氷剣の皇子は紫水晶と謳われる最強の精霊族を愛でる

梶原たかや

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1話◆白皙の紫水晶

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 湯殿の場所は昨夜案内されて知っていたのもあって、イルは簡単に衣服を羽織って自分の足で水を浴びに行った。湯を用意させるとカイは慌てたのだが、冷たい水で身を清めることは慣れていると事も無げに告げてイルは部屋を出てしまう。そうしてさっさと自身を水洗いすると、イルは部屋着とは別に用意されていたシャツとズボンを身に着けて、元来た道をあのゲストルームに向かって歩んでいた。昨夜は遅い時間に館に着き、時間を掛けて話し合った上にこれまた時間を掛けて睦み合ったのだから、きっとカイは昼頃まで眠るのだろうと漠然と思っていたが、予想に反して起きた時間は早朝と呼べる時刻で、眠りが浅いのか、はたまた毎日この時間に起きているという習慣故のものなのか、大したことではないが思い巡らせてしまう。何となく後者だろうな、と思った。
「――――……」
 ふと、歩きながら窓の外へと視線を投げ、イルはその場で立ち止まる。雨に煙る深夜に訪れた上に、すぐ建物の中に入った所為で分からなかったが、カントリーハウスの裏側に位置する窓の外は、よく手入れされた緑が生い茂り、瑞々しい花を付けている草木も多かった。窓越しに眺めながらゆっくりと歩みを再開させるが、やがてすぐに窓の並ぶ壁側に、外へと出られる扉が現れる。イルは再び立ち止まると扉へと向き直り、そろりと片手を持ち上げる。躊躇いがちに伸ばしては一度止め、意を決したように片側の取っ手を掴んでゆっくりと手前に引く。鍵の掛かっていない扉は難無く開いていった。半分ほど開けた扉からイルは外へと出ると、石造りの広い道を歩んでいく。綺麗に刈り込まれたトピアリーを幾つも交えた美しいパーテア。華美になり過ぎない落ち着いた模様が施された中を進んでいくと、丁寧に整えられた垣根や下草に馴染む形で、零れんばかりの花々が咲き乱れている。全て葉や花芯に汚れも傷みも無いものばかりで、病気を防いで細やかに世話をされているのに加え、花がらや枯れた葉が綺麗に取り除かれている。
 広い裏庭を更に進めば、高い垣根に囲まれた一角に出る。そこには淡い色のガゼボが建てられていて、屋根に触れるほどに咲き乱れた花が、ひらりひらりと綺麗な花弁を落としていた。よく見ればガゼボの周囲は幾つかの木々に囲まれていて、今花を付けているもの以外にも、どの季節でも代わるがわる花が絶えないよう花木を選んで植えられていると、見る者が見れば判る。イルはガゼボの手前で立ち止まると、軽く上を向いて目を閉じた。そよそよと優しい風が頬を撫で、微かな雲雀の声が耳を擽る。花を湛えた木々が齎す木漏れ日が瞼の向こうで揺らめいて、さながら水面の煌めきのよう。随分と長い間無縁だった環境がそこには在った。思えば競売の準備の為に、いつから代り映えのしない一室に閉じ込められていたのだろう。その前に囲われていたときも自由は無かったし、その前も、そのまた前も、様々な場所を転々としてきた人生の殆どが居心地の良い緑とは縁が無かった。貴族に囲われることが多かった為、豪奢な庭は数限りなく目にしてきたが、これほどに明媚でありながら作り手の主張が嫌味に強過ぎない庭は初めてかもしれなかった。
「見ない姿だな」
 掛けられた声に、イルは特段驚くでもなくゆっくりと目を開いた。声が掛かるよりも前に、軽く尖った両の耳はこの場への新たな訪問者を捉えていたからだ。否、訪問者というのは正確ではないかもしれない。急くでもなくそっと振り向いたイルの視界には、恐らくこの庭に元から居たのであろうと思わせる身形の男が映る。
「……もしかして、夕べここに来たっていう精霊族か」
 厚手のシャツとズボン、軍手につばの付いた帽子。土や草の汁であちこち汚れた厚手のエプロンのポケットにはスコップや剪定用の鋏などの柄が覗いている。口元に髭を湛えた初老の男は、帽子のつばを片手で少し持ち上げながらしげしげとイルを眺めた。その視線はそれなりに不躾なものではあったが、イルにとっては不快なものではなかった。情欲を孕み品定めするようなものではないからだろう。
「そうだ」
 イルが端的に返すと、男は自身の顎を一撫でする。視線は依然としてイルに定めたまま、初老の男はふむと鼻を鳴らした。
「夜遅くに来てこの時間じゃ、まだ屋敷のこともよく分からんだろう。ここには迷い込んだのか」
「……水を浴びて、昨夜眠った部屋に戻る途中でここに出た」
「まぁ、皆が寝静まった後なら、水を浴びるのも起きてからになるだろうな。じゃあお前さん、ここには興味が有って?」
 敢えて詳細を語らなかったイルだが、男は勝手に、イルが到着と共に寝入り、朝になってから湯殿を使ったと思い込んだようだった。
「緑が綺麗だったから」
 そっと薄紫の視線を周囲の青々とした垣根に投げる。ほう、と男は息をついた。
「よそから来た者にそう言ってもらえると庭師冥利に尽きる。どこか好きな所は有ったかい」
 男の問いにイルは思案して視線を彷徨わせる。整然とした隙の無いパーテアも、色とりどりの立体的なボーダーガーデンも、華やかなオールドローズのアーチも全て見事なものだが、一際目を引いたのはやはりここだと思えた。
「……この辺りが好きだ」
 ガゼボを振り向く形でイルは答え、そっと片手を伸べて舞い落ちる花弁を一つ受け止める。
「無造作に咲いているように植わっているが、どの木も手入れが行き届いている。……この辺りだけではなくて、庭全体から生命力を感じる」
「生命力?」
 イルの言葉に男はきょとんとする。どう説明したものかとイルは思案するが、感覚的なことを伝えるのはなかなかに難しい。
「……生気に満ちているというか。深い森の息吹に似たものを感じる。……居心地が良い」
「……ほう」
 感嘆して初老の男は思わずといった様子で声を上げた。イルを見る視線が途端に熱を帯びる。
「お前さん、生命力……生気?と言ったか?そういったものが分かるのか。俺が作った庭はそういうものに満ちているのか」
 改めて男を振り向けば、彼は瞠った目にきらきらとした光を湛え、イルの言葉を待っている。
「精霊族は森で生まれ、半ば大自然と同化して生きてきた種族だ。森で過ごすことで英気を養うことも出来る」
 言外に、その場に満ちる自然由来の生命力の感知に長けているのだと伝える。彼が理解しているかどうかは判然としないが、じっと視線を男から定められたまま、イルは広い裏庭のあちこちへと視線を巡らせた。そよそよと流れる風が心地良く、朝露に濡れた緑の香り、周囲に漂うまろやかな花の香りが鼻腔を擽る。
「……ここは明らかに人間の手が入っている所ではあるが、人間の手が入ることで逆に緑に活力が宿る稀有な所だ。……お前の手がそれを齎しているんだろう」
「嬉しいこと言ってくれるね」
 初老の男にしてみれば、イルの外見は生意気な言い方をする若造に過ぎないだろう。それでも気分を害したり警戒するといった様子は見られず、それどころか微かに目元に笑みを乗せてイルを眺めている。作った庭を褒められたのも有るだろうが、恐らく生来の質であると共に、精霊族に対する偏見というものが無いのだ。精霊族を囲う貴族階級の家の使用人達は、イルの知る限りほぼ全てが精霊族に対して差別的で酷薄だった。主人がそう扱うが為に、精霊族は性奴であり淫魔であると彼等は覚えていく。使用人の入れ替えが有ったとしても、古参によってその認識が伝播する。精霊族は、それを飼う貴族の家に於いて、淫靡で汚らわしい存在だという印象を払拭できない。昨夜馬車を駆っていたマルクもそうだが、これだけ大きな貴族階級の邸宅で働く者から、精霊族である自分に対し、蔑む類の視線や言葉を僅かも向けられないというのは、イルにとっては初めてのことだった。
「ここに居たのか、イル」
 石畳を敷いた細い小道を抜けて、垣根の向こうからカイが姿を現す。彼もまた湯を浴びて着替え、こざっぱりとしていながらも上品な印象を与えるドレスシャツとボトムに身を包んでいる。煙る梔子色のふわりとした髪は朝陽を浴びて白金に近付き、濡羽色のイルの髪と対比のように映る。庭師と共にガゼボの前に佇むイルに微笑み掛けながら、カイは初老の男を手先で示した。
「イル、こちらはニコライ。祖父の代からこの家の周囲の草木全般を管理してくれているんだ」
 そして今度は庭師に対してイルを示す。
「ニコライ、彼は精霊族のイル。今日からこの家で暮らしてもらうことになった。よろしく頼むよ」
「話には聞いていたが、精霊族というものは予想以上に綺麗な生き物なんだな、坊ちゃん」
 イルを眺めてしみじみと自身の顎を撫でながら感想を述べるニコライに対し、カイはほんのりと耳先を染めつつ決まり悪そうに視線を落とす。
「……何度も言うが、その坊ちゃんはいい加減やめてくれないか……。俺はもう家督を継いでこの家の主なのだし……」
「俺にとって坊ちゃんはいつまでだって坊ちゃんさ」
 しれっと言い切るニコライだが、カイの祖父の代から仕えている彼にとってカイは孫のような慈愛の対象に違いない。かといって主人として敬愛の対象ではないかというとそんなことも無いようで、決してカイを軽視する空気は無い。
「そうそう坊ちゃん、精霊族ってのは凄いんだな。庭を眺めただけで、ここには森に似た生気が有ると言うんだ」
「森?」
 ニコライの言葉をカイは繰り返し、イルを見遣る。イルは無言で小さく一つ頷いた。
「鋏は入れるし病虫害を防ぎもするが、俺が目指すのは森林浴に近い空気に満ちた庭だ。……それが伝わったようで嬉しかったよ」
「言っただろ、ニコライには緑の指が有るんだって。それが証明されたじゃないか」
 ふふ、と自分のことのように誇らしげに笑むカイに、イルは緩と目を細める。柔らかな日差し、森に似た緑の香り、和やかな会話。これまで経験したことの無い穏やかな空気が流れている。そんな中に自分は場違いなようにも思われるが、カイもニコライも自分がここに居ることが当然のように接してくれる。今までに無い環境に戸惑いの方が強いものの、今はこの空気に甘んじていたいと思った。
(……たとえ、すぐに認識が変わるとしても……)
 使用人の彼等はイルの生態をまだ知らないだけで、そう遠くないうちにイルがカイを食い物にしている事実を知るだろう。その際に、この家の主であるカイに敬意を籠めて仕えている彼等が、イルに対して今のような優しい接し方をしてくれるとはとても思えない。
「イル」
 物思いに耽るイルの心境など知る由も無く、カイは声を掛けて促すべく手を伸べる。
「そろそろ朝食の用意が整う頃だから行こうか。食事が終わったら騎士団屯所に連れていきたい」
「騎士団屯所……?」
「俺の職場だよ。君を上司に報告したくて」
 帽子を取って会釈するニコライに見送られながら館に向かって歩き出しつつ、イルは怪訝な視線を相手に向ける。
「俺をお前の上司に報告する必要が有るのか……?」
 氷剣の皇子の異名を持つ騎士であるカイが、騎士団所属であることは想像に易く、なんなら古城からの追っ手を一閃した際にその名を聞いた時から予想していた。それはいいとして、一介の貴族が精霊族を一人手に入れたからといって、騎士団に、それも貴族であり恐らく若くして相当の立場に在るカイにとっての上司とやらにわざわざ報告するものだろうか。イルのそんな疑問に、カイは庭園から館に入る扉を開けて相手を中へと導きながらさらりと答える。
「君を見付けるために、手を貸して下さった方だから」
「……成程」
 直属ではないが、精霊族を複数所持している上司が居る、というのは昨夜聞いたことだ。カイに齎した精霊族の情報を鑑みるに、偏見と悪意を含まない客観的な知識を有している人物であるだろうことは見当がつくし、行動するにあたってカイがその人物を頼りにしたのも頷ける。ならば確かに、目当ての精霊族を無事に手に入れられたと報告もするか、と納得した。
「お前の職場に行くのは分かった。……それと、朝食……人間の食べ物は俺は要らない。用意してもらって申し訳ないが」
 辞退の申し出にカイは思わず廊下を歩む足を止めてしまう。彼が止まったことでイルもその場で立ち止まり、カイを見遣る。
「……そうか、すまない。君の糧は……そうだったな」
 昨日の今日で、イルが何を糧とするのかを忘れたわけではない。ただ、あまりにもイルが人間と変わらぬ外見を持つが故に、人間の食べ物も普通に食べられるのだろうと思い込んでいた。微かに目元を染めながら、カイは眉尻を下げる。
「……人間の食べ物は何も受け付けないのか」
「受け付けないというか、喉を通った後は体内で消え去るから意味を成さない」
 それを耳にして、カイはふと沸いた疑問を口にする。
「……砂を食んでいるようだとか、口には出来るけど後から具合が悪くなるとか……」
「そういうのは無い。味覚は人間と変わりないし、糧にはならないが普段から人間と食事を共にする同胞も居ると聞く。……俺は単に無駄なことをしたくないだけで……」
「食べられはするんだな。それで体調が悪くなることも無いと」
「…………まぁ」
 訊かれたことに答えていくうちに嫌な予感がしてきたようで、余計なことを言ったと思ったのか、イルの口調と顔付きが警戒を孕んだ微妙なものになっていく。それとは裏腹に良いことを聞いたといった風にカイはにこやかに目を細めた。
「じゃあ、俺の朝食に付き合ってくれないか。無理に食べる必要は無いから」
「……それなら……」
 無理に食べなくていいという言葉を添えたことで、訝りつつもイルは了承の言葉を口にする。満足げにカイはイルを伴って暫く廊下を進んだ先の扉を押し、落ち着いた色の内装の部屋へと入った。数名が席に着くことの出来る少し広めのテーブルには二人分の朝食が並び、部屋の隅には髪をきっちりと結って纏めた清潔感の有るハウスメイドが数名控えている。会食用のダイニングというには小さな部屋で、使われている調度品や食器が瀟洒な品物ながらも華美ではないことから、恐らくここはカイが日常的に食事を摂る部屋として使用しているのだろう。
「掛けてくれ」
 フットマンが引く椅子に座りながらカイは相手を促した。二人が席に着くタイミングで用意された温かいパンとスープが運ばれ、メイド達が二人分の熱い紅茶を淹れてテーブルに置くと、カイは謝辞を述べてから使用人達を部屋から下がらせる。
「みんなが居たら君だけ食べないというのも気が引けるだろう。気にしないでそこに居てくれ」
 食事を始めたカイをじっと見つめ、席に着きながらもイルは未だに相手の思惑を量りかねている。
「……食べない俺が居て、楽しいのかお前」
「勿論」
 にこりと楽しげに笑むカイの真意が解らず戸惑うイルだが、マイペースに食事を続けるカイを眺めているうちに、考えても仕方がないという境地に達したらしい。豊かな芳香と共に柔らかい湯気を立てるティーカップを取ると、唇を湿らせる程度に傾ける。
「何だか友人が訪ねてきてくれたみたいだ」
 僅かなりとも食事の真似事をしてくれるイルに嬉しくなったのか、カイが心持ち声を弾ませる。ふと、ある疑問が生まれてイルはカップを受け皿に置いた。婚約者を二年前に亡くしたとは昨夜聞いていたが、親兄弟などの話はまだ耳にしていない。成人を過ぎて間もなく、この若さで当主の地位に就いていることを思えば何となく察するものが有るが、それでも確認の意味も込めてイルは問い掛ける。
「……一緒に食べるような家族は」
 きょとんとした顔を見せたカイだが、口内のものを飲み込んでからそっと返す。
「居ないんだ。……俺は一人っ子で、両親は十年以上前に亡くなった。それからは祖父と一緒に食事をしていたけれど、成人して家督を継いだ頃に別宅に移ってしまわれて。……後はずっと一人で食事をしている」
「…………」
 給仕を担う使用人が同室していたとしても、席について食事を共にする相手でなければ同じ体験や気持ちを共有していることにはならず、結局孤独でしかない。成人した頃から一人だというなら、少なくとも二年は日常的に一人で食事を摂っているということになる。騎士団の任務は多岐に渡り、部署や部隊にもよるが基本的に拘束時間が長く忙しい。不真面目な者ならば適当に上手くサボって遊ぶ時間を作るのだろうが、きっとこの男はそんなことはしない。婚約者の喪失を紛らわすほど仕事に没頭していた彼には、友人との会食の機会など殆ど無かったことだろう。イルは暫し思案した後、小さく息をついて整然と並べられたカトラリーを外側から一つ手に取る。
「…………イル?」
 スープを一口、パンを千切って一口、オムレツにスプーンを入れて一口。綺麗な所作でゆっくりと人間の食べ物を口にするイルに、カイは驚いて言葉を失う。無理に食べさせないということで了承して来てくれた食卓で、要らないと言った本人が黙々と食事をしている。自らの言葉を覆して食べ始めたイルを不思議そうに眺めていたカイだが、同じテーブルで食事する相手を見つめているうちに、やがて胸の奥に沸々と温かなものが生まれ始める。そんな相手に気付いてか、料理に落とされていたイルの視線がちらりとカイを見上げる。サラダに入っていた若菜を咀嚼して嚥下し、イルは再び視線を落とした。
「……今回だけだ」
 そんな一言をぽつりと告げるだけして、イルは再び黙々と食事を続ける。素っ気ない態度ながらも、その真意に触れた気がしてカイの胸にじんわりとこみ上げてくるものが有る。
「――――……有難う」
 目の前の人に微笑む。忙しさにかまけて忘れかけていた、誰かと食事を共にする小さな喜びを思い出させてくれた人。彼が今回だけと言うのなら、今後の機会は無いのかもしれない。でも、それでもいいと思えた。
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