたものなのだ。別の一族であるセレナに対する態度からも思っていたことだが、彼は一見淡白に見えて情が深いところが有る。そんな彼の思惑を知らなかったとはいえ、出会ってすぐに食事を共にさせたことを思い出して罪悪感に目を伏せる。
「……ごめん」
「……?……何……」
何のことだと怪訝に眉を寄せたイルは、すぐに心当たりに行き着いたのか、かぶりを振る。
「……あれは……お前に強制されたわけじゃないし、俺が勝手に食べただけだ。……気にすることはない」
それでもカイがしょんぼりとしていると、失言だったと思うのか、取られている手を緩く握り返してくる。
「本当に嫌なら、口に突っ込まれたって食べてない。……だから、そんな顔をするな」
それでも浮かぬ顔をしていると、尚も気遣いの言葉を探して思案する様子を見せる。
(……優しいよな……)
人間のことは苦手だろうし、相手によっては憎悪も有るだろう。それでもこうして、敵意の無い相手には心を砕いてくれる。そういえば彼からは警戒されることは有っても物理的に抵抗されたことは無いな、とカイは思い至る。全ての属性魔法を使いこなし、武器も体術も息をするように扱う圧倒的な戦闘力を持ちながら、こちらに対しては髪一本害して来ようとしない。使役者に対してそんなことをしては生きられないのだろうけれども、それ以上にこうして気持ちに寄り添おうとしてくれる。従属ではなく、友達として対等な関係を築きたかった、と何度も惜しく思うのは、それだけ彼の人間性自体に惹かれているから、なのだろうか。
「……ありがとう」
何とか慰めようとしてくる相手に小さく笑ってカイは謝辞を述べる。そして改めて相手のひんやりとした手に視線を落とした。この冷たさが彼の情の深さに起因するなら、これほど悲しいことは無いと思う。カイはイルの手を持ち上げて、その冷たい手の甲に唇で触れる。
「人間なら、何か少し食べてほしいと言えるけれど……。まだそんな気分になれなさそうかな」
「…………」
温もりを分け与えたくて、無意味だと知っていながらカイは相手の片手を自身の両手に挟む。その仕草を当のイルはじっと見つめる。半月糧を得ていないことは自分が一番分かっているだろう。精霊族が空腹を感じるのかはさておき、枯渇を苦痛に思うのは事実のようだから、きっと彼も何らかの自覚症状が有るに違いない。糧を与える行為が行為だから無理強いはしたくないが、案じているという意思表示はしておきたかった。
「お前が気に掛けているというのは分かってる」
ぽつりとイルが告げる。
「……心配させたな」
伏せた薄紫の瞳は相変わらず秀麗で、手の冷たさも相俟って精巧な細工人形にすら思えてくる。だがこんなに作り物めいた見目でも、彼は意志を持って生きており、尚且つこちらに感情の機微を垣間見せる。そんな相手を物のように扱うなど、カイには出来よう筈もない。先日、躊躇えば色々見逃しそうだから遠慮しない、とは言ったものの、結局今この場で口付けることすら躊躇われて、カイは相手の肩に手を掛けて引き寄せ、そっと腕の中に抱き締めた。
「……俺も精霊族だったら、こうすれば生気を分けてあげられたのかな」
服越しの身体も、頬に触れる尖った耳も依然としてひんやりと冷たい。大人しくカイの腕の中に居ながら、イルはそっと口を開く。
「……気持ちだけで十分だ」
月光を思わせる硬質な低音。距離を置いているようにも捉えられそうな言葉だが、控えめにこちらの頬に擦り寄ってくる耳先が、言外の思いを伝えてくる。胸がいっぱいになりながらも何もしてやれない不甲斐なさに、カイは相手の肩口に鼻先を寄せる。
「……そういえば」
「うん」
腕の中の相手がふと何かに気付いたのか、ぽつりと口にする。カイは肩口に顔を埋めて相手を抱き締めたまま次の言葉を待った。
「お前、今日は休日なのか」
「うん……、……んっ!?」
がばっと顔を上げて、カイは部屋に据えられた置き時計を見遣る。うわっ、と思わず声を上げて相手から腕を放すと、ワードローブへと駆け寄る。少し早めに朝食を摂ったのはイルと話をしたかったからで、そこそこのんびりしても十分間に合うだけの時間は確保していたのだが、思ったよりも話し込んでしまったらしい。遅刻確定とまではいかずとも、少々急がなければ危うくはある。カイが手早く団服に着替えてくると、ソファに掛けたままのイルがこいこいと手招きしている。早く出なければいけないのは重々承知の上で、焦る気持ちを抑えてカイはソファへと歩み寄った。
「ん」
「……えっ」
イルと話をしながら食べようと思って結局手付かずだったデザート皿から、イルが一つ摘まんでこちらの口元に掲げてくる。突然のことに戸惑いつつ、ほんのりと耳先を朱に染めてカイが口を開けると、そこにぽいとブラックカラントを放り込んで、イル自身もラズベリーを一つ取って自身の口に放り込む。お互いに咀嚼して飲み込むタイミングで、再度イルが皿から一つ取ってこちらに促してくる。それをまた口に入れてもらい、イルが自分も一つ口に入れるのを眺めながら、カイは泣きそうやら嬉しいやら情緒が大忙しになった。
(出勤したくない……ッ!!)
皿からベリーを取って互いの口にイルが放り込むのを更に二回ほど繰り返した辺りで、流石にこれ以上は、と断腸の思いでカイは部屋を飛び出していく。急にしんと静かになった部屋に一人、イルは暫く扉を眺めていた後、ソファの背凭れに掛かっていたブランケットを広げて包まると、ソファでころりと横になって目を閉じた。
精霊族の少女、セレナの保護から半月程が過ぎていた。騎士団の情報網もさることながら、先祖の悪行に辟易していたオルワーズ伯爵家の当代クロードも情報提供など積極的に協力してくれたことで、案件自体は予定よりも遥かに早く、すんなりと終焉を迎えている。ただ、後味は決して良いとは言えない。初めての任務だからといって安易な事件が回されるなどどは思っていないし、精霊族が不当に囲われているという投書の内容からも、ある程度の理不尽な状況は覚悟していた。それでも、やはり精霊族が絡んだ案件は一筋縄ではいかないのだと思い知るには十分だった。森で怪我をした生き物を保護するようなものとは全く勝手が違う。前提として、女王蜂を失った精霊族には必ず背後に人間が関わっている。精霊族絡みの事件を追うということは、必然的にその背後の人間模様も垣間見ることになる。人間の欲望と暴力性、そして精霊族の悲哀と抵抗。関われば関わるほどそればかりを見るのだろう。そして恐らく近いうちに、セレナが見せなかった精霊族からの怨嗟も耳にするのだ。その時、自分は当事者ではないからと、今まで精霊族とは無縁だったからと冷静に対処することが出来るだろうか。そう考えると、やはりイルは温厚な個体だという言葉が当て嵌まると感じる。今まで人間に囲われてきたという背景が有っても、こちらにあからさまな敵意を向けてくるわけではない。糧を考えれば人間を敵視し過ぎても生きていけないというのはあるだろうが、それも含めて人間に媚びもせず歯向かいもせず、上手く距離を保っているように見える。こちらがおかしな真似でもしない限り、彼は人間に対して、友好的とは言えずとも、協力的な態度を見せるのだろう。
そんなイルが、セレナの件が有ってから少し様子がおかしかった。あれだけずっと読んでいた本を開くでもなく、眠ったり起きたりしていて、目を覚ましている間もソファでぼんやりとしていたり窓から外を眺めたりしている。話し掛けるとこちらを向いてきちんと受け答えはするので、セレナのように心を失くしているわけではないのだが、表情は薄いながらも塞ぎ込んでいるように見受けられる。いつも泰然としている彼だが、彼女の件は流石に堪えたのかもしれない。それだけなら同族が置かれた状況を憂える彼の繊細さにこちらが心を打たれるだけなのだが、それから今までずっと食事に繋がる行為に至っていない。そんな気分になれないのはカイにも解る。食欲が無くて一食や二食抜くくらいならカイにも数えきれないほど経験が有る。だが半月は流石に長いし、かといってこちらから無理にというのも、行為が行為だけに憚られた。
(気紛れで抱いてくれればいい、なんて本人は言っていたけれど、……流石にそれはな……)
カイはトレイを持って部屋まで歩いていきながらほんのりと頬を染める。向こうから近寄ってくるまで放っておく、とまでは言わないが、栄養を摂らせる為とはいえ、そんな気分ではない相手を無理矢理手籠めにするなんてこともカイには出来ない。
そうこうしているうちに自室の前に到着する。カイは片手で扉を開けて部屋に入ると、後ろ手にそっと閉めた。部屋を出るときにソファで眠っていたイルは、まだその時の姿勢のまま寝入っている。イルがカイの部屋に入り浸り、そこで眠るようになってから、カイはイルがいつでも使えるように大き目の厚いブランケットを用意した。精霊族は寒暖の差の影響を受けないので、そういうものが無くても別に困らない、とはイル本人に言われたのだが、何も掛けずにその辺に転がっていられることをカイの方が嫌がった。そんな過程で用意されたブランケットに包まって眠るイルを横目に、カイはテーブルにトレイを置く。ソファとテーブルの間に膝をついて、背凭れの方に顔を向けて横向きに寝ている彼を眺める。相変わらず情事が絡まなければベッドで寝ようとはしないし、マルクが訪れると扉を開ける前から警戒の表情を見せるが、カイが部屋に出入りするくらいならそのまま眠り続けているようになってきた。カイはブランケットの端から顔半分覗かせて寝ている彼の横顔を見つめながらしみじみと思う。
(……拾った野良猫が、少しだけ家というか人馴れしてきたような……)
新しい世代の精霊族には、犬の耳を持つシェドのように、猫の特徴を持つ者も存在する。イルに猫の特徴など一つも無いのは分かっているのだが、身のこなしや性格などからどうにも猫のように思えてならない。
(ボス猫みたいに強いのに、自力で鼠が捕れない黒猫……)
そんな相手に子犬扱いされたことは一旦置いて、カイはふふっと小さく笑うとブランケットから覗く頭にそっと手を置き髪を梳き撫でる。
「…………」
物音だけでは起きなかったのに、流石に身体に触れる刺激は流せなかったようで、寝入っていた姿勢そのままにイルの目がゆっくりと開かれる。髪を撫でる手を動かしつつ、こちらに向けられる視線を受け止めてカイは目を細めた。
「おはよう、イル」
返事は無い。しかし毎回無言なわけではないし、そもそもカイは気にしていない。イルは気怠げな様子で細く息をつくと、その場でもそりと上体を起こした。癖が無いのでさらさらと流れるものの、多少乱れた黒髪をそのままにイルはぼうっとしている。彼の体に引っかかっているブランケットを持ち上げ、手早く折り畳んでソファの背凭れに掛けると、カイは彼の隣に腰を下ろした。
「イル、少しお話しよう」
「……話?」
寝起きの少し掠れた声が鸚鵡返しに呟く。うん、と頷いてカイは彼のこちらに近い方の手を取った。半月糧を得ていないその手は、やはりひんやりとしている。思った通りの冷たさに微かに苦笑すると、カイはイルの顔に視線を向けて口を開く。
「君のことを教えてほしいんだ。……別に訊問とか誰かに報告するとかそういうのじゃなくて、もっと気楽な……俺の個人的な興味というか」
「教えてほしいって何を。リカリアの特徴はもう知っているだろ。他のことを知りたいと言われても俺の人生は殆どが閨事ばかりだ。……今までどんな人間に抱かれたのか知りたいのか」
声音に怒気の類は感じられない。嫌味や恨み言ではなく、ただ純粋にカイの質問の意図が解らないのだろう。取られた手を跳ね除けはしないが、懐疑的に眉を寄せてイルは薄紫の視線を向けてくる。相変わらずのあんまりな物言いにカイは耳先を微かに染めて苦笑しつつ、やんわりと彼の言葉を否定する。
「そういうのは寧ろ、聞きたくない……」
彼が信頼し、心を寄せ合った人間が居るのならば、良くも悪くも興味は有るのだが、彼に心無い行為を強いた人間のことは少しも知りたいと思わない。下手に家名など知れば、今その相手が生きていてもいなくても、衝動的に殴り込みに行きそうな自分が居る。そんなカイの心の内など知る由もなく、じゃあ何だ、とばかりに胡乱な視線を寄越すイルに、カイはずっと考えていた話題を提示した。
「君が住んでいた森……リカリアの集落のことを教えてほしいんだ」
「……集落?」
毒気を抜かれたようなきょとんとした表情を浮かべると、イルは思案するように視線を斜めに投げる。
「俺の住んでいた森の話……?雪深い北の森だとか、冬は湖が凍るとか、丸太を組んだ家が並んでいるとか、そういうことしか話してやれないが……」
「そういうのが聴きたい」
こんなの話して面白いのだろうかと思いながらつらつらとイルが挙げると、食い気味にカイが目を輝かせて、きゅっとイルの掌を取る手に力を籠める。戸惑いつつもイルはぽつりぽつりと話し始めた。今し方イルが告げた北の森の気候、木々の間に連なる家の形、家だけではなく集会所や倉庫など共同の建物もあれこれと有ったこと、短い夏や秋に一族の皆で森の恵みを収穫したこと。
「人が食べるようなものは不要だと思っていたけど、女王蜂が健在だとそういうわけでもないのか」
「……いや、不要だ。ただ、嗜好品として好む者が多かった。果物の蜂蜜漬けを多く作って保存したり……」
「君は食べなかったのか」
「食べていた。嫌いではないからな」
事も無げに言うイルに一瞬言葉を失くすカイだが、イルは何かに思い馳せるように視線を落としてぽつりと告げる。
「……その時の思い出が有るから、人間と一緒に食べたくない」
嗚呼、そうか、とカイは得心がいった。糧にならないから無駄なことをしたくないと以前イルは言っていた。効率を考える彼のことだから、勿論それも有るだろう。だがきっと一番の理由は今彼が口にしたものなのだ。別の一族であるセレナに対する態度からも思っていたことだが、彼は一見淡白に見えて情が深いところが有る。そんな彼の思惑を知らなかったとはいえ、出会ってすぐに食事を共にさせたことを思い出して罪悪感に目を伏せる。
「……ごめん」
「……?……何……」
何のことだと怪訝に眉を寄せたイルは、すぐに心当たりに行き着いたのか、かぶりを振る。
「……あれは……お前に強制されたわけじゃないし、俺が勝手に食べただけだ。……気にすることはない」
それでもカイがしょんぼりとしていると、失言だったと思うのか、取られている手を緩く握り返してくる。
「本当に嫌なら、口に突っ込まれたって食べてない。……だから、そんな顔をするな」
それでも浮かぬ顔をしていると、尚も気遣いの言葉を探して思案する様子を見せる。
(……優しいよな……)
人間のことは苦手だろうし、相手によっては憎悪も有るだろう。それでもこうして、敵意の無い相手には心を砕いてくれる。そういえば彼からは警戒されることは有っても物理的に抵抗されたことは無いな、とカイは思い至る。全ての属性魔法を使いこなし、武器も体術も息をするように扱う圧倒的な戦闘力を持ちながら、こちらに対しては髪一本害して来ようとしない。使役者に対してそんなことをしては生きられないのだろうけれども、それ以上にこうして気持ちに寄り添おうとしてくれる。従属ではなく、友達として対等な関係を築きたかった、と何度も惜しく思うのは、それだけ彼の人間性自体に惹かれているから、なのだろうか。
「……ありがとう」
何とか慰めようとしてくる相手に小さく笑ってカイは謝辞を述べる。そして改めて相手のひんやりとした手に視線を落とした。この冷たさが彼の情の深さに起因するなら、これほど悲しいことは無いと思う。カイはイルの手を持ち上げて、その冷たい手の甲に唇で触れる。
「人間なら、何か少し食べてほしいと言えるけれど……。まだそんな気分になれなさそうかな」
「…………」
温もりを分け与えたくて、無意味だと知っていながらカイは相手の片手を自身の両手に挟む。その仕草を当のイルはじっと見つめる。半月糧を得ていないことは自分が一番分かっているだろう。精霊族が空腹を感じるのかはさておき、枯渇を苦痛に思うのは事実のようだから、きっと彼も何らかの自覚症状が有るに違いない。糧を与える行為が行為だから無理強いはしたくないが、案じているという意思表示はしておきたかった。
「お前が気に掛けているというのは分かってる」
ぽつりとイルが告げる。
「……心配させたな」
伏せた薄紫の瞳は相変わらず秀麗で、手の冷たさも相俟って精巧な細工人形にすら思えてくる。だがこんなに作り物めいた見目でも、彼は意志を持って生きており、尚且つこちらに感情の機微を垣間見せる。そんな相手を物のように扱うなど、カイには出来よう筈もない。先日、躊躇えば色々見逃しそうだから遠慮しない、とは言ったものの、結局今この場で口付けることすら躊躇われて、カイは相手の肩に手を掛けて引き寄せ、そっと腕の中に抱き締めた。
「……俺も精霊族だったら、こうすれば生気を分けてあげられたのかな」
服越しの身体も、頬に触れる尖った耳も依然としてひんやりと冷たい。大人しくカイの腕の中に居ながら、イルはそっと口を開く。
「……気持ちだけで十分だ」
月光を思わせる硬質な低音。距離を置いているようにも捉えられそうな言葉だが、控えめにこちらの頬に擦り寄ってくる耳先が、言外の思いを伝えてくる。胸がいっぱいになりながらも何もしてやれない不甲斐なさに、カイは相手の肩口に鼻先を寄せる。
「……そういえば」
「うん」
腕の中の相手がふと何かに気付いたのか、ぽつりと口にする。カイは肩口に顔を埋めて相手を抱き締めたまま次の言葉を待った。
「お前、今日は休日なのか」
「うん……、……んっ!?」
がばっと顔を上げて、カイは部屋に据えられた置き時計を見遣る。うわっ、と思わず声を上げて相手から腕を放すと、ワードローブへと駆け寄る。少し早めに朝食を摂ったのはイルと話をしたかったからで、そこそこのんびりしても十分間に合うだけの時間は確保していたのだが、思ったよりも話し込んでしまったらしい。遅刻確定とまではいかずとも、少々急がなければ危うくはある。カイが手早く団服に着替えてくると、ソファに掛けたままのイルがこいこいと手招きしている。早く出なければいけないのは重々承知の上で、焦る気持ちを抑えてカイはソファへと歩み寄った。
「ん」
「……えっ」
イルと話をしながら食べようと思って結局手付かずだったデザート皿から、イルが一つ摘まんでこちらの口元に掲げてくる。突然のことに戸惑いつつ、ほんのりと耳先を朱に染めてカイが口を開けると、そこにぽいとブラックカラントを放り込んで、イル自身もラズベリーを一つ取って自身の口に放り込む。お互いに咀嚼して飲み込むタイミングで、再度イルが皿から一つ取ってこちらに促してくる。それをまた口に入れてもらい、イルが自分も一つ口に入れるのを眺めながら、カイは泣きそうやら嬉しいやら情緒が大忙しになった。
(出勤したくない……ッ!!)
皿からベリーを取って互いの口にイルが放り込むのを更に二回ほど繰り返した辺りで、流石にこれ以上は、と断腸の思いでカイは部屋を飛び出していく。急にしんと静かになった部屋に一人、イルは暫く扉を眺めていた後、ソファの背凭れに掛かっていたブランケットを広げて包まると、ソファでころりと横になって目を閉じた。
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