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2話◆ノヂシャに愛を捧ぐ
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「……久しいな、イル」
カイがオーリエと共に執務室を出て観音開きの扉が静かに閉まると、自分へと向き直った精霊族の青年に対してエディアルドはふっと相好を崩した。対する精霊族の青年・イルは、王太子であるエディアルドに対しても全く畏まった様子が見られない。精霊族である彼にとって人間の王族など畏敬の対象ではないというのもあるが、それ以前にある種の気安さが二人の間には有った。
「騎士団統括責任者か。偉くなったものだ」
腕を組んで相手を見据えるイルが、小さく鼻を鳴らす。
「昨夜カイが話した、精霊族に詳しい上司とやらも、その上司がどうもエディアルドという名前らしいというのも、身分が高くて偉いというのも、世の中にはお前のような奴がまだいるのかとぎりぎりまで半信半疑だったが、結局お前だったな」
「あっは!……そんな優秀なドッペルゲンガーがいるのなら、ぜひ仕事を手伝って欲しいものだ!」
失笑するエディアルドを冷ややかな目で眺めるイルだが、王太子が笑いに肩を震わせているうちから口を開く。
「……何故カイを選んだ」
気安い雰囲気を纏ったままのエディアルドに反して、ともすればイルは怒気さえ含んで聞こえる低音で問う。
「あんな温室育ちに、お前がこれまでやってきたような生々しい汚れ仕事が務まると思うのか」
現王の子供たちは皆それぞれ王の補佐として様々な任務を受け持っている。そのなかでも正嫡のエディアルドは、立太子以前から王族や警察機構である騎士団でもおいそれと手出し出来ないようなアンダーグラウンドのあれこれを牽制する役目を担ってきた。それは現王が自分の仕事の一番厄介な部分を重点的に指導、継承することでエディアルドを次代の王位継承者として周囲に標榜すると共に、エディアルドの王としての器と手腕を認めていることを意味する。王族と貴族の力の均衡を保つという難しい任務にカイを巻き込むということは、精霊族以外にも富と権力が絡む謂わば薄暗い世界を彼に見せることになる。比較的可視化しやすい精霊族の問題にすら悲しげな顔を見せるあの若者が、それ以上の闇を垣間見るかもしれない任務に耐えられるのだろうか。
「その温室育ちの部分さえ解決出来たなら、この上ない人材になるとは思わないか」
「解決出来るとは思えない」
エディアルドが提示する可能性をイルはにべもなく否定する。
「クレイグですら判断を誤るような任務だ。……お前、カイをあいつの二の舞にする気か」
「第五師団長の話を引き合いに出されると耳が痛いな」
いや、『元』か、と独り言つ王太子に構わずイルは続ける。
「長年師団長を務めた奴でも貶められるのに、歴が浅い上に第一師団配属のお飾りなどに務まるわけがない」
第一師団は王族警護の近衛隊を含む、花形の中の花形といえる。王族に近付けるほどの家柄の良さを求められるのは勿論だが、それ以上に王族の盾となるべく相応の武芸の心得も必須となる。そのような部隊をお飾り呼ばわりは聊か乱暴だが、エディアルドは気にした様子も無く首を傾げた。
「……ふぅん?」
「……何だ」
イルの物言いに物申すどころか含みの有る笑みを覗かせる王太子に、イルは訝しく眉を寄せる。
「いや、なに、相棒が傷付こうが死のうが気に留めなかったお前が、随分と肩入れするなと思ってね」
「人聞きの悪いことを言うな。気に留めなかったことなんて今まで無いだろう」
「なら、何故開口一番にカイの話なんだ。……生き別れたクレイグの現状が気にならないのか」
エディアルドの問い掛けに、それまである程度感情を露わにしていたイルの表情が冷め、言葉を選ぶような間が挟まる。
「…………死んではいないのだろう」
「まぁな」
「……生きているならそれでいい。俺や精霊族と関わらなくなれば身に危険が及ぶことも無くなるだろうし、団を離れた奴に俺が出来る事も無い。だがカイはそうじゃない。……これから危険な目に遭うかもしれない奴を気に掛けて当然だと思うが」
「…………」
淡々と述べるイルをじっと眺めていたエディアルドだが、ふっと短く息をついて眉尻を下げる。
「相変わらず固いというか理屈っぽい奴だな、お前は。……クレイグとは上手くやっていると思っていたが、生きているなら会いたいとは思わないのか」
「上手くいっているように見えていたなら、それはあいつの立ち回りが上手かったんだろう。……向こうが会いたいと思うなら、俺は別に」
当時の彼らを見ていれば、少なからず何らかの情が有ったのは確かだと思う。だが、相手が希望すれば応じるが自分からは近付かない、そんな消極的な言い方をする精霊族の伏した双眸から視線を外し、エディアルドはそれ以上の言及をやめる。彼の性格はよく知っているつもりだった。程度はあれど、人間に飼われたことの有る精霊族はどこか諦めたところの有る者が多い。捕縛の理由が理由なだけに、人間に囲われるということは個や尊厳を否定され、搾取されるということと同義で、奪われ続ければそれだけ主張や執着をしなくなってしまう。己の人格や権利を声高に訴えたところで寧ろ逆効果になると学んでしまうからだ。イルも例に漏れず様々なものを諦めがちで、すぐに手放してしまう方だった。それは恐らく彼を無下に扱うことの無い者に対しても同じで、覚えている限り現役の頃の元第五師団長は、恋愛感情こそ無いものの配下となったイルに対してそれなりに友好的だった筈なのだが、当の本人がこの様子である。故意なのか無意識なのか、人に対して堅固な壁を作ろうとするのは昔から変わらない、とエディアルドは苦笑した。
「まぁいいさ、こればかりはお前と彼との問題だ、私がとやかく言えることじゃない」
落とした視線を上げて、再び机の向こうに佇む精霊族を見遣る。顎の下で手指を組んで肘をつくと、エディアルドはそれまでの軽い声音を改めた。
「さっきも本人に言ったことだが、私はカイに仕事を手伝って欲しいと思っているが、使い潰したいわけではない。……向き不向きで言えば確実に彼には向かない仕事だと判っていての上でだ」
「…………」
「茶化した返しをして悪かったが、お前の懸念はもっともだ。腕が立ち勤勉で家柄も申し分ないのにそれを鼻にかけることも無い。そんな温厚篤実を絵に描いたような男に汚れ仕事を任せることに、躊躇いが無いわけじゃない」
押し黙ったままのイルに、エディアルドはかぶりを振る。
「だが、それを押して、私は私の周りの仕事を彼に任せたいと思っている。大仰な言い方をするなら、未来を見据えて、といったところか。……私はあの男を、いずれ私の側近にと考えている」
イルは僅かに瞠目する。王太子がいずれ、と言うならそれは王になった際を意味する。正嫡であり人柄や手腕も含めて現王の覚えめでたく、最も玉座に近いこの王太子には事実上政敵が存在しない。そんな彼が側近にと望むということは、王の右腕という地位が約束されているようなものだった。
「武芸に関してはそこそこ動けることは判っている。正攻法は勿論、隠密行動もそつなくこなす。それに関しては及第点をやれるが、如何せん経験値が足りない。特に精神面についてだ。私は好んで薄暗い仕事をしているわけではないが、どうしても皆が敬遠するような案件ばかり舞い込むし、間違いなくその辺りを手伝ってもらうことになるだろう」
そこまで淡々と続けてから、エディアルドはふっと目元を緩める。
「この王都が他国からどう呼ばれているか、知っているだろう、イル」
「……天青の宝玉。乙女の涙」
精霊族の唇からぽつりと漏れる綺麗な言葉。だが発した本人の表情は言葉とは裏腹に硬く渋い。エディアルドは小さく笑う。
「グランベルク王都ルヴィエラは美しく愛に満ち溢れている。戦場へと赴く恋人の無事を祈る乙女の涙のように、尊く気高い」
王都は水路にもなっている巨大な堀に囲まれている。湖上に浮かぶようにも見え、グランベルク自体が安定した内政が続いていることから、憧憬を籠めていつしか他国からそう呼ばれるようになっていた。芝居がかった手振りで語る王太子に、イルは冷めた視線を向ける。気にするでもなくエディアルドは眉尻を下げて笑んだ。
「……だがその美しさは上っ面だけのもので、薄皮一枚隔てた内側は酷く醜いことを、私もお前も知っている」
内政が安定し、生活が落ち着いて余裕が出来ると、人々は暇を持て余し始める。健全な方向でその暇を潰せれば良いが、得てして人は刺激を求めるものである。娯楽の種類は少しずつ過激で薄暗いものへとエスカレートしていき、刺激が強いものであればあるほど人々も食い付き金も回ることから、次第にそれが事業規模へと成長していく。そのうち背後に名の有る貴族までもが関わるようになり撲滅も難しくなってくると、為政者にとっては不本意でも、上手く折り合いをつけて共存するしか無くなってくる。そうして現状に至るわけで、エディアルド達政に関わる王族は、決してグランベルクの負の部分を放置しているわけではなく、目の上のたんこぶとして頭を悩ませてきた。
「……カイは、上っ面の小綺麗な世界しか知らない」
善良な一人の国民でしかない大多数の者達は、そんな世界しか知らずに生まれて死んでいく。金と権力と爛れた性に縁も興味も無ければそれで十分幸福に生きていけるし、今のところカイもそちらの側である。
「私の傍で生きるならば、そのような微温湯の世界しか知らないわけにはいかない。乙女の涙と謳われる美しい国に住まう民の為に、汚らしく哀しい、暴力的な面と真正面から向き合わなければならない。本当に涙を流しているのが誰なのかを理解しなければいけない」
余裕を感じさせる表情が形を潜めれば、精悍な造りであることも相俟って王太子の表情に翳りが生まれる。
「私はカイに知って欲しいのだ、このグランベルクという国の深淵を。美醜どちらもこの国であって全てが現実だということを知って欲しい。その上でこの国を愛し、美しいと思って貰えたなら……嬉しいけれどな」
ふっと淡く笑むエディアルドの表情は、再会してからずっと目にしていた食えないものとは異なり、出会った当時の面影を忍ばせて、イルは僅かに目を細める。
「……憎しみしか持たなかったらどうする」
自分という精霊族の存在だけでも酷く心を痛めて憂える青年が、それ以上の闇を垣間見る任務を繰り返すことで、祖国に裏切られたように感じ病んでしまう可能性をイルは危惧している。エディアルドの言い分は理解出来るが、彼が欲する人材にカイがなり得るのかどうかは正直全く分からない。どうかすると懸念の方が大きいし、僅か二日ほどしか接していない現時点では、彼の可能性を信じるほどの裏付けが無い。
「それならそれで仕方がないさ。あれは優しい男だ、国の深淵に憎悪したとて誰にも責められない。国の黒い面を見ても冷静に任務にあたるというのは、ある種の冷たさを持つということだ。優しさ故にその冷たさを持ち得ないのであれば、私としては残念ではあるが、彼の魅力が損なわれるわけではない」
上級貴族の当主であり、温厚な性格で騎士団第一師団というエリート部隊の所属。王国の綺麗な表舞台で生きるだけならばそれで十分だ。ただ、王太子の求める人材ではなかったというだけで。
「とはいえ、お前という少々特殊な精霊族が傍にいることで、これまでの日常とは明らかに異なる日々を送ることにはなるだろう。それがカイにどのような刺激を齎すか……、ではあるがな」
「…………」
たとえカイが王太子からの任務に挫折し、イルを伴って騎士団に赴くということが無くなったとしても、イルとの主従関係は王太子の密命が絡まない個人的なものなので、カイが望まない限りイルとの関係が解消されることは無い。イルとの関係が続くというのは、事情はどうあれ精霊族を囲うということで、更にその個体が希少な古の一族ともなれば、どこからともなく聞きつけた輩に注目されざるを得ない。イルが存在する以上、アシュフォード家は非日常を免れないということになる。
「お前にとっては不本意な状況には違いないだろうが」
エディアルドは椅子の背凭れに背を預ける。小さく軋む音が室内に響いた。
「勝手に居なくなったりするのはやめてやれよ?精霊族のことをあまりよく知らないといっても、カイがお前を迎えたのは彼なりに相当覚悟してのことだ」
「…………分かっている」
目を伏せてイルは昨夜のことを思い出す。カイは財産を全て投げ打ってでも競売でイルを競り落とすつもりだったが、自分のものにするどころか、出来ればイルを自由の身にしようとしていた。それが叶わないと分かると、自分が鎖になりたいと告げた。イルをあの家に置くことが今後どのような現実的な問題を起こすのか、彼はきっと正確に把握してはいない。けれども、今まで家と無縁だった性奴を侯爵家の当主が手元に迎えるということの歪さは、流石に理解していることだろう。それを押してでもイルの安寧を求めた心意気は、よく分かっているつもりだった。王太子が期待を込めて密命を課すとは思わなかったが、元々カイが精霊族の情報を集めていた理由が自分であることに、イルは罪悪感に似たものを禁じ得ない。そんな澱のような気持ちに一石を投じる形で、不意にエディアルドが声を掛けた。
「ときに、イル」
顔を上げるイルに王太子の口端が弧を描く。
「話は変わるけどな。……競売に掛けられていたにしては毛艶が良いところを見ると、カイからもう糧を貰えたということか」
特に戦闘能力に長けた精霊族を競売の舞台上に上げる際に、断食させて抵抗する力を削ぐやり方は、数多の精霊族絡みの案件を扱ってきたエディアルドは熟知している。糧を得た精霊族が生命力の煌めきを身に纏うことも然り。下世話な話を振られた上に、犬猫のような言い方をされたことにイルは露骨に眉を顰める。
「そんな顔をするなよ、案じているんだ。――――お前、重度の不感症だったろう?クレイグは気にしていなかったしそういう意味でも上手くやれていたようだが、カイはそもそもの経験が浅そうだから驚かせたんじゃないかと思ってな」
確かにエディアルドの表情は、揶揄が多分に含まれつつ本気で相手を案じる色も垣間見えたが、イルは嫌悪感を剝き出しにした渋面を向けた。
「お前には関係ない。……余計な世話だ」
カイがオーリエと共に執務室を出て観音開きの扉が静かに閉まると、自分へと向き直った精霊族の青年に対してエディアルドはふっと相好を崩した。対する精霊族の青年・イルは、王太子であるエディアルドに対しても全く畏まった様子が見られない。精霊族である彼にとって人間の王族など畏敬の対象ではないというのもあるが、それ以前にある種の気安さが二人の間には有った。
「騎士団統括責任者か。偉くなったものだ」
腕を組んで相手を見据えるイルが、小さく鼻を鳴らす。
「昨夜カイが話した、精霊族に詳しい上司とやらも、その上司がどうもエディアルドという名前らしいというのも、身分が高くて偉いというのも、世の中にはお前のような奴がまだいるのかとぎりぎりまで半信半疑だったが、結局お前だったな」
「あっは!……そんな優秀なドッペルゲンガーがいるのなら、ぜひ仕事を手伝って欲しいものだ!」
失笑するエディアルドを冷ややかな目で眺めるイルだが、王太子が笑いに肩を震わせているうちから口を開く。
「……何故カイを選んだ」
気安い雰囲気を纏ったままのエディアルドに反して、ともすればイルは怒気さえ含んで聞こえる低音で問う。
「あんな温室育ちに、お前がこれまでやってきたような生々しい汚れ仕事が務まると思うのか」
現王の子供たちは皆それぞれ王の補佐として様々な任務を受け持っている。そのなかでも正嫡のエディアルドは、立太子以前から王族や警察機構である騎士団でもおいそれと手出し出来ないようなアンダーグラウンドのあれこれを牽制する役目を担ってきた。それは現王が自分の仕事の一番厄介な部分を重点的に指導、継承することでエディアルドを次代の王位継承者として周囲に標榜すると共に、エディアルドの王としての器と手腕を認めていることを意味する。王族と貴族の力の均衡を保つという難しい任務にカイを巻き込むということは、精霊族以外にも富と権力が絡む謂わば薄暗い世界を彼に見せることになる。比較的可視化しやすい精霊族の問題にすら悲しげな顔を見せるあの若者が、それ以上の闇を垣間見るかもしれない任務に耐えられるのだろうか。
「その温室育ちの部分さえ解決出来たなら、この上ない人材になるとは思わないか」
「解決出来るとは思えない」
エディアルドが提示する可能性をイルはにべもなく否定する。
「クレイグですら判断を誤るような任務だ。……お前、カイをあいつの二の舞にする気か」
「第五師団長の話を引き合いに出されると耳が痛いな」
いや、『元』か、と独り言つ王太子に構わずイルは続ける。
「長年師団長を務めた奴でも貶められるのに、歴が浅い上に第一師団配属のお飾りなどに務まるわけがない」
第一師団は王族警護の近衛隊を含む、花形の中の花形といえる。王族に近付けるほどの家柄の良さを求められるのは勿論だが、それ以上に王族の盾となるべく相応の武芸の心得も必須となる。そのような部隊をお飾り呼ばわりは聊か乱暴だが、エディアルドは気にした様子も無く首を傾げた。
「……ふぅん?」
「……何だ」
イルの物言いに物申すどころか含みの有る笑みを覗かせる王太子に、イルは訝しく眉を寄せる。
「いや、なに、相棒が傷付こうが死のうが気に留めなかったお前が、随分と肩入れするなと思ってね」
「人聞きの悪いことを言うな。気に留めなかったことなんて今まで無いだろう」
「なら、何故開口一番にカイの話なんだ。……生き別れたクレイグの現状が気にならないのか」
エディアルドの問い掛けに、それまである程度感情を露わにしていたイルの表情が冷め、言葉を選ぶような間が挟まる。
「…………死んではいないのだろう」
「まぁな」
「……生きているならそれでいい。俺や精霊族と関わらなくなれば身に危険が及ぶことも無くなるだろうし、団を離れた奴に俺が出来る事も無い。だがカイはそうじゃない。……これから危険な目に遭うかもしれない奴を気に掛けて当然だと思うが」
「…………」
淡々と述べるイルをじっと眺めていたエディアルドだが、ふっと短く息をついて眉尻を下げる。
「相変わらず固いというか理屈っぽい奴だな、お前は。……クレイグとは上手くやっていると思っていたが、生きているなら会いたいとは思わないのか」
「上手くいっているように見えていたなら、それはあいつの立ち回りが上手かったんだろう。……向こうが会いたいと思うなら、俺は別に」
当時の彼らを見ていれば、少なからず何らかの情が有ったのは確かだと思う。だが、相手が希望すれば応じるが自分からは近付かない、そんな消極的な言い方をする精霊族の伏した双眸から視線を外し、エディアルドはそれ以上の言及をやめる。彼の性格はよく知っているつもりだった。程度はあれど、人間に飼われたことの有る精霊族はどこか諦めたところの有る者が多い。捕縛の理由が理由なだけに、人間に囲われるということは個や尊厳を否定され、搾取されるということと同義で、奪われ続ければそれだけ主張や執着をしなくなってしまう。己の人格や権利を声高に訴えたところで寧ろ逆効果になると学んでしまうからだ。イルも例に漏れず様々なものを諦めがちで、すぐに手放してしまう方だった。それは恐らく彼を無下に扱うことの無い者に対しても同じで、覚えている限り現役の頃の元第五師団長は、恋愛感情こそ無いものの配下となったイルに対してそれなりに友好的だった筈なのだが、当の本人がこの様子である。故意なのか無意識なのか、人に対して堅固な壁を作ろうとするのは昔から変わらない、とエディアルドは苦笑した。
「まぁいいさ、こればかりはお前と彼との問題だ、私がとやかく言えることじゃない」
落とした視線を上げて、再び机の向こうに佇む精霊族を見遣る。顎の下で手指を組んで肘をつくと、エディアルドはそれまでの軽い声音を改めた。
「さっきも本人に言ったことだが、私はカイに仕事を手伝って欲しいと思っているが、使い潰したいわけではない。……向き不向きで言えば確実に彼には向かない仕事だと判っていての上でだ」
「…………」
「茶化した返しをして悪かったが、お前の懸念はもっともだ。腕が立ち勤勉で家柄も申し分ないのにそれを鼻にかけることも無い。そんな温厚篤実を絵に描いたような男に汚れ仕事を任せることに、躊躇いが無いわけじゃない」
押し黙ったままのイルに、エディアルドはかぶりを振る。
「だが、それを押して、私は私の周りの仕事を彼に任せたいと思っている。大仰な言い方をするなら、未来を見据えて、といったところか。……私はあの男を、いずれ私の側近にと考えている」
イルは僅かに瞠目する。王太子がいずれ、と言うならそれは王になった際を意味する。正嫡であり人柄や手腕も含めて現王の覚えめでたく、最も玉座に近いこの王太子には事実上政敵が存在しない。そんな彼が側近にと望むということは、王の右腕という地位が約束されているようなものだった。
「武芸に関してはそこそこ動けることは判っている。正攻法は勿論、隠密行動もそつなくこなす。それに関しては及第点をやれるが、如何せん経験値が足りない。特に精神面についてだ。私は好んで薄暗い仕事をしているわけではないが、どうしても皆が敬遠するような案件ばかり舞い込むし、間違いなくその辺りを手伝ってもらうことになるだろう」
そこまで淡々と続けてから、エディアルドはふっと目元を緩める。
「この王都が他国からどう呼ばれているか、知っているだろう、イル」
「……天青の宝玉。乙女の涙」
精霊族の唇からぽつりと漏れる綺麗な言葉。だが発した本人の表情は言葉とは裏腹に硬く渋い。エディアルドは小さく笑う。
「グランベルク王都ルヴィエラは美しく愛に満ち溢れている。戦場へと赴く恋人の無事を祈る乙女の涙のように、尊く気高い」
王都は水路にもなっている巨大な堀に囲まれている。湖上に浮かぶようにも見え、グランベルク自体が安定した内政が続いていることから、憧憬を籠めていつしか他国からそう呼ばれるようになっていた。芝居がかった手振りで語る王太子に、イルは冷めた視線を向ける。気にするでもなくエディアルドは眉尻を下げて笑んだ。
「……だがその美しさは上っ面だけのもので、薄皮一枚隔てた内側は酷く醜いことを、私もお前も知っている」
内政が安定し、生活が落ち着いて余裕が出来ると、人々は暇を持て余し始める。健全な方向でその暇を潰せれば良いが、得てして人は刺激を求めるものである。娯楽の種類は少しずつ過激で薄暗いものへとエスカレートしていき、刺激が強いものであればあるほど人々も食い付き金も回ることから、次第にそれが事業規模へと成長していく。そのうち背後に名の有る貴族までもが関わるようになり撲滅も難しくなってくると、為政者にとっては不本意でも、上手く折り合いをつけて共存するしか無くなってくる。そうして現状に至るわけで、エディアルド達政に関わる王族は、決してグランベルクの負の部分を放置しているわけではなく、目の上のたんこぶとして頭を悩ませてきた。
「……カイは、上っ面の小綺麗な世界しか知らない」
善良な一人の国民でしかない大多数の者達は、そんな世界しか知らずに生まれて死んでいく。金と権力と爛れた性に縁も興味も無ければそれで十分幸福に生きていけるし、今のところカイもそちらの側である。
「私の傍で生きるならば、そのような微温湯の世界しか知らないわけにはいかない。乙女の涙と謳われる美しい国に住まう民の為に、汚らしく哀しい、暴力的な面と真正面から向き合わなければならない。本当に涙を流しているのが誰なのかを理解しなければいけない」
余裕を感じさせる表情が形を潜めれば、精悍な造りであることも相俟って王太子の表情に翳りが生まれる。
「私はカイに知って欲しいのだ、このグランベルクという国の深淵を。美醜どちらもこの国であって全てが現実だということを知って欲しい。その上でこの国を愛し、美しいと思って貰えたなら……嬉しいけれどな」
ふっと淡く笑むエディアルドの表情は、再会してからずっと目にしていた食えないものとは異なり、出会った当時の面影を忍ばせて、イルは僅かに目を細める。
「……憎しみしか持たなかったらどうする」
自分という精霊族の存在だけでも酷く心を痛めて憂える青年が、それ以上の闇を垣間見る任務を繰り返すことで、祖国に裏切られたように感じ病んでしまう可能性をイルは危惧している。エディアルドの言い分は理解出来るが、彼が欲する人材にカイがなり得るのかどうかは正直全く分からない。どうかすると懸念の方が大きいし、僅か二日ほどしか接していない現時点では、彼の可能性を信じるほどの裏付けが無い。
「それならそれで仕方がないさ。あれは優しい男だ、国の深淵に憎悪したとて誰にも責められない。国の黒い面を見ても冷静に任務にあたるというのは、ある種の冷たさを持つということだ。優しさ故にその冷たさを持ち得ないのであれば、私としては残念ではあるが、彼の魅力が損なわれるわけではない」
上級貴族の当主であり、温厚な性格で騎士団第一師団というエリート部隊の所属。王国の綺麗な表舞台で生きるだけならばそれで十分だ。ただ、王太子の求める人材ではなかったというだけで。
「とはいえ、お前という少々特殊な精霊族が傍にいることで、これまでの日常とは明らかに異なる日々を送ることにはなるだろう。それがカイにどのような刺激を齎すか……、ではあるがな」
「…………」
たとえカイが王太子からの任務に挫折し、イルを伴って騎士団に赴くということが無くなったとしても、イルとの主従関係は王太子の密命が絡まない個人的なものなので、カイが望まない限りイルとの関係が解消されることは無い。イルとの関係が続くというのは、事情はどうあれ精霊族を囲うということで、更にその個体が希少な古の一族ともなれば、どこからともなく聞きつけた輩に注目されざるを得ない。イルが存在する以上、アシュフォード家は非日常を免れないということになる。
「お前にとっては不本意な状況には違いないだろうが」
エディアルドは椅子の背凭れに背を預ける。小さく軋む音が室内に響いた。
「勝手に居なくなったりするのはやめてやれよ?精霊族のことをあまりよく知らないといっても、カイがお前を迎えたのは彼なりに相当覚悟してのことだ」
「…………分かっている」
目を伏せてイルは昨夜のことを思い出す。カイは財産を全て投げ打ってでも競売でイルを競り落とすつもりだったが、自分のものにするどころか、出来ればイルを自由の身にしようとしていた。それが叶わないと分かると、自分が鎖になりたいと告げた。イルをあの家に置くことが今後どのような現実的な問題を起こすのか、彼はきっと正確に把握してはいない。けれども、今まで家と無縁だった性奴を侯爵家の当主が手元に迎えるということの歪さは、流石に理解していることだろう。それを押してでもイルの安寧を求めた心意気は、よく分かっているつもりだった。王太子が期待を込めて密命を課すとは思わなかったが、元々カイが精霊族の情報を集めていた理由が自分であることに、イルは罪悪感に似たものを禁じ得ない。そんな澱のような気持ちに一石を投じる形で、不意にエディアルドが声を掛けた。
「ときに、イル」
顔を上げるイルに王太子の口端が弧を描く。
「話は変わるけどな。……競売に掛けられていたにしては毛艶が良いところを見ると、カイからもう糧を貰えたということか」
特に戦闘能力に長けた精霊族を競売の舞台上に上げる際に、断食させて抵抗する力を削ぐやり方は、数多の精霊族絡みの案件を扱ってきたエディアルドは熟知している。糧を得た精霊族が生命力の煌めきを身に纏うことも然り。下世話な話を振られた上に、犬猫のような言い方をされたことにイルは露骨に眉を顰める。
「そんな顔をするなよ、案じているんだ。――――お前、重度の不感症だったろう?クレイグは気にしていなかったしそういう意味でも上手くやれていたようだが、カイはそもそもの経験が浅そうだから驚かせたんじゃないかと思ってな」
確かにエディアルドの表情は、揶揄が多分に含まれつつ本気で相手を案じる色も垣間見えたが、イルは嫌悪感を剝き出しにした渋面を向けた。
「お前には関係ない。……余計な世話だ」
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